第3話 最後の監察票
建国祭の夜会が明けた翌朝。アルヴァレト王宮の敷地の端に位置する『王立紋章院』の書庫には、カビと古いインクの匂いが静かに漂っていた。
私は分厚い樫の机に向かい、山積みになった書類と格闘していた。王太子宮付き意匠監察官としての出向解除手続きを進めるためだ。
昨夜の首飾り事件の余波は、一晩明けてさらに大きくなっていた。フェリクス殿下は朝一番からグランツ帝国への公式弁明書の作成に追われ、宮内府の儀典担当官たちは式典の進行変更と他国への根回しで、蜂の巣をつついたような騒ぎになっているらしい。
無知がもたらした当然の帰結である。だが、私に元婚約者の失態をあざ笑う趣味はない。
私には、意匠監察官として果たすべき最後の義務が残されていた。
「さて、未処理の案件は……あと三件ですか」
独り言を呟きながら、私は保留中の図案書を引き寄せた。
私が今日中に仕上げなければならないのは、後任者のための『引き継ぎ書』だ。現在進行中の意匠照会、保留案件、そして直近で変更された各国の現行規則の更新箇所をまとめたリストである。
一件目は、五国親善会議の大広間に掛ける旗幕だった。費用の決裁はすでに済んでいるが、監察用の図案はまだ届いていない。
受付簿の該当欄を開き、その番号を引き継ぎ書へ写す。『図案未着。現物と現行規則の照合が済むまで、使用保留を勧告』。発注済みと確認済みは、別のことだ。
残る二件の照会先を確かめ、最後に、来月の使節歓迎に使う卓上布へ取りかかった。
図案に問題はない。ただし、送付先が「東部海域」としか書かれていない。島が違えば、歓迎の色も違う。
私は欄外に『使節の出身島を確認。回答が来るまで発注保留』と記した。未確認のまま、安全とも危険とも書けなかった。
引き継ぎ書の最初の頁には、急ぐ順に三件の案件名と照会先を並べた。各国の規則が変わった箇所は、別紙へ。その中には、七年前に変わったグランツの政治標章も含めた。
書類の厚さで危険を伝えるのは難しい。せめて一枚目だけで、次にすることが分かるようにしたかった。
昼過ぎ、私は完成した分厚い引き継ぎ書の束を抱え、宮内府の執務室を訪れた。
応対に出たのは、宮内府副長官を務めるゲオルク・ハーゼン侯爵だった。恰幅が良く、常に計算高い目を細めている彼は、王太子の進める「儀礼簡略化改革」の強力な推進者でもある。
「これはこれは、アーレン嬢。昨夜の騒動は聞き及んでおりますよ。殿下も若さゆえ、少々感情的になられたのでしょう。……それで、この書類の山は?」
「王太子宮付き意匠監察官の業務引き継ぎ書です。未処理の照会案件と、直近の他国意匠規則の更新箇所、および現在発注されている調達品の修正勧告をまとめております」
私が書類の束を執務机に置くと、ゲオルク副長官は迷惑そうに眉をひそめた。彼は書類の表紙をパラパラと捲っただけで、ろくに中身を読もうともしない。
「ご苦労なことですが……そこまで細かく残していただく必要はありませんよ、アーレン嬢」
「必要ない、とは?」
「殿下も仰っていたでしょう。我が国は新しい時代に向けて、古臭い儀礼を簡略化していく方針なのです。実のところ、宮内府では『意匠監察』という職務そのものを、手間の掛かる重複業務として廃止する方向で調整しておりましてな」
私は耳を疑った。
「廃止……? お待ちください。昨夜、事前確認を怠ったことでグランツ帝国との間にどのような事態が起きたか、ご存知のはずです。専門家の監察工程を削れば、再び同じような外交事故が起きます」
「昨夜の件は、運が悪かっただけです。それに、意匠の意味などというものは、見る者の主観によっていくらでも変わる曖昧なもの。明確な基準などありはしない」
ゲオルク副長官は、まるで世間知らずの小娘を諭すような口調で言った。
「それに、図案の確認をいちいち外部の紋章院へ照会していては、調達の速度が落ちる。これからは宮内府が一括して審査と調達を行い、王宮の規格を統一していく。あなたの残してくれた細かすぎる難癖のリストは、改革の邪魔になるのですよ。……ああ、書類はそこに置いておきなさい。後で保管庫へ回しておきましょう」
暗に「読まずに捨てる」と宣言されたに等しかった。
「受領だけは、こちらの控えにお願いいたします」
差し出した紙に、ゲオルク副長官は面倒そうに受領印を押した。私は頁数と日付を確認してから、一礼した。
控えは紋章院に残す。誰が受け取り、何が引き継がれたかまでが、私の仕事だった。
これ以上何を言っても無駄だ。彼らは昨夜の事故から何も学んでいない。制度の欠陥ではなく、単なる不運として処理しようとしている。
王立紋章院の自室に戻った私は、どっと押し寄せてきた疲労感に椅子に深く沈み込んだ。
王太子宮付きの職を辞したことに後悔はない。だが、私の手で未然に防いでいた事故の数々が、これからは何の審査も経ずに王宮中へばら撒かれることになる。
私が意地を張って辞任したせいで、将来的な危険を放置してしまったのではないか。
そんな自責の念に駆られていると、背後から声をかけられた。
「酷い顔をしているわね、エステル」
振り返ると、王立紋章院の上席研究官であり、私の師でもあるマルタ・ヴァインが立っていた。銀色の髪をきっちりと結い上げた彼女は、厳しい眼差しの中に確かな温かさを秘めた人だ。
私はマルタに、宮内府でのやり取りをありのままに報告した。引き継ぎ書が棚上げされたこと、そして監察職そのものが廃止される方向であることも。
「……私の辞任が、かえって王宮の無防備さを加速させてしまったのかもしれません」
私が弱音を吐くと、マルタは容赦なく鼻で笑った。
「思い上がらないことね。あなたが残ろうが辞めようが、あちらは最初から監察工程を削るつもりだったのよ。都合のいい『主観』という言葉を使って、自分たちの無知と怠慢を正当化しているだけ」
マルタは私の肩にポンと手を置いた。
「引き継いだ責任と、読まなかった責任は別問題よ、エステル。あなたは専門家としての倫理を全うし、情報を提示した。それを無視して事故を起こすのなら、それは宮内府と王太子の責任よ。あなたが背負う必要はないわ」
「マルタ先生……」
「それに、役職を失ったからといって、悲観することはないわ。あなたの頭の中に叩き込まれた知識までは、誰にも奪えないのだから」
マルタの毅然とした言葉に、私は胸の奥にあった澱がすっと溶けていくのを感じた。
そうだ。私は「王太子妃候補」だったからあの仕事をしていたのではない。一人の専門家として、自らの足で立ち、学び、意匠と向き合ってきたのだ。
肩の荷が下りたような感覚と共に、私は自分の机の私物を片付け始めた。出向解除は受理された。外国機関の仕事を受けるなら、紋章院にも休職を届け出なければならない。
昨夜の件を聞いた父からは、王宮への抗議を出す、と短い手紙が届いていた。その後に一行だけある。
『戻りたい場所は、お前が決めなさい』
手紙は、母の刺繍見本と同じ鞄にしまった。
「アーレン様。エステル・アーレン様はいらっしゃいますか」
荷造りが終わりかけた頃、紋章院の受付の使いが息を切らせて書庫へ飛び込んできた。
使いの者は、一枚の重厚な封筒を両手で恭しく持っていた。
「宮内府からではなく、外部から直接、アーレン様個人宛てに急ぎの書状が届いております」
王立紋章院の組織宛てではなく、私個人の名前宛ての書状など珍しい。
受け取った封筒は、分厚い上質な羊皮紙で作られていた。ひっくり返すと、そこには見覚えのある意匠の蝋封が押されていた。
剣と鷲を組み合わせた、力強くも洗練された紋章。
「これは……」
昨夜、私の書いた使用停止勧告書の『職員番号』をじっと見つめていた、あの漆黒の瞳が脳裏をよぎる。
グランツ帝国大使館、特命大使カシアン・グランツ。
封を切ると、中には美しい筆致で書かれた一枚の便箋が収められていた。それは社交辞令の挨拶でも、昨夜の事件に関する問い合わせでもなかった。
明確な条件と報酬額が記載された、私個人に対する『正式な業務依頼状』だった。




