第14話 二年間、持ち歩いていた報告書
私が「青い靴」の新しい用法を確かめ、館内向けの補遺録をまとめてから数日が経っていた。
アメリア皇女殿下のアルヴァレト王都滞在も終盤に差し掛かったある日の午後。私は彼女から、大使館の庭園に面したテラスでの私的な茶会に招かれていた。
秋の午後の日差しは柔らかく、テーブルには彼女の故郷であるグランツ帝国風の焼き菓子が並べられている。
「本当に、良いお天気に恵まれましたわ」
アメリア殿下はティーカップを置き、楽しげに目を細めた。
「お兄様から聞いていた通り、あなたはとても誠実で気持ちの良い方ね。あのあと、商会にも問い合わせてくださったのでしょう。向こうからお礼の手紙が来ました。靴の話をしただけで終わらなかったと、喜んでいましたわ」
「もったいないお言葉です」
私は小さく頭を下げた。
「教えていただけて助かりました。靴を作った方にも、銀の糸を選んだ理由を伺えましたので」
「ふふ、真面目なのね。でも、私があなたに感謝しているのは、今回のことだけではないのですよ」
アメリア殿下は、悪戯っぽく少しだけ身を乗り出した。
「二年前。私がセルネ王国へと降嫁した際、アルヴァレト王国から贈られる予定だった天蓋の意匠……あの中に潜んでいた『弔意』の意味を見抜き、土壇場で止めてくださったのは、エステル、あなただったのでしょう?」
彼女の口から出たその話題に、私は少しだけ姿勢を正した。
カシアン殿下から聞かされていたのだろう。私が、あの『意匠照会第47号』の報告書の書き手であることを。
「はい。ですが、私にとってあの報告書は、意匠監察官として日々処理していた数ある実務の、ほんの一つに過ぎませんでした。まさか、国境を越えた貴国でそこまで評価していただいていたとは、思いもよりませんでした」
謙遜ではなく、それが事実だった。王太子宮では名前すら残らない、流れ作業の一環だったのだ。
しかし、私の答えを聞いたアメリア殿下は、ふふっと肩を揺らして笑った。
「あなたにとってはそうだったのでしょうね。でも……お兄様にとっては、違ったのよ」
「違った、とは?」
「あの報告書を受け取ってからというもの、お兄様はずっとあなたを探していたの。……それも、何度も照会して、役所の返事に首をひねっていましたわ」
アメリア殿下は声を潜め、秘密を共有するように言った。
「お兄様はね、あなたの書いたあの第47号報告書の写しを、この二年間、ずーっとご自分の外交鞄の中に忍ばせて持ち歩いていたのよ」
「え……?」
私は思わず声を出してしまった。
二年間、持ち歩いていた?
先日、カシアン殿下が私にあの報告書を見せてくれた時、書き手へ礼を伝えたかったとは聞いていた。だが、まさか日々の公務で使う鞄の中に常備していたとまでは思わなかった。
「同じように判断に迷う品が来ると、折り目を開いて参照していました。端が擦り切れてしまって。私、新しい写しを作ればと何度も言ったのですよ」
「実務の見本だったのですね」
「ええ。ただ、最近変わったこともありますわ」
アメリア殿下は焼き菓子を一つ取った。
「私に、王都で静かに歩ける場所を聞きましたの。図案の店があって、仕事のことを忘れられる場所を、と。報告書を連れて散歩はできませんものね」
アメリア殿下はケラケラと笑っていたが、私の心臓は全く違う理由で激しく高鳴っていた。
報告書が仕事の見本だったことは、もう聞いていた。
私が知らなかったのは、その紙の端が擦り切れるまでの年月と、今の彼が、仕事を忘れて歩ける道を妹に尋ねていたことだった。
職人街で私の歩幅に合わせてくれた人を思い出す。次に誘われたら、何の用事かを聞く前に頷いてしまいそうだった。
「お兄様はね、本当に不器用なの」
アメリア殿下が、ふっと優しい声になった。
「自分の行動が外交的にどういう意味を持つかは瞬時に計算できるのに、自分の感情に名前をつけるのがひどく下手なのよ。だから、あなたが少しだけ、その……察してあげてね」
その言葉の意味を問い返そうとしたが、アメリア殿下は「さて、そろそろ荷造りに戻らなくては」と立ち上がり、それ以上は何も言わなかった。
茶会がお開きになり、アメリア殿下を見送った後。
私は少し火照った頭を冷やすように、大使館の静かな回廊を歩いていた。手には、茶会で話題に上った「意匠規則の更新」に関する私の私用ノートが握られている。
角を曲がろうとした時、向こうから歩いてきた黒い影と鉢合わせになりかけた。
「おっと。……すまない、エステル」
書類の束を抱えたカシアン殿下だった。
彼は少しだけ驚いたように目を見開き、すぐにいつもの冷静な表情に戻った。
「アメリアとの茶会は終わったのか。……あいつ、何か余計なことを言っていなかったか?」
探るような彼の問いかけに、私は先ほどアメリア殿下から聞いた暴露話を思い出し、思わず口元を綻ばせてしまった。
「余計なこと、かどうかはわかりませんが」
私はノートを胸に抱き、少しだけ上目遣いに彼を見た。
「殿下が、私の書いたあの第47号の報告書を……二年間も、毎日外交鞄に入れて持ち歩いてくださっていたと伺いました」
その瞬間。
常に冷静沈着で、他国の使節団を前にしても一歩も引かないカシアン殿下の動きが、文字通りピタリと止まった。
「なっ……」
彼は絶句し、抱えていた書類の束を取り落としそうになるのを慌てて抱え直した。
普段の隙のない彼からは想像もつかないような、完全な狼狽だった。色白の頬が、みるみるうちに微かな朱色に染まっていくのがわかる。
「あいつは……本当に、余計なことばかり言う」
カシアン殿下は気まずそうに視線を彷徨わせ、不器用に咳払いをした。
「いや、違う。持ち歩いていたのは事実だが、それはあくまで、優秀な実務例として手元に置いておく必要があったからで……決して、その、奇妙な執着があったわけでは……」
「はい。存じております。優秀な実務例として、ですよね」
私が微笑みを深めると、彼はさらに言葉に詰まり、最終的には観念したように短く息を吐いて片手で顔を覆った。
私は、彼が抱え直した書類の一番上が裏返しになっているのに気づいた。
「殿下、そのまま会議室へ行かれるおつもりですか」
指摘すると、彼は書類を見て、短く目を閉じた。
いつもなら、そんな間違いはしない人だった。
私に会ってからも、彼は新しく何かを覚えようとしてくれている。野花の好みも、散歩する道も。
「また、職人街へご一緒できますか」
言ってから、胸が騒いだ。
カシアン殿下は今度こそ書類を落とさず、私の顔を見た。
「君がよければ」
その返事を、私は仕事の依頼のようには聞けなかった。




