第10話 好きな模様はありますか
図案帳の注意点をまとめた文書を、文化担当官へ渡した。王国側へも、両国の共有案件に使われた版が古いことを、正式な照会として知らせてもらう。
まだ分からないことは多い。だが、分かった危険だけなら先に伝えられる。
私が小さく息を吐いて重いファイルを机の引き出しにしまった時、執務室の扉がノックされた。
「仕事の区切りはついたか、エステル」
入ってきたのは、本日の外交協議を終えたばかりのカシアン殿下だった。いつもの堅苦しい軍服ではなく、少し身軽な外出用の黒い外套を羽織っている。
「はい、本日の確認事項はすべて完了しております。……大使殿下も、協議お疲れ様でございました」
「ああ。少し根を詰めすぎた。もし君さえ良ければ、少し外の空気を吸いに行かないか」
カシアン殿下の誘いに、私は目を瞬かせた。
時刻は夕刻。まだ日は落ちておらず、王都の街は夕日に美しく染まり始めている頃だ。大使館の中で張り詰めていた空気を和らげるには、確かに良い提案だった。
「お供いたします。護衛の手配を――」
「手配してある。少し離れて歩いてもらう。公式訪問ではないから、堅苦しい格好でなくていい」
そう言って微笑む彼の横顔には、普段の冷徹な特命大使の仮面はなかった。
私たちは大使館の裏門を出て、石畳の道をゆっくりと歩き始めた。
冷たい秋の風が頬を撫で、どこからか焼きたてのパンの香ばしい匂いが漂ってくる。王宮の閉鎖的な庭園とは違う、生き生きとした街の空気に、自然と肩の力が抜けていくのを感じた。
「ここ数日、君には立て続けに重い判断をさせてしまったな」
カシアン殿下は歩調を合わせながら、労うように言った。
「とんでもありません。それが私の仕事ですから」
「だが、君はずっと他人の意図や、外交上の文脈ばかりを気にして図案と睨み合っている。……ふと思ったのだが」
カシアン殿下は少し首を傾げ、私を見下ろした。
「君自身は、どんな模様が好きなんだ?」
「え……?」
私は不意を突かれ、思わず立ち止まってしまった。
私自身の、好きな模様。
頭の中で、王立紋章院の膨大な資料のページがパラパラと捲られていく。私は職業病のように、無意識のうちに最適解を探して口を開いた。
「……用途によります。例えば結婚式のような慶事であれば、白百合と金糸の組み合わせが最も美しく無難です。公的な式典であれば、権威を示す獅子や剣の意匠が適しているかと。あるいは、慰霊の場であれば――」
「いや、そうじゃない」
カシアン殿下が苦笑しながら私の言葉を遮った。
「誰かに贈るためでも、外交の場を丸く収めるためでもない。エステル・アーレンという一人の女性として、純粋に何を見ているのが好きなのかと聞いているんだ」
私はハッとして、口を閉ざした。
自分の好みを問われて、なぜ真っ先に「用途」などという実務的な答えを返してしまったのか。
王太子宮にいた頃、私はよくフェリクス殿下から『お前の個人的な好みなど聞いていない』と切り捨てられていたからだ。
『お前の好き嫌いではなく、客が喜ぶかで考えろ』
そう要求され続けた結果、私はいつしか「ただ好きだから」という純粋な感情を言葉にすることを恐れるようになっていた。理由のない感情は無価値であり、隙を見せれば嘲笑されると思っていたのだ。
「……申し訳ありません。自分の好みを考える習慣が、すっかり抜け落ちていたようです」
私が自嘲気味に俯くと、カシアン殿下は何も言わず、ただ優しく「行こう」と促した。
彼が案内してくれたのは、王都の下町に広がる活気ある職人街だった。
通りには様々な意匠を扱う小さな工房や、色とりどりの布地を並べた問屋が軒を連ねている。夕刻の路地は、一日の仕事を終えた職人や買い物客でごった返していた。
華やかな王宮とは無縁の、泥臭くも活気に満ちた世界。私は物珍しさに目を奪われ、きょろきょろと周囲を見渡しながら歩いていた。
「おっと、どいてくれ!」
突然、前方から野太い声が響いた。
見ると、木材を山積みにした大きな荷車が、人波をかき分けるようにしてこちらへ向かってきている。道幅が狭く、避ける場所が少ない。
危ない、と思った瞬間だった。
「こっちへ」
カシアン殿下が素早く手を伸ばし、私の右手をしっかりと取った。
乱暴に腕を引くのではなく、私の指先を優しく、しかし確かな力で包み込むような触れ方だった。彼はそのまま私を庇うようにして路地の端へ引き寄せ、自分の背中で荷車から私を守ってくれた。
ゴロゴロと車輪の音を立てて荷車が通り過ぎていく間、私はすぐ目の前にある彼の広い背中と、繋がれた手から伝わる熱に、心臓が大きく跳ねるのを感じていた。
危険が去ると、彼は「怪我はないか?」と私を振り返り、繋いでいた手をスッと自然に離した。
ほんの一瞬の出来事だったが、その指先に残った誠実な温もりが、私をひどく動揺させた。
「あ、ありがとうございます……」
「人が多いな。はぐれないように気をつけてくれ」
カシアン殿下は何事もなかったかのように歩き出し、私はほんの少しだけ熱くなった頬を冷ますように、秋の風を吸い込んだ。
職人街の路地裏に入ると、そこには若い画工たちが自作の図案を売る小さな露店がいくつも並んでいた。
王侯貴族が好むような豪華な紋章のデザインから、庶民の衣服に使われる素朴な模様まで、多種多様なスケッチが木箱の上に並べられている。
私は一つ一つの露店を眺めながら歩いていたが、ふと、ある店の端に置かれた一枚のスケッチに視線が釘付けになった。
それは、名もなき『素朴な野花』が描かれたスケッチだった。
華やかさもなければ、権威を示すような力強さもない。道端にひっそりと咲くような、小さく愛らしい花。
私は無意識のうちに立ち止まり、そのスケッチをじっと見つめていた。
幼い頃、亡き母が私のためによくハンカチに刺繍してくれたのが、あのような小さな野花の模様だった。権力闘争とは無縁の、ただ優しさだけが込められていた母の意匠。
私は吸い寄せられるように、何度もそのスケッチに目を向けてしまった。
「……あれが、気に入ったのか?」
隣から聞こえた声に、私はハッとして我に返った。
いつの間にか、カシアン殿下が私の視線の先を追い、その野花のスケッチを見つめていた。
「い、いえ。ただ、少し懐かしい意匠だと思っただけです」
私は慌てて視線を逸らした。
「あのような花は、何の権威的な意味も持ちません。王宮の儀礼に用いるには相応しくありませんし、仕事に使う当てはありませんから」
またしても、私は自分の感情に「合理的な理由」で蓋をしようとした。
そんな私を見て、カシアン殿下は店主に声をかけてスケッチを買い上げるような、野暮な真似はしなかった。彼はただ、私の横顔を静かに観察し、何かを記憶に刻み込むように小さく頷いた。
「……好きという感情に、合理的な理由など要らない」
帰り道、夕暮れに染まる石畳を歩きながら、カシアン殿下がふいに口を開いた。
「ただ惹かれる。理屈抜きで、美しいと思う。……それだけで十分な理由だろう」
私は、返す言葉を考えているふりをした。
本当は、さっき繋いだ手のことを考えていた。あの時、彼の手を離したくなかった理由なら、いくつでも探せそうだった。
人が多かったから。はぐれると困るから。
けれど、帰り道はもう混んでいなかった。
私は彼の隣を、手の甲が触れない程度の距離で歩いた。




