第2話 その首飾りは外してください
「フェリクス王太子殿下。その首飾りを、どのような意図でお選びになったのか伺いたい」
カシアン殿下は、差し出された歓迎の手を取らなかった。
背後の書記官が答辞を閉じたまま待っている。帝国騎士の一人が使節団の前へ出かけ、皇弟の手の動きで止まった。
「意図、ですか。隣国風の優れた細工だと聞いております。美しいでしょう」
「花弁をお数えになりましたか」
フェリクス殿下の笑みが動かなくなった。
花びらの数など無意味だと、ついさっき私へ言い放ったばかりだった。
「花は花でしょう。美しい品を贈るのに、それほど細かな――」
「では、王国としての意思表示ではない、と仰るのですね」
祝祭の広間で、食器の触れ合う小さな音がした。それきり、誰も動かなかった。
リリア嬢が胸元へ手を当てている。
私は二人の前へ進み、礼を取った。
「王太子宮付き意匠監察官、エステル・アーレンと申します。判断の根拠をご説明してもよろしいでしょうか」
「エステル。お前は辞めると言っただろう」
「出向解除を願い出ました。今夜の引き継ぎが済むまでは、私の職務です」
カシアン殿下が、私へ向き直った。
漆黒の瞳は厳しかったが、急かす気配はない。
「伺おう。問題となるのは、どこだ」
私はリリア嬢に声をかけた。
「触れずに、お示しします。少しだけ、そのままで」
彼女は固く頷いた。
私は鉛筆の先を首飾りへ近づけず、手帳に写した図を開いて見せた。
「まず、黒い花弁が七枚あります。一般的な六弁の装飾とは違います。次に、この銀の環は下が閉じていません」
近くにいた儀典官が首を伸ばした。フェリクス殿下も、今度は花を見た。
「この二つが組み合わさり、公式の場で用いられた時、グランツの現行規定では政治標章に該当します。七年前の条約改定後に定められた、帝位否認派の標章です」
「否認、とは」
リリア嬢が、ほとんど息だけの声で聞いた。
「現皇帝の正統性を認めない、という意味です」
彼女の手が首飾りから離れた。
周囲の貴族が一斉に半歩退き、黒い花だけが灯りの下に残った。
「そんなことは知らなかった!」
フェリクス殿下が声を上げた。
「これは流行の品だと聞いたのだ。反逆などという大袈裟な話をするつもりはない!」
私は儀典官へ目を向けた。
「先ほどの勧告書を、お願いします」
差し出された紙には、使節団入場前の受領時刻と儀典官の署名がある。
カシアン殿下は文面を読み、顔を上げた。
「殿下は、この指摘を着用前に聞かれていたのか」
フェリクス殿下が口を開き、閉じた。
私は紙を持つ儀典官の手が震えているのを見た。勧告書は、王太子に敵意がなかった証明にはならない。警告を退けたことまで、残している。
「私から申し上げられるのは、使用前に勧告したことと、それでも着用が命じられたことです。王国の意思については、私に答える権限はございません」
上座から椅子を引く音がした。
国王陛下が立っていた。儀典長が急ぎ歩み寄り、勧告書の写しを捧げる。
「カシアン大使。我が国は、貴国の皇帝の正統性に異議を唱えるものではない。その品の着用は直ちに取りやめる」
陛下は、息子へ視線を移した。
「フェリクス。お前自身の名で、着用に至った経緯と謝罪を記した弁明書を出せ。私が確認のうえ、皇帝へ送る」
「父上……」
「今夜の接遇は儀典長に任せよ」
フェリクス殿下は、隣のリリア嬢を見た。助けを求めるような視線だったが、彼女はもう笑っていなかった。
カシアン殿下が、初めて一礼した。
「王国のご説明を承りました。我が国は、現時点で敵対の意思が示されたと断定することは控えます。詳細は弁明書を受領してから伺いましょう」
それでも、歓迎の答辞は開かれなかった。
明朝までの書面提出と、今夜の公式乾杯の延期。儀典長がその場で進行表を直していく。フェリクス殿下の名が記された挨拶の欄に、一線が引かれた。
無駄だと省いた確認のために、今は何人もの役人が走っていた。
リリア嬢は、震える指で留め具を探していた。
「動かないでください。髪が絡んでいます」
私が声をかけると、彼女はびくりとした。すぐに侍女が来て、留め具をほどいた。
外された首飾りを、儀典官が白い布へ載せる。そこで初めて、留め具の近くの小さな印が読めた。円の中に幾何学的な花。リンデル工房の印だった。
製造番号も、別に刻まれている。
「印と番号を、封印前の記録にお願いします」
私の言葉に、両国の書記官が頷いた。
形状を写し、工房から制作票を取り寄せて出所を確かめることになった。首飾りは木箱へ収められ、両国の立会人が封印へ署名した。
人を飾っていた品が、机の上で初めて調べられる品になった。
私はリリア嬢へ向き直った。首元に、鎖の跡が薄く残っていた。
「外せました。もう、大丈夫です」
今夜ここで、首飾りを着け続けなくてよい。それだけの意味で告げた。
彼女は何か言おうとして、唇を結んだ。
私もそれ以上は言わなかった。
広間の端へ戻ろうとした時、背後から呼び止められた。
「アーレン監察官」
カシアン殿下が、勧告書を手に立っていた。
騒ぎの中心にいた時より、少しだけ声が低い。
「この書面を書いたのは、あなたか」
「はい」
聞かれた意味が分からず、私は頷いた。
彼が見ていたのは、法規の番号でも、王太子の命令を記した行でもなかった。
私の署名の横にある、五桁の職員番号だった。
「……そうか」
その一言のあと、彼は紙を折り畳まず、書記官へ渡した。
「原本は王国へ。こちらには写しを一部」
花びらを数えるだけの女、と呼ばれた夜に。
この人は、私が残した数字を見ていた。




