第16話 贈り物ではなく、道具として
昨日の冷たい衝突から一夜明けた朝。
私はいつもより早く執務室へ入り、私物を少しずつ鞄にまとめ始めていた。
五週間の契約満了まで、あと数日。フェリクス殿下からの復帰打診など受けるつもりは毛頭なかったが、だからといって、私がグランツ大使館で働くことの『政治的な意味』を知ってしまった以上、このままカシアン殿下の庇護下で働き続けることはできないと考えていたからだ。
誰かに意味を押し付けられ、知らない間に道具として扱われるのは、王太子宮の書庫にいた頃と何も変わらない。
ノートや資料を整理していると、コン、コン、と静かなノックの音が響いた。
「入るぞ、エステル」
扉を開けて姿を現したのは、カシアン殿下だった。
私は手を止め、事務的な一礼をした。
「おはようございます、大使殿下。本日の業務の確認でしょうか」
「……いや。立ち話ですむ内容ではない。少し時間をくれないか」
カシアン殿下はいつものような隙のない外交官の顔つきではなく、その目元には微かな疲労と、隠しきれない緊張の色が滲んでいた。
彼は私の対面にある椅子に腰を下ろすと、少しの間、沈黙した。そして、真っ直ぐに私の瞳を見つめ返した。
「昨日は、すまなかった」
鞄へしまいかけたノートを、私は膝に置いた。すぐには何も答えられず、彼の続きを待った。
「皇弟という私の立場上、そして君が元王太子妃候補である以上、君を雇用することに伴う政治的な意味を、完全にゼロに消し去ることはできない。だが……だからといって、君に意味を負わせる前に説明を怠ったのは、私の決定的な失策だ。本人の意思を確認せず、選ばせることもしなかった。……君を、ただの道具として扱ってしまった」
カシアン殿下の声には、深い後悔が滲んでいた。
「君の専門性への評価は本物だ。だが、私の配慮が足りなかったせいで、君を傷つけた。重ねて詫びよう」
「殿下……」
「これを受け取ってほしい」
彼はそう言って、懐から二つの細長い木箱を取り出し、机の上に置いた。
中に入っていたのは、見事な職人技で作られた最高級の『細密図用鉛筆』と、細部の意匠を確認するための『精密な携帯ルーペ』だった。
私が戸惑いながらそれを見つめていると、彼はもう一枚、王宮の書記官が使うような分厚い羊皮紙の文書を箱の横に添えた。
そこには、昨日の日付の購入伝票と共に、堅苦しい書式でこう書かれていた。
『当該物品は、グランツ帝国大使館における意匠監察業務を遂行するための業務用備品として支給するものである。ただし、契約終了後は、備品規定に基づきエステル・アーレン個人へ譲渡する。返礼および契約更新の義務は生じない』
「……」
「口先だけで謝罪しても、信用できないだろうと思ってな。契約上の備品支給という形をとった。これならば、君に妙な意味を背負わせることもないはずだ」
カシアン殿下は大真面目な顔でそう言った。
私は、その過剰なまでに明文化された誓約書と、真新しい仕事道具を交互に見つめた。
ただの文房具を渡すためだけに、ここまでガチガチに『これは道具であり、贈り物ではない』と法的な予防線を張る人間がどこにいるだろうか。彼なりの、私に二度と負担をかけないための、あまりにも不器用すぎる配慮の形だった。
「ふ、ふふっ……」
前日から私の中で凝り固まっていた冷たい感情が、ふっと解けていくのを感じた。
最初は堪えようとしたが、カシアン殿下の真剣すぎる顔を見ていると、どうしても笑いが込み上げてきてしまった。
「……何がおかしい」
カシアン殿下が、少しバツが悪そうに視線を逸らした。
「申し訳ありません。ですが、殿下……こんなに物々しい誓約書のついた鉛筆をいただいたのは、生まれて初めてです」
「君が、意味を背負わされるのは嫌だと言ったのだろう」
「ええ、言いました。ですから、これはありがたく『業務用備品』としてお預かりいたします」
私が笑ったことで、カシアン殿下もほっとしたように小さく息をついた。
彼が本当に私を政治的な駒としてしか見ていないのなら、こんな面倒な手続きを踏んでまで謝罪になど来ないだろう。
私は、机の隅に押しやっていた『更新契約書』を引き寄せた。
「殿下。私は、戻る場所がないからここにいるわけではありません」
私は支給されたばかりの細密図用鉛筆を手に取ると、契約書の余白に、サラサラと新たな条項を書き加え始めた。
「昨日、アルヴァレト王宮から『助言役として戻ってこないか』という非公式な打診がありました。ですが、私は戻りません」
「……そうか」
「私は、自分の意思でこの場所に残ります。ただし、条件があります」
私は書き加えた四つの項目を、鉛筆の先で示した。
「一つ、私の成果物には必ず『エステル・アーレン』の著者名を明記すること。二つ、私の業務が政治的に利用されると見込まれる場合は、必ず事前の説明を行うこと。三つ、私が各国の公開照会窓口へ、大使の結論に縛られず専門的な照会を出せること。そして四つ――」
五国会議の準備会合から回ってきた要旨を、契約書の隣へ置いた。各国の監察をまとめる公的な役を設ける案が、そこにある。
「この役に私が呼ばれるとは限りません。ただ、要請が来た時に、一国との契約があるから選べない、とはしたくないのです」
私は最後の一文を、はっきりと読み上げた。
「『今後、五国共同を含む公的な監察職への正式な就任要請を受けた場合は、違約金なしでこの雇用契約を中途終了できる』こと。……この四つの条件を飲んでいただけるのであれば、私は五国会議終了までを予定した期間、貴国の顧問として契約を更新いたします」
カシアン殿下は追加された条項をじっと読み込み、やがて深く、満足げに頷いた。
「受け入れる。独立した照会の費用も、予算に記そう」
彼は一度ペンを置いた。
「更新しないという答えでも、昨日の謝罪は変わらない。それだけは伝えさせてくれ」
私は、四つの条項をもう一度読んだ。
品物を受け取ったから残るのではない。この条件で、ここで働きたい。それを確かめてから頷いた。
カシアン殿下は羽ペンを取り、私が書き加えた条項の下に、迷いなく力強いサインを入れた。
私も署名し、一通を彼へ、もう一通を自分の書類入れへ収めた。鞄へ片付けかけていたノートは、机に戻した。
「素晴らしい書き味です、大使殿下。この業務用備品、大切に使わせていただきますね」
私が鉛筆の先を指で弾きながら微笑むと、カシアン殿下は痛いところを突かれたように小さく咳払いをして立ち上がった。
「……あのアメリアでさえ、もう少し気の利いたものが贈れると私を笑うだろうな」
彼は執務室の扉に手をかけ、少しだけ振り返った。
漆黒の瞳が、窓から差し込む朝の光を受けて、ひどく優しく細められていた。
「次は、意味を付けずに渡せるものを覚えます。……それまで、どうかこの不器用な雇用主を見捨てないでやってほしい」
そう言い残して、カシアン殿下は部屋を出ていった。
意味を付けずに渡せるもの。
その言葉が意味する『次の贈り物』の予感に、私は一人になった執務室で、ほんの少しだけ顔が熱くなるのを感じていた。




