第17話 花嫁候補の相談
カシアン殿下と対等な条件で契約を更新して数日。私は独立した専門家として、グランツ帝国大使館での執務に打ち込んでいた。
そんなある日の夕刻、大使館の警備担当から、取次の職員が私の執務室へ来た。
「アーレン顧問。大使館の裏門に、どうしてもあなたにお会いしたいという女性が来ております。名を名乗ろうとせず、ひどく怯えたご様子でして……」
「私に、ですか?」
心当たりはなかったが、無下に追い返すわけにもいかない。私は警備担当に、身元を別室で確かめたうえで面会を取り次いでほしいと頼んだ。
応接室に入ると、部屋の隅のソファに、地味な灰色のマントをすっぽりと羽織り、フードを深く被った小柄な人影が座っていた。
「お待たせいたしました。私がエステル・アーレンですが……」
私が声をかけると、その女性はビクッと肩を震わせ、ゆっくりとフードを下ろした。
現れたその顔を見て、私は思わず足を止めた。
手入れの行き届いた明るい栗色の髪。華やかな目鼻立ち。
建国祭の夜、フェリクス殿下の隣で勝ち誇ったように微笑み、あの危険な『黒い七弁花の首飾り』を胸元で輝かせていた伯爵令嬢――リリア・ベルクだった。
「……アーレン様。突然、このような押し掛け方をして申し訳ありません」
彼女の声は微かに震えていた。かつて王宮の夜会で見せていたような、自信に満ちたオーラは見る影もない。目の下に濃い隈を作り、ひどく憔悴しきっている。
私は小さく息を吐き、彼女の対面のソファに腰を下ろした。
彼女から受けた屈辱を忘れたわけではない。話を聞くことと、彼女を許すことは別だった。
「ここは外国の大使館です。王太子の婚約者候補が相談したとなれば、憶測も生まれます。それでも、ここでお話しされますか」
「……わかっています。でも、もう、王宮の誰も信じられなくて。あなたにしか、相談できないと思ったのです」
メイドが運んできた温かい紅茶を、リリア嬢は両手で包み込むように握りしめた。カップがカチャカチャと微かな音を立てている。
「王宮で、何があったのですか」
「すべて……私のせいに、されているのです」
リリア嬢は俯いたまま、消え入りそうな声で語り始めた。
建国祭での首飾り事件。そして、来訪したウェンツ公爵が激怒して退席した席次幕の事故。王太子宮で立て続けに起きた外交上の失態の責任が、今や王宮内で『新しい流行を軽薄に持ち込んだベルク伯爵令嬢のせいだ』と囁かれているというのだ。
「最初は、フェリクス殿下も私を庇ってくださいました。『お前は悪くない、古い慣習が悪いのだ』と。でも……外務部門からの批判が激しくなるにつれ、殿下は次第に私を遠ざけるようになりました。今では面会を求めても、忙しいからと断られてしまいます」
彼女は、自分が『新時代の象徴』としてフェリクス殿下に飾られ、そして失敗した時だけ責任を押し付けられる便利な部品として扱われていることに、ようやく気づいたのだろう。
だが、事態はそれだけではなかった。
「数日前からです。王宮で私が使っている客室の扉の隙間に、こんなものが投げ込まれるようになったのは」
リリア嬢は震える手でマントの懐を探り、一枚の折り畳まれた紙片を取り出してテーブルの上に置いた。
それは、短い文章が印字された手紙だった。
『調達の話を外へ漏らせば、事故はすべて貴女の独断によるものとして公表する。請求書は返却せよ』
「脅迫状、ですか」
「はい……怖くて、夜も眠れません。誰かに罪を着せられるのだと、殿下の側近に訴えても、『お前が反感を買うような真似をしたからだ』と冷たくあしらわれて……」
私は手紙を灯りへ寄せた。請求書を返せ、という一行を二度読む。彼女の指がまだ震えているのを見て、紙を置いたまま話すことにした。
「ベルク嬢。この手紙は封筒も残してありますか。出所を確かめる手掛かりがあるかもしれません」
「え……? どういうことですか?」
「この手紙に使われている紙です」
私は手紙の余白部分を指差した。
「これは市販の羊皮紙や、よく見かける便箋とは違います。非常に分厚く、特有の繊維の透かしが入っている。アルヴァレト宮内府が、公式な調達帳簿や長期保存記録用に使用している『特注の規格紙』です」
「宮内府の、紙……?」
「さらに、この封蝋の跡を見てください」
手紙の裏側に残っていた、封蝋の砕けた欠片。私はそれを携帯ルーペで拡大して見せた。
「黒褐色の蝋も、宮内府の事務用によく使われています。ただ、色や紙だけで差出人は決められません。持ち出して使うこともできますから」
私はルーペを置き、リリア嬢を真っ直ぐに見据えた。
「宮内府の備品と似ています。ですが、今確かに言えるのは、差出人が請求書を返せと要求していることです。何の請求書なのですか」
私の言葉に、リリア嬢は息を呑み、信じられないというように顔を蒼白にさせた。
「請求書のことを知っている人が、私を……? 私はただ、言われた通りに流行の図案を選んで、殿下にお勧めしただけなのに……!」
「言われた通り?」
私はその一言を聞き逃さなかった。
「ベルク嬢。あなたが殿下にお勧めしたという『流行の意匠』は、あなたが自分で街の店舗から探し出してきたものではないのですか?」
「違います! 宮内府副長官の、ゲオルク様です」
その名前が出た瞬間、点と点が繋がるような感覚が私の背筋を走った。
「ゲオルク副長官が、『これが今、他国で最も人気のある最新の流行図案だから、殿下にお勧めするといい』と、定期的に私の元へ図案集や見本を持ち込んできたのです。私はそれを見て、可愛いと思ったものを選んでいただけですわ。……首飾りも、お茶会の幕も、すべて」
「……その図案集の発行元を、覚えていますか?」
「ええ。どれも、『リンデル工房』というところの版でしたわ」
やはり、そうか。
私は小さく息を吐いた。リリア嬢自身が、すべての選択肢を持っていたわけではないらしい。
ゲオルク副長官によって、リンデル工房の図案を選ばされるように誘導されていたのだ。彼女の『服飾のセンス』と『王太子の寵愛』という立場が、宮内府にとって都合の良い隠れ蓑として利用されていた可能性がある。
「ベルク嬢。そのゲオルク副長官が持ち込んできた図案に基づいて、王太子宮が品物を調達したという証拠になるものはありますか?」
私の問いに、リリア嬢はマントのポケットから、さらに数枚の折り畳まれた書類を取り出した。
「これなら……。私が着るドレスや、お茶会の備品として手配された費用の、請求書の写しです。あまりに立て続けに事故が起きたので、不安になって保管しておいたのです」
私はテーブルの上に並べられた請求書の写しを引き寄せ、そこに記載された項目を確認した。
宛名はベルク家。リリア嬢自身の負担分を請求する書類だった。
ただし、付属明細には同じ一括契約で手配した品がまとめて載り、王宮負担とベルク家負担に分かれている。首飾りは王宮負担の欄にあった。請求額に含めず、関連品として記載したものらしい。
その明細の上部に契約番号が、品ごとの欄に図案番号が記されていた。
『一括調達契約番号:宮調―一七』
『図案番号:RL―4071、ほか別紙』
見覚えがあるのは、図案番号の方だった。上にある契約番号は初めて見る。これまで調べた古い図案と、王宮が費用を払う契約とが、一枚の明細でつながった。
「この請求書は、御実家宛てに届いたのですね」
「はい。父が内訳を尋ねても、王宮の一括契約だからと説明されるだけで……」
契約があるだけで不正とは言えない。誰が図案を選び、誰が安全を確かめる約束だったのか。次に調べるべきことが、ようやく具体的になった。
「アーレン様……私、これからどうなるのでしょうか」
恐怖に震えるリリア嬢の声に、私は請求書の写しから顔を上げた。
私は、手紙と請求書を別々に置いた。
「今夜は御実家へ戻れますか」
「父には、こちらへ来たことも言っていません」
「では、まず安全に帰る方法を考えましょう。そのあとで、資料をどこへ出すか決めてください。私にすべて預ける必要はありません」
リリア嬢は、冷めた紅茶から手を離した。
私に向けた顔には、まだ怯えがあった。それでも、請求書を返却してしまう前に来たのだ。
その一つの判断は、間違っていなかったと思いたかった。




