第30話 王太子が初めて読む報告書
フェリクス殿下は、しばらく書類へ手を伸ばさなかった。
国王陛下が、息子の前にある一枚を指した。
「読め。建国祭の夜に、お前が退けた勧告だ」
黒い七弁花。下の開いた環。公式の夜会。
紙には、私が示した三つの条件が書かれていた。
フェリクス殿下の視線が、ゆっくりと下へ移る。自分の指示で着用を続けたという記録のところで、止まった。
「……これは、私が言ったことだ」
誰も答えなかった。
次の紙は、逆結びの軍帯について大使館から送った注意書きだった。宮内府は納入元へ照会すると答え、その後の確認をしないまま式典を迎えていた。
対応を急ぐよう求めた外務部門の書面にも、王太子宮の受領印がある。
殿下が、紙を一枚戻した。
「この日のうちに、帯を替えるよう命じていれば」
「少なくとも、あの式典には間に合いました」
外務長官が答えた。
フェリクス殿下は、また次の紙を手に取った。
今度は私が在任中に書いた監察票だった。もとの図案を全部捨てるのではなく、縁取りを一本変える提案が記してある。
「作り直しでは、なかったのか」
その問いは、私へ向けられていた。
「はい。使える部分は残すよう、いつも提案していました」
「私は、また駄目だと言ってきたのだと思っていた」
声は、広間の後ろまでは届かなかったかもしれない。
私はそれを聞いた。何度も説明し、何度も返ってこなかった返事が、今になって戻ってきた。
嬉しさより、取り返せない時間の長さを感じた。
すべての報告を、この場で読み切れるはずはなかった。
それでも、殿下は最初の数枚をまとめて脇へ置かなかった。読み終えた紙だけを、順に重ね直していった。
「ゲオルクから金を受け取った形跡は、今の調査では認められぬ」
国王陛下が告げた。
「だが、警告を止めた責任が消えるわけではない。お前は報告の中身を読まず、改革への反対だと決めつけた」
フェリクス殿下が立ち上がった。
「……申し開きは、ありません」
陛下は、外交と儀礼改革に関する権限を王太子から取り上げると宣言した。
王位継承権は残す。ただし、外務部門と監査院の監督を受けて実務を学び直し、その間は独断の決裁を認めない。
宮内府の調達契約は全面的に再点検し、ゲオルクの責任は司法機関へ引き継ぐ。今後の支払いは、独立した確認を経ることになった。
フェリクス殿下は、腰の決裁印を外した。
銀の鎖が机に触れ、軽い音がした。
何人もの判断を退けてきた印だった。それが、彼の手から離れた。
「承知いたしました」
頭を下げた彼の前へ、書記官が未決裁の書類を引き取りに来た。
処分は、言葉だけでは終わらなかった。
* * *
査問が閉じられ、会場の準備を再開する前に、フェリクス殿下が私へ歩み寄った。
護衛も書記官も、数歩離れた場所にいる。
「エステル」
私は振り返った。
「お前の仕事を、無意味だと言った。婚約をあのような場で終わらせ、名誉を傷つけた」
殿下は一度言葉を切り、私を見た。
「そのうえ、婚約を戻す代わりに監査を止めろと要求した。何が起きていたかも確かめず、お前に隠させようとした。……すまなかった」
彼は頭を下げた。
私の胸に、かつて聞きたかった言葉が届く。届いたからといって、以前の私に戻るわけではなかった。
「謝罪は、お受けします」
それ以上の返事は、今はできなかった。
殿下も、許されたのだとは言わなかった。
「私が頼める立場でないことは、分かっている。だが、王宮には、お前のような人間が必要だ。私個人に仕えろとは言わない。国の顧問として、戻ることを考えてもらえないか」
初めて、命令ではなく問いとして聞いた。
私は少し考えてから、首を横に振った。
「王太子宮付きへは戻りません。ただ、王国の仕事をもうしないという意味ではありません」
殿下が顔を上げた。
「私がいれば防げる、という形では足りないのです。私は間違えましたし、私以外にも、確認できる人がいます」
会場の端では、各国の監察担当が図案と装飾を照らし合わせていた。
誰かが止まれば、別の人が資料を取りに行く。全員が一人の答えを待つ必要はなかった。
「現行の慣習と、その変更を共有できる台帳を作りたいと思っています。誰の報告なのか、いつ何を確かめたのかも残して。分からないことは、分からないまま照会先へつなげるものを」
私の話を聞いていた外務長官が、近づいてきた。
「ヴァイン上席研究官からも、案を受け取っています。各国へ相談する用意はありますか」
「はい」
マルタ先生へ送った、あの一枚の構想だった。
今はそこへ、八角星の件で学んだ手順を加えなければならない。訂正だけでなく、元の判断も残すこと。更新が見つからなければ、更新がないと決めつけないこと。
国王陛下は、王国として共同台帳の起草を支持すると告げた。
他国の賛同を得てから、正式に進める。そのための草案を、私が各国の担当者と作ることになった。
「国際意匠典礼院、という名はどうだろう」
マルタ先生が、横で小さく言った。
「まだ台帳一冊もできていません」
「だから、名前だけは先に大きくしておくのよ」
私は、思わず笑ってしまった。
午後の開会まで、まだ仕事は残っていた。
私は白い垂れ布の前を通り、五つの国章を見上げた。
何も起きなかった歓迎の一日を、今度は皆で作るのだ。




