第22話 王太子からの条件
私がカシアン殿下への恋情を自覚し、同時に専門家としての腹を括ってから数日後。
グランツ帝国大使館に、思いもよらない人物が「非公式な面会」を求めてやってきた。アルヴァレト王国の王太子、フェリクス殿下その人だった。
私室ではなく、大使館の一階にある冷ややかな応接室で、私は彼と対峙していた。
護衛を部屋の外に下がらせたフェリクス殿下は、ソファに腰を下ろすなり、ひどく苛立った様子で腕を組んだ。
「単刀直入に言おう、エステル。王宮へ戻れ。お前の『意匠監察官』としての実力は、認めてやってもいい」
それは、復縁を乞う者の態度ではなかった。あくまで上の立場から、慈悲を与えてやるという傲慢さが透けて見える。
私は無言のまま、彼の次の言葉を待った。
「今、王立紋章院と監査院の連中が、宮内府の調達記録を嗅ぎ回っている。ゲオルク副長官も頭を抱えているよ。……お前も知っているだろう、あれは私の進める儀礼の簡略化改革を潰そうとする、守旧派の政治工作だ。少しばかり調達の確認が甘かったことを針小棒大に騒ぎ立て、王太子である私の権限を削ごうとしているのだ」
その言葉を聞いて、私は内心で深い溜息をついた。
フェリクス殿下は、何もわかっていない。
軍帯への抗議で式典が止まり、席次幕のために公爵が協議を辞退した。古い図案を確かめずに使った結果、別々の人たちが傷ついている。それを「少しの確認の甘さ」で済ませて、また誰かが助言をすれば元に戻ると思っているのだろうか。
「お前が大使館にいるから、外務部門も調子に乗って私を非難するのだ。だが、お前が私の元へ戻り、改革を支持する立場になれば、守旧派の工作も封じ込めることができる。……エステル、戻ってくるなら、お前を新設する『王室意匠顧問』という高位の役職に就けてやろう。そして――」
フェリクス殿下は少しだけ声を潜め、恩着せがましい笑みを浮かべた。
「あの夜の婚約解消は、白紙に戻してやる。お前を再び、私の婚約者として迎え入れよう」
「……」
「リリアも、お前の実力を認めている。彼女との関係は私が話をつける。正妃の座はお前に約束しよう。これで不満はないだろう?」
破格の厚遇。
かつての私は、彼の隣に立つことを将来だと思っていた。
だが今の私には、その言葉の裏に張り付いた『条件』がはっきりと見えていた。
「フェリクス殿下。その素晴らしいご提案の裏には、当然、私が果たすべき義務があるのですよね」
私の静かな問いに、フェリクス殿下は「まあ、そうだな」と咳払いをした。
「条件は簡単だ。現在監査院が嗅ぎ回っている調達の問題を、王太子宮の内部処理として穏便に収めろ。監査院に手を引かせ、もうすぐ始まる五国親善会議の場や、外国側へこれ以上問題を広げるな。……内部の少しの不手際は、お前がこっそり直せばいいだろう」
何が起きていたかを調べる前に、調査を終わらせろということだ。
そして、五国会議という巨大な外交舞台でボロが出ないように、裏でこっそり不手際を拭って回れ、と。
私は彼を真っ直ぐに見据えた。
「お断りいたします」
「……は?」
「隠蔽と内部是正は違います。宮内府が古い図案を無審査で一括調達しているという構造的欠陥は、内部処理で誤魔化せる段階をとうに過ぎています」
私は冷ややかに言い放った。
「それに。……婚姻も、新設される役職も、私の『沈黙の代金』にはなりません」
「エステル! お前、自分が何を言っているのかわかっているのか!」
フェリクス殿下が顔を真っ赤にして立ち上がった。
「私はお前を許してやると言っているのだぞ! いつまでも意地を張って、こんな他国の大使館に居座るつもりか!」
「意地など張っておりません。私はただ、自分の仕事の根拠を正当に評価してくださる場所で、専門家としての責務を果たしているだけです。……これ以上お話しすることはありません。お引き取りを」
私が毅然として頭を下げると、フェリクス殿下は屈辱に顔を歪め、何かを言いかけたが、結局舌打ちをして応接室を飛び出していった。
彼が帰った後、私は少しだけ疲労を感じながら、自室の執務室へと戻った。
机に向かって報告書の整理を始めようとした時、控えめなノックと共に扉が開いた。
「……王太子殿下は、お帰りになったか」
入ってきたカシアン殿下は、いつも通り無表情を装っていたが、その声は普段よりも一段低かった。アルヴァレトの王太子が私に面会を求めてきたことは、当然彼も把握している。
「はい。非公式な面会でしたので、業務には支障ありません」
「そうか」
カシアン殿下は私の机の前に立ち、腕を組んだ。
私が口を開くのを待っているようだった。だが、報告を求めるとは言わない。
しばらくして、彼は机から半歩下がった。
「……彼からは、どのような条件が提示されたのだ」
「『王室意匠顧問』という役職と、婚約の復旧です。監査院の動きを止めることと引き換えに」
「……」
カシアン殿下の眉間に、深い皺が寄った。
彼は視線を外し、窓の外へ目を向けながら、独り言のようにポツリと呟いた。
「……もし、その条件が監査の妨害などを伴わない、正当な復職要求であったなら。君は、戻る選択肢も考えたのか」
「え?」
「彼は、君のかつての婚約者だ。君が以前思い描いていた場所を用意すると言われたのなら……心が揺れることもあるのではないかと、思ってな」
カシアン殿下はそう言って、ひどく気まずそうに唇を引き結んだ。
その言葉を聞いて、私は思わず目を丸くした。
戻る条件を知りたいのではなく、私の返事を聞きたいのだろうか。彼はまだ、窓の方を見ていた。
私は、その横顔へ答えた。
「戻りませんよ」
私は彼を真っ直ぐに見つめ、はっきりと微笑んで否定した。
「たとえどんな厚遇を提示されようと、私が意味を押し付けられる道具に戻ることは二度とありません。私の居場所は、私が決めます」
「……そうか」
カシアン殿下は小さく息を吐き、組んでいた腕を下ろした。その表情から、微かに緊張が抜け落ちるのがわかった。
「邪魔をしたな。仕事に戻ってくれ」とだけ言い残し、彼は少しだけ足早に執務室を出ていった。その耳の端が、ほんの少し赤くなっていたことを見逃さなかった。
窓の向こうで、王太子の馬車が門を出ていく。
乗るよう命じられれば従った頃と、同じ紋章が扉にあった。今日は、それを外から見送っている。
私は窓を閉じ、机へ戻った。
戻らないと決めたのは、彼を罰するためではなかった。ここから先にしたい仕事が、私にはあった。




