雪道に舞う4
8
「……想像以上だな、冬」
和久は忙しく目を泳がせながら、陶酔している小町の〝演技〟に魅せられていた。
確かに、美しい。
「うん。この子の才能は本物だわ。そしてこの子には」
滑っている時の情景しか、見えていない――。
冬は四方を舞う小町に向かって、言った。
小町の方には、冬と和久の会話は聞こえていなかった。訥々と小町は演技と言葉を続ける。
「――だからね、私、この速い世界のことをみんなに知って貰おうと思うんだ。でもその前に、もっともっと、試してみたいんだ」
「試す?」
冬はじろりと小町を睨む。
「どこまで行けるのか? どこまで速くなれるのか? どこまで綺麗に、どこまでこの星空の光を持続出来るかって」
「その裏で、誰かが傷ついてるとしても?」
「へっ?」
小町は間抜けな顔で呆けた声を出した。その顔のまま、後ろ向きで滑っている。
「小町の速くて綺麗で、けれども曖昧な世界の中には、他人はいないんじゃない? 前へ前へ滑っていくことで、あんたにぶつかられて、苦しんでいる人が後ろにいることには気づいていないんじゃない?」
小町は首を傾げて、
「誰も傷ついてなんてないよ? 私はずっと、滑ってるだけだもん……滑ってる間は、誰にも会ってなんてないよ?」
屈託無く言った。
和久は唖然とした。
「……マジか。ぶつかるどころか、誰にも会ってないなんて思えるのか、このバカは」
無自覚。
無意識。
悪意は無い。
他意も無い。
憎悪など微塵も無い。
人を傷つけているという自覚が――小町には無い。
自分が毒である、という自覚が――小町には無い。
「これではっきりした。自分の怪我も見えないのね」
冬が淡々と告げる。和久も理解した。
小町は、怪我をしているのは自分だけだと思いこんでいる。人が怪我をしているのにも気づかず、他人の家の壁を破壊したことにも考えが及んでいない。
「……だって、痛くても滑るのが愉しいもん。いけないの? 誰にも迷惑かけてないよ。私、愉しいだけだよ」
懇願するように小町は呻いた。
何か大切なものを奪われようとしているかのような、強烈で漠然とした不安が去来しているようだった。呼吸が荒くなってきているのも、どうやら自覚出来ていない。
小町は新しい友人の優しい言葉を待っているようだが、冬はちっとも優しくなかった。
「いけないの。これは許されないこと。小町がしていることは、村に治しようの無い毒を捲く行為。だから」
貴方を毒殺します。
冬は断言した。
「和久、弓矢」
簡潔に冷徹に、冬は和久の方へと手を差し出した。
「おう」
和久は背にしていた筒――矢筒から、木製の弓とそれに結わえられた矢を取り出す。しなやかで細い古代の『和弓』である。
弓を受け取った冬は粛々と、右手で弓束を握りしめる。更に矢を受け取り、その矢尻を見つめて、おもむろに――舌を這わせた。丹念にねぶる。
唾液をたっぷりと含んだ、緑の舌が、矢尻をてらてらと輝かせた。
「何をやってるの、冬ちゃん? 弓矢なんて、こんな時間に……か……狩りかな?」
不安が更に大きくなったのか。小町はそっと後ずさる。
「うん、狩り。小町を殺すための」
冬は、弦に矢をつがえた。
「こ、こ、殺す? どうして? なんで?」
なんで人間を人間が殺すの――小町は震える声で呻いた。
この村では許されない行為。
この村では誰も行えない行為。
冬がそれを禁じた。
人が人を殺す、などという概念を、小町は生まれて初めて聞いたのだろう。
「このままだと、小町が人を殺してしまうから」
「そ、そ、そんなこと……な、無い。するわけ、無い」
「だったら、スケートを辞めてくれる?」
淡々と語る冬。
小町は怯えた表情で静止した。
「嫌……絶対に、嫌」
「そう」
なら死んで。
冬は小町に矢を向けた。
きらり、矢尻が艶めかしく、月光を反射する。
一瞬見とれかけた小町は、ハッと正気を取り戻して――。
「嫌だああーーーーーッ!」
叫びながら、全力で駆けだした。
踵を返して、スケート靴に一気に重力がかかる。爆竹が弾けるように、小町はその場から消えた。
かつ、かつ、かつ、かつ、かつかつ、かつかつかつかつかつかつかつ。
靴と路面が擦れる音の間隔が、あっと言う間に遠くなっていく。
「……やっぱり、逃げるよね」
冬は安心したように呟き、そして矢を放った。
ひゅん。
風を切り、冬の唾液が付いた矢が闇を裂く。しかし矢は、深い静寂の向こうに消えた。小町には掠りもせず、積もっていた雪に突っ込んだようだ。
「お、おい。見えなくなったぞ、あのスケートバカ?」
和久はそわそわと慌てながら、冬に新しい矢を渡す。
「大丈夫。ちゃんと仕留めるから」
冬は矢を受け取り、また丹念に矢尻をなめ回した。
濡れた緑色の長い舌先から、滴る一粒の雫。和久は訝しげに見つめて、訊く。
「……今度のそれは、どういう毒なんだ?」
「もうもふやおふあえふ」
「舐め終わってから言え、バカ緑」
冬はジト目で和久を睨み、しゅぽん、と舌を口腔に戻す。
「……モウドクヤドクガエル系の毒。毒の種類はアルカロイド系の神経毒、バトラコトキシン。触れるだけでやばい猛毒だよ。体内に浸透したら、あっと言う間に筋肉も神経もぎゅっと萎縮して全身麻痺、一巻の終わり。超々古代の民族は、このカエルの毒を矢に塗って狩猟に用いたんだってさ。一匹分で七人ぐらいは殺せるのかな? 殺傷率ばつぐん」
すらすら饒舌に冬は語った。
「それで〝矢毒蛙〟か……なんつー凶悪な毒唾液だよ……」
「試してみる?」
冬は唾液を塗りたくった矢尻を、軽々と和久の鼻先につきつけた。和久はカエルのように飛び上がる。
「危ねーだろバカ! ブスゴリラ! じゃなくてブス緑ガエル!」
「うっさいなあ。ちょっとぐらい刺さってもどうにかするってば。カエルで緑色なら普通な方だし。さあ、追いかけよ」
冬はむくれながら走り出した。和久も追いかける。
小町が通った跡には、昼に見たのとそっくり同じ轍がある。
追跡は可能だ。
走りながら、和久が冬に問う。
「……様子を見るとかいう気は、あんまり無いみてーだな」
「無い。あの子の無自覚な毒は、やがて成長して他人を殺す。そうなる前に、私が殺す」
それは、私だけが出来ることだから――冬は声のトーンを落とす。
轍は広場を抜け、村の北へと延びていた。小町は相当なスピードで逃げているようだが、迷いが見える。
轍が彼女の混乱を示す、ジグザグ線で残っていた。
山王Z村は村という名前の印象に比べれば、意外と広い。若い村人が把握するには難しいはずだった。畜産に使われている施設や、民家がいくつもの袋小路を作っている。
やってきた和久が、轍を観察する。
「ここら辺だな。轍が無くなってる。それにこの道は真っ直ぐいくと、道が左に婉曲してこの場所に繋がる。進んでも戻ってくるしかない」
一瞬の判断だった。
大して走ったわけでもないのに、冬はひいひいと肩で息をしていて、上手く言葉が紡げないようだ。普段から力仕事をしないだけあって、体力が徹底的に欠けている。
「わ、わ、わ、分かった。ここまで逃げるなんて、あ、あの娘、なかなか根性あるわね」
滝のような汗をかきながらも、冬は根を上げない。
大した根性なのは冬の方だ、と和久は思った。
今も、これまでも、そして和久と出会うまでも。和久は強く生きる、という意味では彼女に勝てる自信が無かった。
「気配はしねーけど……」和久が見回す。
「近くに隠れてるんじゃないのか、あのバカ娘。どうする? 待つか?」
「そ、その必要は、無いよ」冬は深呼吸で、必死に息を整えている。
「バジル、お願い!」
冬のコートの胸元から、するするとエメラルドグリーンの蛇、バジルが這い出てきた。
雪の上に降り立ち、つぶらな瞳がくりくりと動く。
バジルは、グンプレヒト・グリーン・ピットバイパーたる、古代の原種の特性を引き継いでいる。
それが蛇特有の感覚器官――ピット器官である。
赤外線を感知する特殊機能を持つピッと器官でバジルは、温度や熱といったものを感覚で感じ取り、明暗に左右されること無く、獲物の位置を正確に把握することが可能なのだ。
この器官の原理は、古代世界の文明においてもサーモグラフィという技術に利用されている。
バジルは古代の原種に比べれば体が小さく退化していたが、このピット器官に関しては先祖を遙かに凌駕する〝性能〟を有していた。
バジルならば。闇の中でも人が見える。
右へ、左へとバジルの三角の頭部が動く。
人でいう唇の位置に、ピット器官はある。それを凍った闇に向けることで、小町を探す。
バジルの感覚を映像化出来れば、極低温の青い闇の中に、赤い生命の熱を帯びた太陽の如き人の輪郭が映るだろう。
静寂の中、和久と冬はじっと、動かずにバジルを待つ。
バジルの頭部が、冬達の前方右方向を向いて、止まった。金属が擦れるような鳴き声で、きしゃーと鳴く。
それが合図だった。
冬は無言で、バジルが示した方向に弓を構える。
ひゅん。
放たれた矢が闇を切り裂く。
乾いた空気をびりびりと振動させて、どすんと矢は民家の壁に突き立った。
「きゃあ!」
か細い悲鳴が響いた。
民家と民家の壁の隙間から、雪まみれの小町が、震え怯えながら進み出てきた。
「うう……冬ちゃん……」
小町は強すぎる恐怖のせいか、薄笑いすら浮かべていた。
「大人しくしていろ、とは言わないよ、小町。誰だって死にたくはないものね。殺されるなんて、なおさら」
冬が新たに構えた矢尻の先は、迷うこと無く小町を狙っている。
「うう、う……」
殺意に凍てつく心。小町を見据える毒蛇。
触れただけで死ぬ、猛毒。
小町は、眼前の恐怖を見据えながら、足に万力のような力を込めていた。
ぎりぎりぎりぎりぎり。凍った路面にヒビが入る。
「逃げてもいいけど逃げても無駄だよ」
ひゅん。言い終わる前に、冬は矢を放った。その瞬間を小町は待っていたようだ。
小町が動いた、かと思うと――雪が爆ぜた。氷が散った。風が凪いだ。
片足を軸に、小町は体の向きを変えていた。
冬と和久には、その動きが見えていなかった。
小町は、恐ろしく俊敏な動作で腰を落とし、自分の体にスピンをかけて、矢を避けたのだ。
「こ、こ……殺せるものなら、殺してみろぉ!」
小町が、冬を挑発する。
「和久、矢」
冬は顔色一つ変えず、和久から矢を受け取って舌を這わせる。小町は目を剥いた。
「ふ、冬ちゃんの力は、私もなんとなくは知ってるよ。でで、でも、その矢、射るごとに舐めなきゃいけないんでしょ? す、隙だらけだから。当たらないから。私、ここまで逃げてる途中で分かった。見ようとすれば、矢の動きぐらい見える。避けようと思えば、それぐらい、避けられる!」
「やってみなよ」
冬が矢を射る。
氷霧が広がって舞い散る。
しかし小町はまたしても、今度は上半身を横に大きく反らしながらスピンして、間一髪のところで矢を避けた。
「ふふふふふ」狂気じみた目で小町は笑っている。
「見えるし、避けられる。冬ちゃんの動きなんて全部読めちゃう!」
小町は冬に背を向け、疾走を始めた。更にスピードを増し、降りしきる雪の中を突っ切る。
波紋を受けた水面のように、雪の層が何重にも渡ってたわむ。
「おお……すげえすげえ、あのバカ娘。しっかし、真っ直ぐ進んでも出口は無いのによ、単純バカ――」
和久は、言い終わる前に口をつぐんだ。呆然と、小町の軌道を見る。冬も目を見開いた。
小町は――壁を走っていた。
僅かに、ほんの僅かに傾いた民家の壁面を、重力を無視して、滑り、昇っていた。
うおおおお、と少女らしからぬ唸り声を上げて。
長いマフラーが、天から地へとなびいて流れる。
非常識すぎて、美しかった。
「和久……鯉の滝昇り、って言葉が古代にあったって知ってる?」
冬は感心したかのように述べた。
「し、知らん。意味は?」
「鯉って魚が、滝を昇るって意味」
「うん、そうか……まんまじゃねーかアホガエル」
「必死になると人間、あそこまで出来るんだね。スケートって凄い」
バジルまでも、うんうんと頷いている。
小町は、地面を滑るかのように壁面を滑って移動していく。
「いや……あれは凄いってレベルじゃねーんじゃないかな、多分」和久は呆れながら首を傾げる。
「どう見ても人間が出来る動きの限界を越えてるぞ。あのバカ娘が古代に生きてたら、そのスケートって競技じゃ英雄か実験台になれる気がするんだが」
「ふうん。そういうもんか。でも、古代じゃ英雄でも、今では暴走馬だよ」
冬はそう吐き捨てて、新しい矢を弓につがえる。
射る。
小町が、後ろを向いたままジャンプした。三回、いや四回ほどは回転しただろうか。矢は虚空に飲み込まれて消えた。
チェック模様の小型の竜巻が、よろめきもせずに地面に降り立った。
はらり、と髪の毛が雪と共に舞った。
「……惜しい。本当に凄いな、文字通り間一髪で避けてるのね」
冬が感嘆して呻く。
小町は、はあはあと真っ白な息に表情を隠しながら、冬を睨む。
そしてすぐにまた疾走した。
大きな民家の壁を、殆ど地面とは垂直に昇っていく。ガリガリと壁と氷が削れる音が響いてくる。和久の言う通り、身体能力や技術というものを完全に超越していた。
「おい冬、あのバカ、このままの勢いじゃ……!」
和久は驚愕して、小町を追いかけようとする。だが冬は何故か、手を出して制止した。
その間に小町は屋根に上がって、星空の高みから冬達を見下ろしていた。
マフラーとスカートに、ばたばたと強い雪風を浴びて。
「ここまでは追いかけては来られないよね、冬ちゃんだって。私、まだまだ辞めないよ。殺されたりもしない」
小町は、勝ち誇ったようにニヤリと笑った。
「……だってよ。どーすんだ、冬? このまま村の外に追い出すって手もあるか」
それともやっぱり殺すか、と和久は低い声で言った。
冬は何も言わない。矢を向けようともしない。
小町は怪訝に様子を見ながらも、動こうとしていた――が。
「あ……れ……?」
がくりと力が抜け、バランスが崩れた。
「!」
和久が駆けつける間も無く、小町は自死するかのように、屋根の上から真っ逆様に落下した。
9
――何が起きたんだろう。
星空はぐらぐら揺れていた。
ずしりと鈍い痛みが、小町の全身を襲っていた。
口が、舌が、痙攣を始めている。
何が起きたのか。自分は死ぬのか。分からない。
それでも小町は、逃げようと思った。
足に力を入れろ。前を見ろ。重心をずらすな。滑って前へ進め。
何も見ずに、己さえ見ずに。円を描いて(エッジワークで)進め。
「しぶといわよ、小町! もう無駄なのよ!」冷酷な声が小町の耳をとらえた。
「すでに、あんたの体には毒が回ってるんだから!」
聞きたくないので、小町は滑った。全然、スピードが出なかった。
悔しくて涙が出る。
鼻水も出るが、麻痺した感覚は小町が恥じらうことすら許さない。
それでも前へと滑っていく、その向かう先の吹雪に――。
子供がいた。
まだ小さい、七歳ぐらいの少女だった。
小町は、自分の軌道上に人間がいるのを、初めて発見した。
その子供は、自分の家の壁の上を走り、屋根に上がって笑う何者かに興味を惹かれて、つい外に出てしまったのだった。
――ああ、こういうことか。
小町は納得した。
自分は、速くて綺麗な世界の中で、誰かに怪我を負わせていた。
速さを失って、ようやく小町は気づいた。
速度を奪われた情景の中に、被害者がいたことに。
その存在に、自分が気づこうともしていなかったことに。
自分が村の毒であることに。
小町は全てを諦めて、子供を避けて、派手に転んだ。
壁に激突した小町は。
痛いのは嫌だな、と空に呟いた。




