第1話 花びらを七枚数えた夜
「エステル・アーレン。私とお前の婚約は、今この瞬間をもって白紙とする」
建国祭の円舞曲が止まった。
アルヴァレト王国の王太子フェリクス殿下は、私の返事を待たず、隣の伯爵令嬢の肩を抱いた。リリア・ベルク。明るい栗色の髪に金の飾りを挿した彼女は、うつむきながらも笑みを隠せていなかった。
「理由を、お伺いしてもよろしいでしょうか」
「花びらの数を数えているだけの女に、これからの王宮は任せられない。私は無駄な儀礼を減らしたいのだ。お前は何を見ても、古い本を持ち出して止めるばかりだろう」
指先が冷えた。
今朝も私は、彼の礼服の袖を確かめた。隣国の使節を迎える日に失礼がないように。終われば一緒に踊る時間くらいはあるかと、ほんの少しだけ期待していた。
袖の刺繍には問題がなかった。私の期待だけが、確認不足だったらしい。
私は王立紋章院から出向する、王太子宮付き意匠監察官だ。
衣装や宝飾の模様が、相手の国で何を意味するかを調べる。それが私の仕事だった。
そして今夜は、グランツ帝国の使節団が来る。婚約の話をするにしても、あまりに悪い時刻だった。
「これからの王宮には、彼女のような華やかで新しい風が必要なのだ」
殿下は愛しげにリリア嬢の肩を抱き寄せると、背後に控えていた従者に合図を送った。うやうやしく運ばれてきたのは、黒いベルベットの小箱だ。
蓋が開かれると、周囲の貴族たちから感嘆の溜息が漏れた。
そこに収められていたのは、見事な黒い石を削り出して作られた花をあしらった、異国風の首飾りだった。精緻な銀の細工が黒い花をぐるりと取り囲んでいる。
「リリア、君の美しさを引き立てるために用意した。受け取ってくれるね」
「まあ、殿下……! なんて素晴らしい意匠でしょう。ありがとうございます」
頬を染めて喜ぶリリア嬢を見つめながら、私の目は意図せず、その首飾りの細部を冷徹に検分し始めていた。
一見すると、隣国グランツ帝国で流行している装飾に見える。向こうでは六弁の黒い花は一般的な愛好のモチーフだ。しかし、違う。
私の視線は、黒い石の重なりを瞬時に数え終えていた。
――六枚ではない。七枚だ。
さらに、花を囲む銀の環。デザインとして洗練されているように見えるが、環の真下部分が意図的に数ミリほど断ち切られ、開いた状態になっている。
留め具にも何か印がある。だが、この距離では読めない。今見るべきなのは、花と環の組み合わせだった。
携帯用の典礼手帳を開く。今夜の来賓に備えて写した現行規定には、同じ花の図があった。
黒い七弁花。下が切れた環。公的な場での使用。
七年前の条約改定から、この組み合わせは帝位否認派の政治標章として扱われている。
意味は――現皇帝を認めない。
私は図と首飾りを、もう一度見比べた。
「殿下」
胸はまだ痛かった。それでも、一歩前へ出た。
「その首飾りの着用は、今すぐお止めください」
私の言葉に、大広間が水を打ったように静まり返った。
リリア嬢が怯えたように殿下の腕にしがみつき、フェリクス殿下は酷薄な笑みを浮かべて私を見下ろした。
「見苦しいぞ、エステル。婚約を破棄されたからといって、私の愛する女性への贈り物にまで難癖をつけるというのか」
「嫉妬ではありません。職務上の警告です」
私は感情を完全に排し、事実のみを口にした。
「間もなく、グランツ帝国からの使節団がこの会場に到着します。その建国祭という公式の場で、王太子の寵愛を受ける女性がその意匠を身につけることは、致命的な外交事故となります。それはグランツ帝国の現行規定において、反皇帝派の標章として登録されているものです」
「馬鹿馬鹿しい!」
殿下は苛立たしげに吐き捨てた。
「花は花だ。ただの美しい装飾に、いちいち政治的な意味などあるものか。お前のその古臭い妄言にはもううんざりだ。下がれ!」
これ以上の口頭での説得は不可能。
そう判断した私は、ドレスの隠しポケットから常に持ち歩いている小さな羊皮紙の束と携帯用の鉛筆を取り出した。
驚く周囲の視線をよそに、私は手早く、しかし極めて正確に文字を書き連ねていく。対象となる物品、意匠の構成要素である「七弁花」と「開環」、そして参照すべきグランツ帝国の法規番号。最後に、私の職員番号を添えて署名をした。
書き終えた『使用停止勧告書』を、私は殿下ではなく、青ざめて立っていた宮内府の儀典担当官へ差し出した。
「使用停止勧告です。時刻を記入し、儀典長へ。殿下が着用を命じられたことも、併せて記録してください」
「ア、アーレン様……」
「殿下からの婚約の解消、しかと承りました。また、私の職務が不要とのことですので、王太子宮付きの職からも、出向解除を願い出ます」
私はフェリクス殿下に向き直り、完璧な淑女の礼をとった。
「ただし、今宵の儀典上の引き継ぎと監視業務が終了するまでは、私は意匠監察官としてこの会場に残らせていただきます」
明日の手続きが済むまで、私の職務は終わらない。
私の宣言を聞いたフェリクス殿下は、忌々しげに顔を歪めた。
「勝手にしろ。もうお前の許可はいらない」
殿下は私から視線を外すと、自らの手でリリア嬢の白い首に、あの黒い花を着けさせた。
リリア嬢は誇らしげな笑みを浮かべ、胸元の首飾りにそっと手を触れる。殿下は満足げに頷き、再び楽団に演奏を再開するよう命じた。
その直後だった。
大広間の重厚な扉が大きく開かれ、儀典官の甲高い声が響き渡った。
「グランツ帝国特命大使、カシアン・グランツ殿下、ならびに使節団の皆様のご入場です!」
グランツ帝国の現皇帝の弟であり、外交実務を担う皇弟カシアン。長身で、夜を固めたような漆黒の軍服に身を包んだ彼を先頭に、十数名の使節団が広間の中央へと進み出た。
フェリクス殿下が歓迎の笑みを浮かべて歩み寄ろうとした、まさにその時。
カシアン殿下の鋭い眼光が、フェリクス殿下の隣――リリア嬢の胸元で輝く黒い七弁花に吸い寄せられた。
――ピタリ、と。
使節団の全員が、示し合わせたかのように一斉に歩みを止めた。
カシアン殿下の背後で、書記官が歓迎の答辞を閉じた。
フェリクス殿下の差し出した手が、宙に残る。
私はさきほどの勧告書を持つ儀典官に目で合図し、もう一度、広間の中央へ向かった。




