第15話 戻ってこいと言われても
アルヴァレト王宮の会議室で、外務長官は警告書をフェリクスの前へ置いた。
「首飾り、来訪公爵の席次幕、そして軍帯への抗議。担当者の勘違いとして片付けるには、続きすぎています。意匠監察の工程を戻してください」
「古い慣習をすべて把握しろというのか」
「そのための専門官を置いていたはずです」
隣に座るゲオルクが、書類の角を揃えた。
外務長官は、その手を見てから続けた。
「アーレン嬢が他国で同じ事故を防いでいる。その比較が、今は各国の使節の目に入っています」
「帝国の当てつけだろう」
「そう受け取る者もいます。しかし、彼女を責めても事故は減りません」
フェリクスは警告書を伏せた。
婚約を破棄した夜、エステルは泣いて縋らなかった。今も、帰らせてほしいと頼んではこない。
そのことまで、自分を責める材料にされている気がした。
「ゲオルク。アーレン嬢に打診を送れ」
「復職の、でございますか」
「助言役でよい。待遇も考えると伝えろ。これ以上、外務に口を出させるな」
工程を戻せという警告書は、伏せられたままだった。
* * *
グランツ帝国大使館での五週間の契約満了まで、あと三日と迫った日の午後。
私の執務室に、実家であるアーレン侯爵家を経由して、一通の手紙が届けられた。差出人は王太子宮の役人で、中身はアルヴァレト王宮への非公式な復帰打診だった。
『これまでの行き違いは水に流そう。儀典の助言役として王宮に戻るなら、相応の厚遇を約束する』
そんな恩着せがましい言葉が並ぶ手紙を読み、私は乾いた笑いを漏らした。あれほど無意味だと罵っておきながら、外務部門から責められれば手のひらを返す。
もちろん、戻る気など毛頭なかった。
だが、手紙の後半に書かれていた一文に、私の視線は冷たく凍りついた。
『君がグランツ帝国に雇われていることは、我が国の改革を貶めるための政治的な当てつけとして利用されている。彼らは君の能力ではなく、その立場を利用しているに過ぎない。君も祖国を売るような真似は本意ではないだろう』
「政治的な、当てつけ……」
手紙を握りしめる指先から、すっと血の気が引いていくのがわかった。
王宮の役人の戯言だと切り捨てるのは簡単だ。だが、私の頭の中に叩き込まれた『意匠の意味を決める文脈』という概念が、酷薄な事実を突きつけていた。
元王太子妃候補であり、王宮を追われた意匠監察官。
その私を、隣国の皇弟が即座に、高待遇で雇用し、外交の表舞台で重用する。
その行為が周囲の目にどう映るか、他国にどのような意味を発信するか。
外交実務のトップであるカシアン殿下が、その『政治的効果』を計算していなかったはずがないのだ。
私は手紙を握りしめたまま席を立ち、早歩きでカシアン殿下の執務室へと向かった。
ノックをして中に入ると、彼はデスクで書類に目を通していた。私のただならぬ気配に気づき、静かにペンを置く。
「どうした、エステル。顔色が悪いぞ」
「カシアン殿下。単刀直入にお伺いいたします」
私は震えそうになる声を必死に抑え込み、彼を真っ直ぐに見据えた。
「私がこの大使館で雇用されていることは、フェリクス殿下の監督不全を諸外国に示すための、外交的な信号として機能しているのですね。……殿下は、最初からそれをご理解の上で、私を雇われたのですか」
執務室に、重く冷たい静寂が落ちた。
カシアン殿下は誤魔化すことも、驚いたふりをすることもしなかった。ただ、深く静かな漆黒の瞳で私を見つめ返し、ゆっくりと頷いた。
「……そうだ。アルヴァレト王宮の失態を際立たせる政治的効果があることは、当初から理解していた」
「っ……」
「だが、誤解しないでくれ。君の専門性に対する私の評価は本物だ。君の知識と能力が我が大使館に必要だったからこそ雇った。政治的効果は、それに付随する副産物に過ぎない」
彼は冷静に、事実だけを並べた。彼の言う通りなのだろう。私が有能でなければ、そもそも雇う価値などないのだから。
でも、私にとってそれは、決して「副産物」などで済まされる問題ではなかった。
「評価が本物だとしても……私に政治的な意味を背負わせるのなら、なぜ、最初に説明してくださらなかったのですか」
私の声は、ひどく掠れていた。
「最初の面談でも、妙な憶測を呼ぶのではとお聞きしました。その時、殿下は能力が必要だと答えてくださった。私は、それで全部だと思っていました」
「王宮にいた頃、私はずっと『王太子の飾り』として扱われてきました。私の仕事も、私自身の名前も、誰かの功績を彩るための無意味な装飾でしかなかった。……殿下は、私の根拠を買うと言ってくださった。名前のある仕事を与えてくださった」
二年間、私の報告書を持ち歩いてくれていたと知った時の、あの胸の温もり。
野花のスケッチを見つめた時の、理由の要らない好意。
それらすべてが、残酷な外交の盤上に置かれた駒のように思えて、視界が歪んだ。
「殿下にとって……私も、都合の良い『意匠』だったのですか」
その言葉が私の口から落ちた瞬間。
常に冷静沈着なカシアン殿下の顔に、初めて明確な焦燥と痛みの色が走った。
「違う! エステル、私は君を道具として扱ったつもりは――」
「結果として、同じです」
私は彼が立ち上がりかけたのを、冷たい声で制した。
「意味を知らせずに使えば、それはただの利用です」
カシアン殿下は、ハッとして言葉を失った。
彼自身の口から「政治的効果を説明しなかった」という事実が出た以上、どんな弁明も空虚に響く。その沈黙を聞きながら、私は、否定してほしかったのだと気づいた。仕事への評価まで嘘だったと言ってほしいのではない。ただ、私が何を傷ついたのかを知ってほしかった。
「……数日後が、契約の更新日ですね」
私は、彼のデスクの隅に置かれていた、すでに用意されている分厚い更新契約書に視線を落とした。
「私の仕事に、そして私という存在そのものに政治的な意味が生じるのなら。……私にも先に説明して、選ばせてください」
「エステル……」
「本日の業務はこれで終了とさせていただきます。失礼いたします」
私は深く一礼し、カシアン殿下の返答を待たずに踵を返した。
扉を閉める間際、彼がひどく悔いるような顔で立ち尽くしているのが見えた。だが、私はもう振り返ることはできず、冷たい空気が流れる廊下へと逃げるように歩み去った。




