雪道に舞う3
6
村の一日は、午後という概念が失われかねないほどに早い。元々暗かった灰色混じりの紺碧の空が、更に暗くなってきた。
冬と和久がやってきたのは、粗末で手狭な民家だった。
玄関先にはいくつもの植木鉢があり、冬も和久も見慣れない観葉植物の花弁がたくさん咲いていた。この村で咲く以上、遺伝子操作は為されているだろうが、これほどの数を設備も無い室内で育てるのは至難だっただろう。
文化や文明が一度は凍りつき、風景にも変化が無いこの村では、村人は各々のプライベートな空間に特有の価値を見いだすしかなかった。夜や星空に特別な意味を与えないと耐えられないほどに、古代の旅人は孤独だったと言う。凍った世界も、同様に孤独だ。
家の主人である恩田は、
「その花は全部、娘が育てたんだ」
と自慢気に言って、冬と和久を、丸太で組まれた質素な手作りの椅子に座らせた。
冬は同じ丸太組みのテーブルに手を着いて、しげしげと眺めていた。
「滑らかで温かみがあって、いい家具だなあ……」
相変わらず渋い趣味だ、と和久は思う。
恩田はテーブルの反対側に座る。太い眉と鼻の下にちょっとだけ残された髭が、肥えた中年を愛嬌のある風貌に見せている。妻はお茶を入れるために台所に立っていた。
「いやあ、まさか冬さんのような子が、うちに来てくれるなんてねえ」
恩田は、大げさな身振りで笑った。
バイオプラントで野菜を作っている恩田は、つい先ほど、冬達が来る直前に帰宅したところだったらしい。まだ体は冷えているようで、待ち遠しそうに台所から上がる湯気と冬達を交互に見ながら、話し始めた。
「一体何の用なのかな?」
「……私と同じくらいの、元気な女の子がいるって訊いて」
冬は微笑みかけたが、目は笑っていない。
「小町に会いに来てくれたのか? 小町は冬さんの一つ上だよ。もしかして友達になってやってくれるのかい?」
恩田の目は期待に輝いていた。村人から訊いた通り、この付近では小町と同年代の少女がいないようだ。
「うん。仲良く……なれたらね」
「そうだなあ、なれたらいい。小町は親の私が言うのもなんだが、優しい子でねえ。親のためにも早く大人になって早く働くんだ、ってねえ」
黙っていた和久がたった一言、
「出来た娘だな」
と呟いた。
「余計なこと言ったら怒るからね」
冬が小声で囁き、圧迫感を込めて和久を睨んでくる。
そうしている内に恩田の妻が、お盆にカップを四つ乗せてテーブルに戻ってきた。
「あなた、娘自慢はそれぐらいにね。冬さんが困るわよ」
妻が苦笑しながら、カップを全員の前に差し出す。和久は紅茶だと思っていたが、カップからは清涼感のある、複雑な森の香りが漂ってきた。冬の好きな、緑茶だ。
「さあ、お茶をどうぞ。冷めたら不味いですからね」
妻の言葉に、恩田は誰より早くカップに口をつけた。美味しそうに、ズズズと音を立てて飲む。
冬も、ふーふーと冷ましながら、自分と同じ色のお茶に口をつけていた。和久もそれに倣う。大分濃いが、冬はこれぐらい渋い方が好みだろう。体の芯から温まり、四人共に一心地ついた。
「……それで、小町さんはまだ帰ってないの?」
おもむろに冬は訊いた。
「そうなんだよ」
恩田は肩をすくめて、ため息を吐いた。
「小町の奴、最近は朝から外に出て、日が沈むまで帰ってこないんだ。困ったもんだよ」
「どこで何をしてるのやら、ねえ」
妻も困った顔をしている。
「最近、小町さんにプレゼントを買わなかった?」
冬は無遠慮に訊く。
「ああ、買った買った。せんじーのところで、面白い靴を見つけてね。何という名前だったかな。歩きにくそうなんだが、娘のマフラーと同じようなチェック柄でね」
「あのマフラーは、私が編んであげたのよ」
重ねるように妻が言った。恩田がそうだったそうだった、と笑う。
「あの子は、私らがあげた物はどこでも手放さないからなあ。家の中でもマフラーを捲いてその靴を履くんだ」
困ったもんだ、と恩田は繰り返した。
つまり小町は、今も外でスケート靴でうろついているのだ。
――野獣を村に放っているようなものだ。
娘のせいで家事が出来なくなった犠牲者が村に出ている、と聞いたら、恩田夫妻はどう思うだろうか。
思ったところで、娘の行動のどこに問題があるのか、彼らは理解出来るだろうか。困ったものだ、で済ましてしまうかもしれない。食卓で子供の悪戯を戒める程度に。
山王Z村に生きる村人である以上、彼らには限界がある。
この夫妻には小町を罰することが出来ないことは分かっている。だからこそ、和久と冬が事態に立ち向かわねばならない。
「ごちそうさまでした」
冬はカップを置いた。和久が見ると、お茶は半分以上残っていた。
「おや、もういいのかい? 待っていれば小町も戻ってくると思うが」
物惜しげに、恩田は引き留めようとする。
「すぐ会えると思う。今日は小町さんの帰りが遅くなるかもしれないから、二人とも先にご飯は食べててね。お茶、美味しかったです」
冬はそれだけ言うとすっと立ち上がり、振り返らずに玄関に向かった。
和久も慌てて立ち、恩田夫妻に一礼して冬を追いかける。村人達同様、きょとんとしている夫妻の視線が、瞼に焼きついた。
玄関の外に出てから、冬は。
「ここではこれ以上、暖まっては駄目だよね……」
恩田家の扉に向かって、掠れた声で呟いた。
7
疾く走れ。
疾く進め。
風は暗雲を払い流す。見上げれば月しか無い。見渡せば星しか無い。
見方を変えれば、世界はいくらでも光輝に満ちている。
今更、闇を振り返ることは無いのだ。
その者――恩田小町は、両親のお土産であるところのスケート靴を試してみたことで、星の瞬きの美しさを知った。
朝や昼の情緒ある光は、良い。夕空に照らされて斑な光も、良い。
小町が滑る風の中にだけ、夜空をも越える星の光は現れた。未だに小町しか知らない、曙光。
宵闇に包まれる時間に合っても、今の小町は輝いている。
早く。速く。
この光を皆に知らせたい。
そう小町は願う。
だけど今はまだ。自分がこの美に浸りたい。
身震いする感覚、雪上に足をつけて踊る筋肉。
目覚める肉体、肉体に宿る魂。肌に張り付く風、風にぴんとなびくマフラー。
広がるスカート、スカートの中に集まる氷霧。
――酔いしれたい。
村の道は小町のもの。村の星は小町のもの。村の未来は小町のもの。
村は、小町のもの。
今いる、この見晴らしのいい円形の中央広場も、勿論小町のもの。
もっと走ってもっと滑って何もかも瞬きだけになるまで――。
「恩田小町、止まりなさい!」
声が、瞬きの邪魔をした。聞き覚えのある声だ。
いつもなら周りの雑音など耳に入らないのだが、その声には、小町の心の奥に直接揺さぶりをかけるような――夢の中にあるような、奇妙な懐かしさがあった。
体を横にして、靴のブレードに抵抗を与える。
ききー。ざざー。ガラスを研ぎながら、砂を噛むような音。
――止まる音は不快だ。
張りつめたマフラーが精気を失い、広がっていたスカートが、ふわりと羽を休めて――。
小町は、前方の民家の壁に、思い切り体当たりした。
どごん、と大砲を発射したような音に、非道く鈍い、何かが裂けるような小さな音が混ざった。
一拍置いて、屋根からどっさり大量の雪が落ちてきて、小町の体を埋めてしまった。
一瞬、上下左右が分からなくなった。
「……?」
小町は手探りに手足を掻き回し、重力に逆らうように雪の中から顔を出した。
誰かが、心配そうに小町を見つめていた。
「だ……大丈夫?」
それは、山王Z村郷土史館、館長代理――村の全てを管理する者、野村冬だった。
緑の髪、緑の瞳、真っ白な肌。小さく華奢な体は、分厚いコートに守られている。
村の誰もが、いつの頃からか、何より大切だと思っていた存在。
村の主。
その隣には、笑顔が爽やかで快活そうな、けれどもどこか頼りなさそうな、黒髪の少年がいた。和久という名の冬の友人だと、小町は記憶の糸を辿って思い出す。背中に大きくて長い皮の筒を背負っていて、それがとても邪魔そうだった。
「冬ちゃんだ!」
小町は声を上げた。
冬とは同年代だが、小町が見かける時はいつも村の大人達が冬を取り囲んでいたので、遠慮してしまって話しかけたことは無かった。小町が前に郷土史館に遊びに行った時に、一度だけ挨拶をしただけだ。
あのとき冬はちょっとびっくりしながら、はにかむように笑ってくれた。
その日から、小町にとっても冬は村のアイドルになった。
「そう、冬。私のことは知ってるわね?」
小町の回想とは違う、引きつった笑顔で冬は言った。
「うん、もちろん。だって冬ちゃんは村のみんなの大切な家族だもん!」
「なら、良かった」
冬は、小町に手を差し出してきた。小町はちょっと緊張して、冬の手を握り返す。
出会いを祝福する握手だ、と小町は思った。
冬の握力はイメージより強い。左手の甲に爪が食い込んで、少しちくりと痛かった。
「老若男女にモテやがるな、猛毒緑ゴリラのくせに」
和久が、穏やかな口調で冬の肩を叩いた。
「うるさい、和久」
冬が冷たく言い放つが、小町には二人の会話の意味が良く分からなかった。
「かなり盛大にぶつかったけど、どこか怪我してない?」
冬に訊かれて、小町は初めて自分の体の違和感に気づいた。
右手を上げると、毛糸の手袋の手首の部分が腫れていて、うっすらと血も滲んでいる。
痛そうに、と冬が母親のように呻いた。
「大丈夫だよ冬ちゃん。これぐらい、いつものことだから……痛てて」
小町は手を振ってみたが、鈍痛が走った。とても激しくは動かせない。当分、力仕事は無理そうだった。
――熱い石狩鍋は持てないな。
大好きな母の料理のことを小町は考えた。
和久はその後ろの壁の方が気になっているようだった。
「こりゃーまた派手にぶち壊したな。クマかゴリラが突撃したみてーだ」
小町が突っ込んだ家の壁は、真ん中に大きな穴が空き、そこから縦横無尽に亀裂が広がっていた。
「補修は一筋縄じゃいかないでしょうね……」
冬が目を細める。
小町は壁の穴を見やる。確かに壊れているけど、だからどうしたんだろう、と思った。
それ以上の感想を持てない。和久は顔を強張らせながら、壁の亀裂に触れている。
「これがスケートっつー文明の破壊力ってわけだな」
「スケート靴は兵器じゃないよ、和久」
「兵器じゃなくても、自覚の無い力は毒になる、だろ? 猛毒少女さんよ」
含みのある言葉を囁く和久に、冬はぎこちなく頷く。
矢張り小町は、二人の会話についていけない。
「恩田小町ちゃん」
冬は厳かな声を出す。
「小町でいーよ、冬ちゃん」
笑顔で小町は返した。呼び止められた時は、呼び捨てだったはずだ。
「……小町」冬は緩慢に頷く。
「貴方が村の道路を滑って、この中央広場に来るところ、見せて貰ったわ。そのスケート靴、見事に履きこなしてるよーね」
とっても綺麗な姿勢だったよ、と冬は微笑んだ。
「でしょでしょ!? 見てるだけでも分かるんだね! やっぱり凄いなあ、このスケート靴って」喜色満面の小町は、うっとりと進み出した。
「昔の人達はさあ、この世界の美しさを知ってたんだね」
おもむろに小町は、冬と和久の周囲を滑り出す。
ついっ、と片足で。
「こうすれば、光は流れていく」
後ろを向き、すいすいと。
「こうすれば、堅い石の世界は遠くなっていって」
手を広げて、ぐんぐんと。
「速く滑れば滑る程、周りの世界は曖昧になって。雪や風だけが、真っ暗な中で輝いて!」
円形の広場で、小町は自在に滑る。
マフラーが翻えって、スカートが風を吸った。




