第31話 自分の名前で残す
七日間の五国親善会議は、予定された協議を終えて閉幕した。
最終日に、五国は共通台帳の試行に合意した。
正式な機関の設立には、まだ各国での手続きが要る。まずは半年間、担当者を出し合って運用し、費用と成果を確かめる。
その準備室に、『国際意匠典礼院』の名が掲げられた。
私は、五国の任命で主任監察官を務めることになった。
初日に届いたのは、採用祝いの花ではなく、意見書の束だった。
「村で使っている呼び名と、中央の索引名が違うと書いてあります」
書記官が一枚を差し出す。
「両方を載せて、相互に探せるようにしてください。別名から見つからなかった例も、記録に残しましょう」
八角星の町を思い出しながら答えた。
完璧な辞書を作るのではない。間違いを見つけた時に、次の人へ知らせる道を作る。
作業机には、エルムの七村共同体が送ってきた制作記録の写しもあった。中央の役所を通らなくても、自分たちの意匠を届けられる窓口の見本にしている。
廊下から、布の擦れる音がした。
リリア嬢が服飾ギルドの担当者を案内してきた。
「新しい縁取りの事前照会です。王都では袖口に使いますが、沿岸部では喪章に似る可能性があるそうです」
「その点は、先方へ確認済みですか」
「まだです。こちらの欄へ、未確認と記しました」
差し出された紙は、見やすく整理されていた。きれいな線で描いた三つの着用例がある。同じ模様でも、袖と胸では印象が違うことが一目で分かった。
「この図、助かります。照会先へも同じものを送りましょう」
私が言うと、リリア嬢は少しだけ肩の力を抜いた。
彼女は民間窓口の協力者として応募し、ギルドの推薦と実務見本の確認を経て参加している。仕事は相談内容を正確に受け取ること。意匠の使用可否を決める役ではない。
「私にもできるか、まだ不安です」
「それなら、まずこの三件から」
私たちは仕事の話をした。
友人のように過去を笑い合うことは、まだない。それでも、渡された紙を確かめ、次の作業を頼める関係になった。
机の端にあった最初の更新報告の校正刷りを、私は彼女へ渡した。
表紙にはマルタ先生、各国の照会担当者、私の名が並んでいる。窓口の調査協力者として、リリア・ベルクの名もあった。
「直したい表記があれば、印を付けてください」
彼女は自分の名のところで、指を止めた。
「……このままで」
声が少しかすれたが、彼女は涙を拭う代わりに、次の頁をめくった。
そこに自分の描いた袖口の図があると知り、今度は少し笑った。
* * *
会議での監察任期を終えたことを確認し、私はカシアン殿下へ手紙を出した。
次の仕事でも、私たちの関係が判断に関わる場合は別の担当へ回す。典礼院の準備室にも、その扱いを届け出た。
それでも仕事は続けられる。
恋をすることと、一人で公正さを証明し続けることを、同じものにしなくてよかった。
夕方、王宮の庭園へ向かうと、殿下は既に待っていた。
枝の葉はほとんど落ち、石の縁に残ったものだけが風で鳴っていた。
「お待たせしました」
「今、来たところだ」
彼の手袋に、細い枯葉が一枚ついていた。
私はそれを取ろうとして、手を止めた。会議のあいだに覚えてしまった動きだった。
「……今日は、取ってもよいですか」
カシアン殿下が手を差し出した。
「もちろん」
葉を払うだけのつもりだった。
けれど、彼の手が下りる前に、私はその指を握った。
「返事を、しに来ました」
殿下は何も言わず、私を見た。
会議で何度も目が合ったはずなのに、こんなふうに見上げるのは久しぶりだった。
「カシアン殿下が好きです。お仕事が終わってからも、一緒にいたいです」
伝えたかった言葉は、短かった。
仕事への感謝も、助けられた日の思いもある。それを全部並べなくても、嘘にはならない。
「私もだ」
彼は、握られた手をゆっくり握り返した。
「……何度も、君に声をかけたかった」
「私もです」
「廊下で一度、袖に糸が」
「自分で取りました」
彼が笑い、私も笑った。
そんな些細なことを、同じように覚えていた。
胸に溜まっていたものが、少しずつほどけていく。
「寒くないか」
「少し。でも、まだここにいたいです」
私は彼の隣へ移った。
肩が触れた。離れなくてよいことを確かめるように、そのままでいた。
カシアン殿下が腕を回す前に私を見る。私は頷いた。
抱き寄せられると、黒い外套が頬に触れた。
温かかった。
会議のことも、次の照会のことも、少しの間は考えなかった。
遠くで、庭師が落ち葉を集めていた。箒の音が近づくと、私は少しだけ顔を離した。
カシアン殿下の襟が、私の頬に押されて曲がっている。
「直してもよいですか」
「ああ。頼む」
いつもなら、礼装の確認のためにすることだった。
今日は自分が曲げた襟を、指でそっと戻した。彼の喉が動き、私まで落ち着かなくなる。
「君は、こういうことも平気でできるのだな」
「平気には、見せているだけです」
声が小さくなった。
殿下は私の手元を見て、何かを言おうとし、それから笑った。
「私もだ」
言われて初めて、握っている手がいつもより熱いことに気づいた。
私ばかりが戸惑っているのではない。知らないことがあるのは、この人も同じだった。
「次にお会いする時は、報告書を持たずに参ります」
「それなら、私も鞄を置いていこう」
「四十七号まで置いてきて、大丈夫ですか」
殿下が、困ったように私を見た。
「書いた本人がいてくれるのだろう」
私は返事の代わりに、彼の外套へもう一度額を寄せた。
あの書類を二年間大切にしてくれたことは、嬉しい。でも今日は、書類に何も書けない私でも、ここにいたかった。
やがて彼が尋ねた。
「これから、どこで、どんな仕事をしたい」
「当面は、ここで準備室を整えたいです。試行が終わったら、各地の窓口も見に行きたい。紙だけでは分からないことが、まだたくさんありますから」
「では、次の滞在予定を早めに知らせよう。私が王都へ来る日も、君が帝国へ来る日も、二人で時間を作れる」
どちらかが、今すぐすべてを置いていく話ではなかった。
行きたい場所と、会いたい相手を、両方予定に書いてよかった。
「その予定表には、休暇も入れてください」
私が言うと、殿下は楽しそうに目を細めた。
「今度は、私が注意される側か」
私は頷いて、彼の手を握り直した。




