隙間
約一週間半ぶりの自宅に戻っただけだ。唯それだけの事なのに、胸の奥が妙に落ち着かなかった。
「龍臣君、ただいま」平静を装っているが、多岐が尻を触ってきた、手の感触がまだ残っていた。
「今回はちゃんとメッセージ送ったよ、偉いでしょ?はい、お土産」
「そうだな」
吾妻は二条の頭を撫ではしないが、手を頭の上に置いた。頬を少し赤らめる二条は、目を伏せながらもどこか誇らしげで、嬉しそうだった。
胸の奥がふわりと軽くなるような、妙に落ち着かない感覚があった。
二条は小さく息を整え、口元をそっと引き結ぶ。何かを言いたげで、でも言い出せずにいる──その緊張が、嬉しさと入り混じって微妙な空気を作っていた。
吾妻には、細かい事は聞かなくても、二条が心の中で必死に堪えているのが手に取るように判る。
「龍臣君、あの、ちょっと…お願いがありまして」
「何だ」
「ケツを触らして頂きたく」煙草を咥えたまま、両手を併せ頭を下げる。が、間髪入れず頭を小突かれた。
「殴るぞ」
「ってぇッ。もう殴ってる!あの、ほんとマジで話聞いて。組長さんから、ある男について調べて欲しいって頼まれて──」詳細は大幅に省いているが、話の内容はくだらない話というべきか、それが九割に近かった。
「で?」
「え?」二条の口から、場違いな程気の抜けた声が落ちた。
「まだ何か隠してるだろ」
二条が言葉を返すより早く、吾妻が一歩踏み込んだ。
背後でシンクの縁が鈍く鳴る。逃げ場を探すより先に、冷たいステンレスが腰に触れた。
煙草の匂いが近い。吐き出された煙が、行き場を失って二人の間に滞る。
距離が近すぎる。肩が触れそうで触れない、その曖昧な隙間だけがやけに熱を持っていた。
「隠してないよ」
二条はわざとらしい笑みを貼り付ける。吾妻は何も言わず、唯視線だけで追い詰める。沈黙が重く落ちる。逃がさない、と、言葉より雄弁に示すように。
「キス……され、て……」
視線を逸らしたまま零れた声は、情けない程小さい。
いつからだろうか──わざとらしい笑顔は作れても、吾妻には少しずつ嘘をつけなくなっていた。
「あ、でも、仕事だからね」
恐る恐る視線を戻した、その瞬間、吾妻の手が伸びる。躊躇いなく、けれど乱暴でもなく。二条の下唇を、親指でゆっくりとなぞった。柔らかさを確かめるように。
あるいは、そこに残った痕跡を消すように。
「嫉妬してる?」
二条は笑う。わざと軽く、挑発するように。
吾妻の目が細くなる。答えはない。唯、そのまま距離を奪った。唇が重なる。強引ではない。だが、逃げ道を残さない重ね方だった。
煙草の残り香と、僅かに震える呼吸が混ざる。
二条の背に当たるシンクがひやりと冷たいのに、唇だけが熱を持つ。離れる気配がない。触れるだけの筈の口づけが、じわりと深くなる。
漸く解放された時、吾妻は低く言った。
「仕事、なんだろ」声音は平坦だが、嫉妬が滲んでいた。「俺以外に触られるのは、面白くねぇ」
低い声が、胸の奥に落ちる。
「……なら、ちゃんと掴まえといてよ」
二条は僅かに息を乱したまま、視線だけで笑った。強がりにも、甘えにも取れる曖昧な言い方。
一瞬の沈黙の後、吾妻の指が再び二条の顎を捉えている。
「掴まえてるだろ」
今度の口づけは短い。だが、逃げる余地を確かめるような触れ方ではなかった。確信めいている。
二条の背中とシンクの隙間は、最初から存在しなかったかのように近い。
煙草の先が、灰を落とす。




