第18話 謝罪は、過去を消さない
グランツ帝国大使館の小応接室は、微かな紙の擦れる音だけが響いていた。
テーブルの上には、リリア嬢が持ち込んだ書類が所狭しと広げられている。私が王太子宮にいた頃には決して見ることのできなかった、ベルク家へ届いた費用請求の写しや、ゲオルク副長官が彼女に押し付けたという図案集の切り抜きの束だ。
私は手元のノートに記載した情報と、彼女が持参した資料を一つ一つ照合していった。
「ベルク嬢。この『銀の一本線に蔦模様』の幕を選んだ際、ゲオルク副長官は何と言ってこれを渡しましたか」
「その図案は……『これが今、同盟国で最も洗練された新しい縁取りだ。殿下の茶会に相応しい』と」
リリア嬢は青ざめた顔で、震える指先をぎゅっと組み合わせながら答えた。
「古い版の図案です。ただ、古い形が再び流行することはあります。これだけで、売る側が嘘をついたとは決められません」
「でも、安全だと言われました」
「その保証を、誰がどこまで確かめて出したのかを調べましょう」
私は余白に、リリア嬢が聞いた言葉をそのまま書いた。私の推測とは線で分けておく。
しばらくの沈黙の後。
不意に、リリア嬢がポツリと口を開いた。
「……建国祭の夜のこと。本当に、申し訳ありませんでした」
彼女は顔を上げず、自分の膝の上で強く手を握りしめたまま、絞り出すように言った。
「あの日、殿下があなたとの婚約を解消し、私に首飾りを着けてくださった時。私は……自分が新しい王太子妃に選ばれたのだという優越感で、胸がいっぱいでした。地味で、埃まみれの書庫に籠もっているあなたを見下して、いい気になっていたのです」
「……」
「あなたがどれほど大切な仕事をして、どれほどの危険から国を守っていたのか。それを理解しようともせず、ただの『伝統にうるさい古臭い女』だと思って、あざ笑っていました。……今のこの状況は、あの時の私の浅はかさが招いた、当然の報いなのだと思います」
リリア嬢の瞳から、大粒の涙がぽろぽろと零れ落ち、テーブルの上の請求書の写しに小さな染みを作った。
彼女は、ただ無垢で善良なだけの被害者ではなかった。他人の不幸の上に自分の幸福を築こうとした、残酷な一面を持っていた。
だが、彼女はそれを誤魔化さなかった。
「許してほしいとは、言いません。私には、あなたに許しを乞う資格などありませんから」
リリア嬢は深く頭を下げた。彼女が次に何を言うのか、私は待った。責任を全部、誰かに返す言葉は出てこなかった。
私は冷めた紅茶を一口飲み、小さく息をついた。
「そうですね。私はあの日、あなたから向けられた優越感に満ちた視線を、今でもはっきりと覚えています」
私の淡々とした声に、リリア嬢の肩がビクッと跳ねた。
彼女が謝ったことで、あの夜の笑みまで消えるわけではなかった。
私は涙の近くにあった請求書を、濡れない場所へ動かした。
「ですから、私があなたを好きになる必要はありませんし、過去の振る舞いを無条件に許すこともありません」
言い切ると、胸の奥に残っていた力が少し抜けた。
「でも、あの夜のことが、あなたを脅してよい理由にはなりません。ここにある事実は、一緒に見られます」
私の言葉に、リリア嬢は勢いよく顔を上げた。涙で濡れた瞳が、驚きと共に私を見つめている。
好きにならなくてもいい。許さなくてもいい。ただ、事実を解明するための協力者として線を引く。それが、今の私たちが取れる最も誠実な距離感だった。
「……ありがとうございます、アーレン様。私にできることなら、何でもします」
リリア嬢はハンカチで乱暴に涙を拭うと、決意を固めたように私の目を見た。
気持ちが片付いたわけではない。それでも、私たちは再びテーブルの上の資料に向き直った。私は、ゲオルク副長官がリリア嬢に渡したという「調達図案リスト」の束を一枚ずつめくっていった。
その中ほどに差し掛かった時、一枚の不自然な書類が目に留まった。
「……ベルク嬢。この書類がリストに紛れ込んでいた理由に、心当たりはありますか?」
「え? いえ、ゲオルク様から渡された束の中に最初から入っていたものですが……それは何ですか?」
私が引き抜いたのは、図案のスケッチではなく、図案の利用者向けに配布された変更通知の写しだった。
宛先は『取扱商会・儀典担当者各位』。
差出人は『西部辺境伯領・意匠管理組合』となっている。
タイトルには『意匠の意味変更に関する通知書』と記されていた。
「地方の領主や宗派から、図案の利用者へ配られた更新通知です。『昨年結ばれた和解協定に基づき、当地域における黒鳥の意匠は、威嚇ではなく和解と親和を示すものへと変更された』……つまり、現場の意匠の意味が変わったという報告です」
本来であれば、王立紋章院がこれを受理し、ただちに典礼書の記述を更新しなければならない重要な情報だ。
だが、私が目を留めたのはその内容ではなく、文書の右端に押された赤いスタンプだった。
そこには、宮内府調達部門の印と共に、こう記されていたのだ。
『追加照会省略・一括契約の納入元保証による』
「納入元の保証……」
王宮側は、工房が確かめたと思っている。では、工房はどうなのか。
変更通知が図案と一緒に来ているのに、何を確かめたのかの記録はなかった。
「この通知、私も読みませんでした」
リリア嬢が言った。
「絵だけ見ればよいと。でも、紙が一枚増えているのは気づいていました」
彼女の指が、赤い判を避けて通知の端に触れた。
私は、見落としたのは自分ではないと言いかけてやめた。自分がこの書類の束を渡された時、どこまで読むだろう。
「ベルク嬢。この請求書と、照会省略の印が押された通知書の写しは、私が預かってもよろしいですか?」
「はい。構いませんが……どうされるおつもりですか?」
「正当な手順を踏んで、然るべき場所へ提出します」
リリア嬢の同意を取り、持参資料の一覧と預かり控えを二通作った。原本は封筒へ、照合用の写しは別の綴りへ入れた。
外国大使館の顧問である私が、他国の内部事情を勝手に暴き立てることはできない。だが、この事実を『アルヴァレト王国の正式な監査機関』へと繋ぐルートなら、私には心当たりがあった。
請求書の角には、彼女が持ち歩く間にできた折れ目があった。返せと命じられても、返さずに持ってきた紙だ。
私は預かり控えを読み上げ、一枚ずつ、彼女と数を確かめた。




