雪道に舞う2
4
郷土史館こと毒物館から東へ五分ほど歩くと、人家はまばらで少なくなってくる。
そこに千藤老人、通称せんじーは居を構えている。店舗兼、住居である。
鈍色にくすんだ煉瓦造りの一階建て。
適当な鉄板でこしらえた、建物より更にくすんだ鈍色の看板。看板自体が斜めに傾いている上に、雪の量が多いと店名はすぐに隠れてしまう。
その日はかろうじて『よろず屋せんじー』と、乱暴に書かれた店名を認めることが出来た。
よろず屋せんじーは村唯一のスクラップショップだ。村唯一ということは、村の主である冬に許されているという意味でもある。
不必要な鉄クズや様々なゴミ、日用品――更には、氷河期で滅びた古代の文明の遺産。
村の外縁部や、村の地下からも発見されるそれらをレストアし、村人達に還元する。
千藤はそれを可能にする、村唯一であり、村一番の技術者でもある。
ギコギコと錆びた、それでいて寂れた音を出すドアを開き、和久と冬は店内に入った。
これもまた鈍重な、カウベルの音が鳴り響く。
店の中は狭く、鉄クズや壊れたタンス、欠けた皿、何故か妙に豪華な意匠の燭台と、雑多にも程がある、混沌の品々が溢れている。それらは全て売り物か、村人に補修を頼まれた品々だ。
その品種の多用さに、毒物館よりこの店の方がよほど歴史的価値に触れているのでは、と和久は思ってしまう。
「あいよー」
店の奥から、店主の千藤がのそのそと現れた。
白髪交じりの黒髪を後ろに撫でつけ、相応の皺が顔に刻まれている。だが丸眼鏡の奥で黒々と、光を飲み込むかのような眼光は、年齢を感じさせない強壮さに溢れていた。
「せんじー!」
冬がフードを脱いで緑の髪の毛をさらりと晒し、嬉しそうに千藤の方へ駆け寄った。
「おほう」
冬の姿を認めた千藤の目尻が下がり、たちまち柔和な顔になる。
「冬ちゃんでないかい。元気そうだ。何よりだ」
「うん。せんじーも!」
冬はこの千藤に懐いている。あまり人付き合いを好まない冬は、年齢差の離れた男性に気を許す傾向にある、と和久は読んでいる。
千藤は和久の存在にも気づき、笑いかけてきた。
「おほう、和久くんもいたか。何より、何よりだ」
「俺よりそこのファザコン豚女が会いたがってたぜ、せんじーよ」
ぴくりと冬の肩が動いた。
「はっはっは。なるほどなあ。何よりだ」
冬は横目で恨めしそうに和久の方を睨んでいたが、彼は千藤の豪放磊落な笑顔に心身の冷たさを溶かされ、気を抜いてしまっていた。
「それで、何かご入り用かい、冬ちゃん。申し訳無いんだが、前に頼まれたオルゴールはもうちょっと待ってもらえるかの? どうも原曲を再現するのが難しくてねえ」
「う、うん……いや、そのことじゃないの」
冬はしかめっ面を無理矢理、笑顔に戻した。
「せんじーが最近、客に売った道具について、訊きたいことがあって」
「道具? 何か面白い物でも売ったかの」
「えーとね。人が乗れる物か履ける物で、雪の上をびゅーんと飛んでるような、真っ直ぐ長い轍が出来る道具」
「……は?」
千藤は怪訝そうに首を捻っている。
「ふわふわしたボキャブラリーで話すんじゃねーよ。ちゃんと分かるように説明しろボケ」
まったくこの低能は。
和久は真っ直ぐな瞳で、諭すように言った。
「…………」
冬はじっと唇を噛みしめて黙ってしまった。
「あー……人が移動するのに、スピードが出るような乗り物や道具があるか、ということかの」
沈黙に耐えかねた千藤の方が、冬の言葉を咀嚼して噛み砕いた。
「うん、そう! さすがせんじー、私の考えが分かってるね」
パッと明るくなった冬は、その明るい笑顔の端で和久を睨んだ。
和久はその視線を受け止めてたじろぐ。
千藤は髭を撫でながら、記憶の糸をたぐった。
「ふむ……さて、何があったかのう。乗り物で、雪上でスピードを出せるとしたら、スノーモービルという物が、かつてはあったそうだの」
「スノーモービル? 自動車や自転車とは違うの?」
冬が不思議そうに訊く。
「似て、非なる。車輪で走るのではないのじゃ。トラックベルト――ゴムで出来たベルト状の輪を駆動装置にして走る、特殊な車だの。一人か二人乗り用で、自転車のように屋根は無いから転ぶと危険だの」
「自動で走る犬ゾリみたいなもんかよ。便利そうだけどけったいな乗り物だな」
和久が想像しながら言うと、千藤はぬははと愉快そうに笑い、
「和久くんはさすがに世界を観ておるな」
と述べた。和久も照れ臭くなって顔がほころぶ。
そのやりとりが面白くないのだろうか、冬が話を進めようと身を乗り出した。
「そんなのがあったなんて知らなかったよ、せんじー。この村にその、スノーモービルがあるの? 自動車や自転車も禁止してるんだから、それも禁止しなくちゃいけないよ」
「いや。文献や設計図が見つかっているだけで、わしも実物は見たことが無いのう」
「え、無いんだ……」
「ねーのかよ……」
同時に和久と冬は、何故か残念そうに呟いた。
「ああ、無いのう。あれば便利だったかもしれんがの。乗り物ではないとして、この村に現存する道具……それでわしが思い出せるのは、あとは一つだけだの。靴じゃ」
「靴ー? 靴であの轍は出来ないよ。真っ直ぐで、長くて」
――それでいて、愉しそうな。
和久は迷いが無く活き活きとしていた、あの轍の軌跡を思い浮かべた。
「普通の靴やブーツの類では無理だの。それもまた、古代の技術によって造られた靴なのじゃ。名前を〝スケート靴〟と言う」
「スケート靴……」
冬はぽかんとして、その言葉を繰り返した。響きが気になったようだ。
「スケート靴は、靴底に刃があり、氷上で歩くのでは無く〝滑る〟ことを目的に発明されたのじゃ。スピードも、歩くよりは遙かに出るようだの。文献によれば、古代の更に古代、人が文明を持った頃には、すでに動物の骨を刃代わりに用いたスケート靴が存在していたようだの」
「へー。そんなクソなげぇ歴史があんのか、そのスケート靴ってのは。大したもんじゃん」
和久が興味深そうに述べる。
冬が忌むように和久を睨んで、
「クソは余計だってば……」
と小声で漏らした。和久はさすがに気づいたが、申し開きが出来ずに口をつぐむ。
「シンプルながら、良く出来ているのだがの。このスケート靴、どうやら使う者を選ぶ。氷上ならまだしも、雪上で歩くにはきつい道具じゃ。凍結した歩道で試そうとしたのじゃが、わしでは歩くこともままならんかった。もう若くないからのう……身体を動かすことは苦手になってしまったの」
顔をくしゃくしゃにして千藤は苦笑する。
冬は、その苦いが味のある笑顔をじっと見つめる。
「せんじー、そのスケート靴は今どこにある?」
「うむ。それが数日前に売ってしまったんじゃ。買いに来たのは中年の夫婦だったがの。わしも最初は、村の中では使う場所は無いと助言したんじゃが。旦那の方が、デザインが可愛い、家族へのお土産に丁度良いとな」
仲の良さそうな夫婦で何より何より、と千藤はしみじみ言った。
5
舞いおちる雪のひとひらひとひらが、その大きさを増してきた。
風が強いためか、粉雪も目立つ。
民家が密集する村の南部側は、村人達の雪かきも行き届いていて、散歩するのにも適している。もっともこの村で、散歩を好む者は少ないが。
並ぶ家々の窓には、ぽつぽつと薄灯りが見える。家の主人の帰宅が近いので、夕餉の準備が行われているのだろう。
山王Z村では、男手の殆どは農業に従事している。季節は常に冬だが、復活した古代の技術の中には、低温での室内栽培を可能にするバイオプラントがあった。それらの設備の管理と収穫量のコントロールが、この村での農業のスタイルだ。
野菜や果物は、古代の時点で遺伝子組み替えでの生態系の操作が徹底され、人類の大半が滅び去っても寒さの中で逞しく生き延びた。誰もが人体への影響を懸念した遺伝子組み替え野菜は、誰もが予想しなかった氷河期を生き延びるための人類の生命線となった。
また、村の北部では畜産も行われている。言うまでもなくそちらで飼育されている家畜達も、効率的に精肉されるために、遺伝子操作が施されている。最近では合成肉の製造の工程が記された文献が見つかり、遠くない未来に村内での畜産のスタイルが、大きく変化する可能性もあった。足が三本ある鶏が生まれる日もやって来るのかもしれない。
どの技術もどの知識も、一部の村の人間が古代の遺産を発掘し、文献を読みとき、寝食を削って蘇らせたものである。
山王Z村の技術と文化のレベルは、この通りちぐはぐでツギハギだ。
文化習俗は古代の更に古代の時代に参考を置き、素朴に、質素に。その生活を支えるのは、土の下から気紛れに湧き出てくるロストテクノロジー。
手探りに見いだしたそれが、この村が氷の時代で生き残る手段だった。
冬がマフラーで顔を庇いながら、一歩踏み出す。
よろよろと歩道を進んでいくその様を、心配そうに和久は見つめる。
子供の鼬のように小さく細い彼女の両足には、先程『よろず屋せんじー』で借りてきたスケート靴が装着されていた。和久も同じ物を履いている。冬の方は女の子らしい赤色、和久の方は黒い無地のデザイン。売れた方のスケート靴はチェック柄だったらしい。
和久の足には少々この靴はきつかった。かかとがぎゅうぎゅうに締め付けられる。恐らく冬の年代の女の子では、丁度いいサイズだ。
「よっと……ほっと……すっと」
「寝起きの芋虫みたいに慎重にな。立つだけでも難儀だったんだからよ、お前の骨みてーな足じゃ」
余裕が無い冬が無言で頷き、足下を注視しながら、更に歩を進めた。
本当にスケート靴は、使う者を選ぶ道具なのか。千藤が老いているだけで、実は誰でも使いこなせるのではないのか。
そう考えた和久と冬は、実際に実験してみることにしたのだ。
――と言うわけで、実験結果、歩行開始から三十秒後。
「あひゃ」
という叫び声を最後に、冬は思いっきり、地面に熱烈なキスをした。
足下を注視しすぎた冬は前方にのけ反り、受け身も取れずに全身で転んだのだ。
冬の貧弱な胸と地面に挟まれ、潰されかけて驚いたバジルが、コートの裾からするすると脱出を図った。冬はバンザイの格好のまま、雪に埋まっている。
和久は苦笑しながら、手を取って起こしてやった。慈しむように、白と緑のマーブル模様になった髪や、コートに付いた雪を払う。
冬は申し訳無さそうに、されるがままにしている。
「ゴリラみてえな図体でぶっ倒れてんなよ。緑色のゴリラの凍りづけになるぞ」
その言葉で、冬の中の感謝の気持ちは見事に吹き飛んだようだ。
「黙って起こしてくれたらいいのに……」
愚痴りながら、冬は背を向けてしまった。
「ま、ジジイと緑ゴリラが履きこなすのは難しいみてーだな」
「和久はどーなのさ。ふん」
面白く無さそうに、冬は鼻を鳴らす。
「俺か? そーだなあ。何回か練習すればもうちょっと上手くなれる気がするけど」
ゆっくりとだが、和久は器用に歩き回る。
「いきなり、すいすいとは無理だな。そもそも雪道で履く物じゃないんだろ、このスケート靴ってのはよ」
「……凍結した水面の上とかで本領を発揮する、ってせんじーは言ってたね」
戻ってきたバジルの顔を撫でながら、冬は答えた。
運動が得意な和久でも、この程度なのだ。数日前に初めて履いた人間が、目にも留まらぬ速さで履きこなすなど、信じられないことだ。
和久が今歩いた場所には、うっすらとだがあの轍と同じ跡が出来ている。だが、そちらも軌道がよろよろと蛇行している。犯人にはよほどのバランス感覚があり、そして迷いが無いのだろう。
――この場合、犯人はひき逃げ犯と呼べばいいのだろうか?
と、和久がどうでもいいことを考えていると。
冬はこちらに背を向けたまま脇腹をさすっていた。さっき転んだ時に、痛めてしまったのだろうか。背中が丸まっていて如何にも苦しそうだが、冬は口に出さない。悟られないようにしているのだろう。
和久は気にかけてやるべきかと迷ったが、このように機嫌の悪さを露骨に出している冬に下手に話しかけると、余計に機嫌を損ねることの方が多い。
気まずい沈黙の時間を救ってくれたのは、数人の村人達だった。
農作業から帰ってきた村の男達が、わらわらと通りかかったのだ。冬に気づいた彼らは、一様に親しげに話しかけてくる。
「おー誰かと思えば冬ちゃん!」
「こんばんは、みんな」
「郷土史館にはいなくていいのかい?」
「うん。ちょっと用があって」
「お腹減ってないか? うちで野菜スープでも飲んでいくか?」
「嬉しいけど、やることがあるんだ」
温かい言葉ばかりだ。冬は破顔する。村の者達は皆、冬を実の娘のように大切にする。
千藤も含めて例外はいない。
その様子をニコニコと見ている和久の心には、羨望や卑しみの気持ちはかけらも無い。
ただ純粋に、冬と村人達の親睦を愛おしげに眺める。
「じゃあ忙しいから」
冬がこの場を去ろうとすると。
「そうそう冬ちゃん、今日うちの嫁が怪我をしたんだがなあ」
一人の村人が、唐突に呼び止めてきた。和久も冬も緊張する。
「奥さんが……?」
恐る恐る冬が訊いた。
「ああ、朝から家の前で雪かきをしてたんだが、いきなり誰かに突き飛ばされたらしくてなあ」
「……嫁さんは、相手のツラは拝んだって言ってたか?」
和久はやおら決然として、会話に割り込む。
「いやあ、一瞬のことだったんで顔は見てないってよ。気づいたらもういなかったそうだ。こう、地面の上を飛ぶような速さで消えちまったって……派手なマフラーと寒そうなスカートだけ見えたって言ってたかな」
和久は、冬と顔を見合わせて頷いた。
間違いない。犠牲者は現在進行形で発生している。
「奥さんの怪我はどんな感じなの?」
冬が眉も動かさずに訊く。
「右腕と左足首を強くぶつけて――捻挫しちまったから、動くのが大変そうだわな。家事もいろいろ俺が手伝わなきゃなあ」
そりゃあ大変だ、と他の村人達がいろめき立つ。
その中で――冬は。
顔面蒼白になって、凍てつく地面を見つめていた。
まるで背教の地で、己の無力さを嘆く聖人のように。
「冬ちゃんも、気をつけてなあ。あんたが動けなくなったら、村の者みんなが途方に暮れちまうんだから」
妻が怪我をしたという村人が、本当に心配そうに告げた。
「――――と、思う?」
唐突に、冬はぽつりと呟いた。
村人達は冬の沈んだ顔を窺っていた。冬が泰然として顔を上げる。
「憎い、と思う? 奥さんを、大切な人を傷つけた誰かを。大切な人を、傷つけるかもしれない人を」
今度は言葉に、凛とした力があった。
冬は射るような視線で、村人達を見回した。
全員、呆然としていた。冬が一体何を言っているのか。何を言われているのか。
冬の言葉が指す意味が何なのかも、理解出来ていない。理解する力を持たない。
それが、彼らに冬が与えた孤独だ。
「おい、冬……」
和久は冬の肩を掴んで引き寄せようとするが、彼女は動かない。冷たく凍った緑の瞳がまばたきを拒んで乾く。睫毛が凍りつく。
村人達は依然として、言葉を発さない。
しばらくして「ふ」と、冬が自嘲するように笑った。
「何でもない。いきなりごめんね、みんな。ところで、この近くで、若い女の子がいる家ってあるかな? 私ぐらいの年の子」
「……こ、この辺りじゃ、恩田さんのところぐらいじゃないか?」
一人の男が、困惑気味に答えた。
「恩田さんか。ありがと。みんな、もう帰っていいから、今晩は家族の誰も、外には出さないようにね!」
歯を見せて、爽やかに冬は言った。
村人達はきょとんとしたまま、「おう」「ああ」などと生返事をして、とぼとぼと帰っていった。
冬は、温かい庇護者の目で、彼らを見送る。
「……いっそのこと、憎んでくれてた方が、情報が集まりやすいのにな」
和久が冬の背中に語りかけると、冬は瞬時に微笑みを消した。
「あり得ないよ。私がいる限り、この村で人が人を恨むことは許さないから」
強い口調で冬は断言する。
「犯人をチクることもか?」
「犯人が分かっても、罰しようという心が、みんなには無いもん」
「はは……そうだった。お前のどぎつい毒は、万能だよな。どんな怪物もかなわねえよ。人間は誰も、お前の毒に勝てねえんだよ」
和久は頼もしそうに頷いた。後から考えると、それはとても残酷な賞賛だったのだろう。
冬がまばたきをした。瞳は潤っているが、冷たい風は乾いている。
打った脇腹がまだ痛いのか、冬は胸をしばらくさすっていた。




