第24話 意味のない贈り物
翌日の終業後、カシアン殿下は自分で紅茶を二つ運んできた。
片方の受け皿に、小さな雫がこぼれている。
私はそこを見ないふりをして、机の資料を片付けた。
「今日は、仕事の話ではないと仰いましたね」
「ああ」
彼は椅子へ座ってから、すぐには口を開かなかった。
窓の外では、冬支度の荷を積んだ馬車が門を出ていく。部屋の中には、二つのカップから立つ湯気があった。
「もし、何の役にも立たなくてよい贈り物なら、君は何が欲しい」
ようやく出た問いに、私は瞬いた。
「業務用備品ではなく?」
「その話は、忘れてくれていい」
「忘れるのは難しいです。鉛筆より長い説明書でしたから」
殿下が困ったように笑った。
それで少し、私の緊張も解けた。
「何が欲しいかは、まだ上手く答えられません。でも、贈っていただいた物を、すぐに仕事の役へ立てなければとは思わなくなりました」
「なら、急がず探そう」
彼はカップから手を離した。
「エステル。君が好きだ」
短い言葉だった。
聞き違えようのない言葉を、彼は私の目を見て言った。
「仕事を頼みたいのとは別に、君と過ごしたい。仕事が終わってからも、明日も」
喉の奥が熱くなった。
私は、返事を探していた。用途を尋ねたり、根拠を確かめたりする言葉なら、すぐに出てくるのに。
「……殿下は、私が仕事のことばかり話しても、お困りになりませんか」
「私も似たようなものだろう」
「では、図案を見て黙ってしまっても」
「待つよ。ただ、好みを聞いた時には、時々教えてくれると嬉しい」
私は笑おうとして、上手くいかなかった。
彼の言葉が、これほど嬉しい。答えたい気持ちはもうあった。
それでも、今は彼が私の契約を決める人でもあることが、机の上の書類から消えなかった。
「私も、殿下に惹かれています。ですが、少しだけ――」
そこで扉がノックされた。
書記官が、緊急便の封筒を持って立っている。宛名を見た殿下は、私へ差し出した。
「君個人への書状だ」
封を切ると、アルヴァレト国王の名に添えて、五国儀典委員会の合意書があった。
会議期間と準備期間を通じ、独立した意匠監察の責任者を置く。各国の監察担当をまとめる責任者への、正式な就任要請だった。私の名の下に、契約歴などを申告し、就任条件を委員会と確認する日が記されている。
マルタ先生の添え書きは簡潔だった。
『事故を見つけたから推薦したのではありません。訂正の記録も含めて、あなたの仕事を五国へ示しました。受けるなら、一人で判断する職ではないことを確かめなさい』
私は合意書を二度読んだ。
ここへ戻れという、王太子の私的な申し出とは違う。権限も期間も、仕事を終えたあとに報告を出す相手も、紙に記されている。
「お受けしたいです」
カシアン殿下は、すぐに頷かなかった。
「条件は確認できたか」
「最終の使用判断は五国委員会です。私は各国の担当者と検分を行い、疑義のある品を暫定的に止める。就任するには、現在の契約を終える必要があります」
私は更新契約書を取り出した。
公的監察職への正式な就任要請を受けた時、違約金なしで終了できる。あの日、自分で加えた条項だった。
「こちらを行使します。本日の引き継ぎと費用精算をもって、契約を終えさせてください」
「分かった。手続きは事務長に確認させよう」
殿下は書記官を呼び、私の意思をそのまま伝えた。
未処理の照会は文化担当官へ引き継ぐ。職人たちへの補填はすでに送金が済んでおり、残る報告には私が署名する。明朝までに終了証明を作る、と事務長が答えた。
書記官が退出すると、二つの紅茶はすっかり冷めていた。
私が先ほどの言葉をどう受け取ったか、殿下はまだ続きを求めていない。
それがありがたく、少し寂しかった。
「殿下。会議が終わるまで、返事を待っていただけますか」
彼は私へ向き直った。
「契約を終えても、好意が消えるわけではありません。就任時には、今日のお話と私の気持ちも、必要な範囲で委員会へ伝えます。隠して中立のふりをしたくありません」
「ああ」
「それでも、この仕事を引き受けたいのです。確かめる役の私が、確かめられることも受け入れて」
私は冷めたカップへ触れた。
「今、嬉しいからこそ、急いで決めたくありません。会議の仕事を終えたあとで、もう一度お話ししたいです」
「その日は、私も空けておこう」
カシアン殿下が微笑んだ。
大きな誓いではない。次に会う日の約束だった。
殿下が私のカップへ手を伸ばしかけ、止めた。
「淹れ直そうか」
「いえ。もう、引き継ぎを始めなければ」
答えてから、私は受け皿の雫をハンカチで拭った。今なら何を話しても、名残惜しい気持ちが声に出てしまう。
「今朝から、言う順番を考えていた」
殿下が静かに言った。
「贈り物のことを聞いて、そのあとで気持ちを伝えるつもりだった。こんなふうに君の最後の業務日になるとは思わなかったが」
「最後の日だから、仰ったわけではないのですね」
「違う。明日もここへ来ると思っていた」
私は、片付いた机の向こうの彼を見た。
予定どおりに話せなかった人と、予定にはなかった仕事を受ける私がいる。それでも、次に話したいことはなくならなかった。
「では、その日にお茶をお願いします」
「今度は、こぼさないようにする」
見られていたのか、という顔をされて、私はようやく笑えた。
窓から、王宮の尖塔が見えた。
そこで傷ついたことは消えない。戻るのが怖くないわけでもない。
けれど、あの広間で私の仕事が終わったわけではなかった。
「今度は、誰かに戻されるのではなく、自分で戻ります」
口にすると、殿下は静かに頷いた。
引き止められなかったことを、私は初めて、手放されたとは思わなかった。




