第4話 名前のある仕事
アルヴァレト王都の一等地に居を構えるグランツ帝国大使館は、堅牢な石造りの建物だった。
華美な彫刻や流行の装飾ばかりを追い求める昨今の王宮とは違い、大使館の内部は実務的で無駄がなく、どこか清々しいほどに整然としていた。案内された応接室のソファに腰を下ろし、私は微かに高鳴る鼓動を落ち着かせようと小さく息を吐いた。
昨日、王立紋章院の受付に届いた私個人宛ての書状。そこには、特命大使カシアン・グランツ殿下の名で『専門的知見に基づく業務相談の依頼』が記されていた。
ほどなくして、重厚な扉が開いた。
「待たせたな、アーレン嬢」
現れたカシアン殿下は、一昨日の夜会のような豪奢な礼服ではなく、仕立ての良い漆黒の執務用軍服を身に纏っていた。胸元の勲章も最小限に抑えられ、一人の外交実務者としての冷徹で知的な空気を漂わせている。
私が立ち上がって礼をとろうとすると、彼は手でそれを制し、対面のソファに腰を下ろした。
「堅苦しい挨拶は抜きにしよう。さっそく本題に入りたい」
カシアン殿下はそう言うと、従者に持たせていた革張りの鞄から数枚の羊皮紙を取り出し、テーブルの上へと滑らせた。
私はそれが、一昨日の事件に関する何らかの意見書か、あるいは非公式な謝礼の小切手だろうかと予想していた。しかし、差し出された書面に目を落とした瞬間、思わず息を呑んだ。
「これは……雇用契約書、ですか?」
「そうだ。期間は本日から、我が使節団が王都での初期日程を終えるまでの五週間。身分はグランツ大使館付きの『外部意匠顧問』とする。報酬額はそこに記載した通りだ。不足があれば言ってくれ」
「その先には、この王都で五国親善会議がある。開催は今から二か月ほど先だ。会議の準備にも君の力を借りたいが、そちらは改めて条件を相談しよう」
五国分の礼装と贈礼品。王太子宮の引き継ぎ書に残した、未確認の旗幕を思い出した。私が去っても、会議の準備は続く。
私はまず、目の前の五週間の契約へ視線を戻した。
紋章院への休職届と外部業務の許可は、今朝受理された。王太子宮の未公開資料は院へ返し、こちらへ持参したのは私物と公刊資料だけだった。
提示された報酬額は、王太子宮での私の月給を遥かに凌駕する破格のものだった。だが、私の目を釘付けにしたのは金額の欄ではない。
職務規定と権利の項目に、はっきりとこう記されていたのだ。
『乙は大使館の意匠決定に対して助言権を有する』
『乙が作成した意匠監察報告書には、必ず乙自身の署名を明記し、その専門的判断の成果と責任の所在を記録として永続的に保存する』
成果物に、私の名前を書く。
王太子宮にいた頃、私の書いた報告書はすべて「王太子宮からの通達」というフェリクス殿下の名前の影に隠され、処理されてきた。私はあくまで「未来の王太子妃」という装飾品の一部であり、私の専門性は彼の優秀さを彩るための便利な絵の具でしかなかった。
だからこそ、フェリクス殿下は私を簡単に「無意味」だと切り捨てることができたのだ。
「……大使殿下。私は一昨日、王太子殿下から婚約を破棄されたばかりの身です。そのような女を貴国の大使館が雇い入れれば、王宮内で妙な憶測を呼びかねません。なぜ、私なのですか」
「私が求めているのは、王太子の婚約者という肩書きではない。あの夜の会場で、誰よりも早く意匠の構成と文脈を読み解き、的確な『使用停止勧告書』を作成した専門家だ」
カシアン殿下は、一切の同情や甘さを含まない、真っ直ぐな瞳で私を見つめた。
「あの勧告書には、感情論が一切なかった。法的根拠と構成要素だけが簡潔に記されていた。私はあの書類を見た瞬間、我が使節団の滞在期間中、絶対にこの書き手を手元に置かねばならないと判断した。これは慈善事業ではない、純粋な国益のための投資だ」
感情ではなく、事実として私を評価している。
そのことが、どんな慰めの言葉よりも私の背筋を真っ直ぐに伸ばしてくれた。
「……光栄なお言葉です。ですが、私が貴国のお役に立てるか、まだ証明できておりません」
「ならば、最初の仕事を頼もう」
カシアン殿下は微かに口角を上げると、契約書の下から一枚の小さなカードを取り出した。
それは、上質な厚紙に美しい金色の箔押しが施された招待状だった。
「近日中に、アルヴァレトの貴族から我が使節団の幹部たちへ送られる予定の歓迎祝宴のカードだ。事前に見本が届いたのだが……君の目にはどう映る?」
私はカードを手に取り、意匠の細部を観察した。
縁取りに華美な装飾はなく、中央には金色のリボンが結ばれた図柄が描かれている。おそらく、アルヴァレト側の贈り主は「両国の絆を結ぶ」という友好的な意図でこのリボンを選んだのだろう。
だが、私の目はリボンの『構成』にわずかな違和感を覚えた。
「……結び目が、気になりますね」
「ほう。どう気になる?」
「この図案のリボンは、片方の端を引けばすぐに解ける『引き解け結び』の構成で描かれています。我が国では単なる見栄えの良い飾りとして多用されますが、グランツ帝都の祝い状の慣習において、すぐに解ける結び目は『病気平癒』など、二度と繰り返してほしくない事柄にのみ用いられるはずです」
私は頭の中の知識を引っ張り出しながら、言葉を紡いだ。
「永続的な友好や同盟を祝う外交の場において、簡単に解ける関係を示唆するこの意匠は、不適切と言わざるを得ません」
「正解だ。さすがだな」
カシアン殿下は満足そうに頷いた。
「では、君ならどうする? このカードの受け取りを拒否し、白紙から別の意匠で作り直させるか?」
試すような問いだった。
私は首を横に振った。専門家とは、ただ間違いを指摘して切り捨てるだけの存在ではない。
「いいえ。意匠を構成する五要素のうち、この場合の『文脈』、すなわち贈り主の意図は、添え状では友好とされています。絆を結ぶという意図自体は素晴らしいのですから、図案を全否定する必要はありません」
「ならば、どう修正する」
「印刷所に指示を出し、リボンの描き方を『本結び』に変更させます。結び目の形を左右対称にした本結びの図柄であれば、贈り主の友好の意図を生かしたまま、今回の祝いに適した図柄になります。担当官から先方の制作意図を確認していただき、修正案をお届けしてはいかがでしょう」
殿下が卓上の冊子を開いた。帝都の儀典局が出した、今季の祝い状の見本帳だった。
私は本結びの頁を確かめ、助言書へその出典番号を書き添えた。
ただ禁止するのではなく、相手の意図を汲み取り、形を変えて着地させる。
それが、私がずっと王宮でやりたかった、そしてフェリクス殿下に「難癖」だと一蹴され続けた仕事だった。
私の答えを聞いたカシアン殿下は、ふっと息をつき、ソファの背もたれに深く体重を預けた。
「……素晴らしいな。多くの者は『リボンは不作法だ、無難な花にでも変えておけ』とだけ結論を言う。だが君は、相手の意図を検証し、結び目という構成をいじることで、我々と贈り主の双方の顔を立ててみせた」
カシアン殿下はテーブルの上の羽ペンを取り上げると、流れるような手つきで契約書の雇用主欄に自らのサインを書き入れた。
そして、ペンを逆さにして私へと差し出した。
「サインをしてくれ、エステル・アーレン。私はあなたの結論ではなく、その根拠を買いたい」
差し出された羽ペンを受け取る私の手は、微かに震えていた。
自分の名前で仕事をし、自分の根拠が正当に評価される。
王宮の暗い書庫で埃を被っていた私の技術が、初めて一筋の光を浴びた瞬間だった。




