雪道に舞う5
10
和久と冬は、大の字になって雪の上に転がる小町を見下ろしていた。
「いつ……?」小町は呻く。呂律が上手く回っていない。
「いつ…………毒が……? 矢は……避けたのに」
口の中に入ってくる粉雪を吐き出す気力すら、小町には残っていないようだった。
「最初に握手をしたでしょ? そのときに、爪で手の平を引っかいて、毒を流しておいた。遅効性の毒なの。毒キノコ系の神経毒。動けば動くほど毒は早く回る。自業自得よ」
冬は、静かに告げた。
真っ白で細長くて美しい、けれども、食べると地獄の苦痛を味わうというドクツルダケ。
空に向かって傘を開いた様が、純白の羽根を広げた鳥の群れのような――スカートを広げて、空に昇る少女のような、綺麗な苦痛の姿。
ヤドクガエルの毒では無かった。
冬は最初から、小町に流すための猛毒を用意していた。
小町が感激して、冬の手を握ったあのとき――冬はすでに小町を殺していた。
それからの展開は、毒が回るまでのただの時間稼ぎでしかなかったことになる。
「そ……そっかあ……逃げても……無駄って、そういう意味だったかあ……」
虚ろな目で、小町は笑みを浮かべた。
「……」
冬は矢を逆手に持ち、小町の喉に、矢尻を近づける。
和久は何も言わずに、冬の一挙一動を見守っていた。
「苦しいでしょ、小町。こっちの矢の毒なら即死出来るから。安心して殺されなさい」
「うん……そうする……」
小町は頷く。
ぴたり、と冬は手を止めた。
「……そうする?」
「私……自分が、村のみんなに怪我させてたなんて……全然気づいてなかった……ただ、速く、綺麗に滑ろうってしか思ってなかった……でも、冬ちゃんの毒で、体が鈍くなって……初めて人が見えた」
「…………」
「冬ちゃんの毒が……無かったら、私はきっと……あの子を……」
それ以上小町は語れなかった。意識が朦朧としてきたのか、目の焦点も定まっていない。
唇が、仄かに動いた。全く声は聞き取れない。
だが和久と冬には、はっきりと理解出来た。
――美しくなんかない。
今、小町はきっとそう告げた。
「おい、冬」和久は極めて淡々と、冷たい声を出す。
「このバカ娘は、多分もう、気づいたぞ」
冬は困ったような顔で、悪戯っぽく緑色の舌を出し、矢を凍った路面に置いた。
「……みたいだね」
素っ気なく言いながら、その口元は微かに微笑んでいた。
「姑息な緑ガエルめ。まだ間に合うんだろ、どーせ?」
「……多分ね」冬は小町の体の側にしゃがみ込んで。「死人を一人も出さなかったのが幸運だったね、小町」
小町の体を、優しく抱き起こした。
そして、小町の首筋に、そっと唇を寄せる。
長い緑色の舌が、小町の汗ばんだ首筋を這う。
震える柔肌に歯を突き立て、流れ出す血を舐めとるように舌を差し込む。
ぴくん、と小町が体を震わせる。
視力をほぼ失っているはずの小町の瞳が、冬の顔を見つめた。
みどり、いろの、月だ。
小町の弛緩した唇がそう告げた。
冬は小町から視線を逸らさず、差し込んだ舌を動かし、流し込んだ唾液を撹拌している。
くちゅくちゅ、くちゅくちゅくちゅく。
粘つく音が吹雪の闇にこだまし、時が過ぎていく。
和久は、見てはいけないものを見ている気がして、目を逸らして夜空を見上げていた。
朧気だが大きな月があったので、ずっと眺めていた。
11
空が白み始める頃。
小町は、毒物館の館長室のソファで目を覚ました。
体を起こして、毛布が掛けられていることに気づく。
服は着替えさせられていて、体中の痛みや倦怠感はすっかり消え去っていた。首筋が少しくすぐったい程度だ。
「やっと起きたね、小町」
隣のソファにゆったり深く座っていた冬は、湯呑みで緑茶をすすりながら言ってきた。その膝の上で、冬が飼っている毒蛇――バジルが気持ち良さそうに眠っている。
和久は寒そうに、暖炉の前で塗れた小町のマフラーを乾かしていた。
「あ、あれ……? 私、死んだんじゃ?」
混乱して小町は目を泳がせる。
えへへ、と冬が無邪気に笑った。
「ギリギリセーフ、解毒成功。毒は全部消しておいたよ」
「毒を、消す……?」小町の目が丸くなる。「冬ちゃんてそんなことまで出来るの? いや、そんなことより……」
どうして私を助けたの、と小町は尋ねた。
「あのまま、自分だけ愉しく暴走を続けるつもりだったら、遠慮無く殺してたよ」
冬はごく自然に答えたが、小町はその言葉に奇妙な、そして初めての違和を感じた。
「……冬ちゃんの力って、どういうものなの?」
自分の体を襲った〝毒〟についても、生まれて初めての疑問を抱いていた。
全身の至るところで毒を造り、毒を消し、毒に耐えるという冬の力の源に対して、今まで思いも至らず考えもしなかったことが、自分でも不思議で仕方ない。
冬は興味深げに、小町を見つめていた。
「……やっぱり、自分のやったことを自覚しちゃうと、そういうことも気になっちゃうのかなあ? うーん。どうしよ」
首を傾げて思い悩んでいる。
和久が小町の隣に座り込んできて、渇いたマフラーを首に捲いてくれた。
「……無知な村人どもは、基本的に知っちゃいけねーことになってると思うがな」和久は苦笑いしながら語る。
「古代の古代、その更に古代に、ある呪いがあったんだってよ。あらゆる毒虫、毒蛇が詰められた瓶の中で、最後に生き残った動物を使って作る、ゲスな呪いがよ」
それを〝蠱毒〟と呼ぶそうだ、と和久は重々しく告げた。
「私は、蠱毒を作るための瓶の中に、赤ん坊の時に入れられたんだって」冬が軽い口調で続けた。
「たくさんの毒のある生き物の中で、どういうわけか私だけが生き残った。そして……呪われちゃった。あらゆる生き物の毒を持つ女の子としてね」
小町は、それから語られた冬と和久の言葉にじっと心を傾けた。
冬は、この村を作った人物の子供だったそうだ。
その人物は、この山王Z村から〝心の毒〟を消し去ろう、と考えた。
冬の力は、人の脳にも及ぶ。人間の知覚や感情の動きは、全て神経系統の働きによって生まれる。
冬の操る毒素の内、神経毒と呼ばれる物は、人の脳内での神経伝達――つまり、感情に作用するのだ。
冬は人の心に、毒素によるストッパーを仕掛けられる。
その力を応用すれば、冬は人から特定の感情だけを奪うことも出来る。
人を傷つけたい。人が憎い。人が疎ましい。
人を殺したい。
即ち〝心の毒〟とは、そういった他人に対する攻撃的な、本能的な衝動のことだ。
冬は、この村の住人となった者全員の脳に毒を流し〝心の毒〟を消した。そうすることで、この村から無駄な争いを消した。
人が、殺し合わないために。
氷の時代を越えた人間は、無理矢理でも手を取り合わなければ生き残れない。冬の父親は、山王Z村を人類最後の理想郷とするために、古代の世界から呪いを選択し、蘇らせたのだ。
科学では無く技術でも無く神でも無く。
この村にやっと根付いた人の希望は――呪いだった。
「こいつの緑色は、毒のある生物の――人間の色なんだとさ。警戒の色、自分を守る色。触れちゃいけない緑色ってこった。気色わりぃことこの上無し、だろ?」
和久は爽やかに笑うが、冬は流す。
「人の行動は、予想も出来ない結果を生むこともあるんだ。私は、毒を流して人に本来宿っている〝心の毒〟は消せる。けれど、偶然や勘違いや思いこみ、無自覚な行動で、他人を傷つけてしまう人間が、たまーに現れちゃうみたいなの。無毒の毒。何も知らない、新しい毒」
小町もその一人ねと言って冬は、はにかんだ。
「私が、誰かを怪我させちゃったことに、気づかなかったみたいに……?」
自分の行動を省みて、小町は寒気がした。
「うん。そういう人間は私が直接、毒殺するしかない。この村で、人を殺す意志と力を持てるのは、私だけだから」
厳かに冬は答える。
「まあ、そうなる前に何とかなるパターンも多いのさ」和久が、快活に笑う。「人を殺しちまった後じゃ手遅れだけどな。お前みたいに、途中で自分の暴走を自覚して自分からそれを止められる人間は、また元に戻れる。無知でアホな、村の人間にな。戻っても冬の毒の力については、忘れられないみたいだけどな。印象が強烈すぎるんだろ、緑ゴリラの猛毒は」
小町は、霞んだ視界に浮かぶ月を追想する。
冬に助けられていた時、小町には雪の結晶に包まれた、綺麗でまばゆい緑色の月が浮かんでいるように見えた。
小町は、自分はついにあの世を見たのだ、と恐怖におののいていた。なのにどうして地獄のような痛みが退いていくのか、理解出来なかった。死の世界の月が綺麗な理由も、全然分からなかった。
確かにあの光景は、忘れようにも忘れられない。脳裏にありありと蘇ってくる。
「冬ちゃんは――私にまだ、生きる資格があると思ってくれたんだね?」
「ん。そうだね」
鷹揚に微笑む冬。
小町は閃いていた。もの凄い速さで、新しい自覚がスパークする。
「――嬉しい。私、村の中に友達いなかったし、冬ちゃんが私を助けてくれたことが、本当に嬉しい!」
解き放たれて浄化された毒が、小町に新しい自分の姿をイメージさせる。
「そ、そう……?」
「ねえ、私、冬ちゃんの力になれないかな? あのスケート靴だって、気をつけて使えば誰も傷つけずに済むよ。村で何かあったら、誰より速く冬ちゃんに報せに来られるし!」
「あー……えー? どうしよ、和久……」
和久はにやにやと、冬の顔を見返している。
「よーし、頑張るね! 私もこの村をいい村にするためなら、張り切っちゃうから!」
小町は毛布をはね飛ばして叫ぶ。
思っていたより薄着だったので、勢いあまって「くしゃん」と鼻水が出た。
その音にバジルが驚いて、きしゃーと目を覚ます。
何を勘違いしたのか。バジルは和久を威嚇して飛び跳ねた。
12
しんと毒物館は静謐に満ちている。
館内の毒性生物――かつて蠱毒の術のために集められた――の何種類かは、夜行性という厄介な習性のために、ケージの中で元気に動き回っているが。
手の甲に一対の穴を開けた和久は、それをまじまじと観察しながら毒物館の回廊を歩く。
そんな和久を、冬は愉快そうに後ろから眺めていた。小さな足を大きく開いて行進するように歩き、和久に追いついてくる。
「これで七度目だな……バジルに殺されかけたのはよ……」
和久はため息を吐いた。冬に解毒してもらえなければ物の数分で死んでいただろう。
バジルの牙は、間一髪どころかストレートに和久の手に食らいついた。殺されかけたどころか、バジルには必殺にして漆黒の意志が確実にあった。
「小町ならちゃんと避けたんだろうね。和久はつかえねーなー」
冬がけらけらと笑う。
ちなみに小町は、またソファで眠りこけてしまっていた。人間の限界以上の運動能力を発揮して、あの特殊なスケート靴を履きこなしていたのだ。
その上、致死量の猛毒に全身を冒されていたのだから、体力は限界だったのだろう。
和久と冬は、一晩あのまま眠らせてやることにした。
「黙れ緑猿。お前がちゃんと教育しとかねーからだ」
そう言う和久も笑う。
「それにしてもさあ、小町はどうしよっか? もうスケート靴で暴走なんてことはしないだろうけど、村の主としては悩むところだよ」
冬の毒の力にも、小町は気づいてしまった。
ギリギリで生かしたこともあり、冬は今後の責任の所在に悩んでいるようだった。
「別にいいじゃねーかよ。四の五の言わずに、使いっぱしりにでもすりゃーよ」
「……そう簡単に決めていいことじゃないもん。村のことは慎重に決めるよ。ルールがある以上、私がテキトーに破っちゃいけないから」
まだるっこしいなあ、と和久は軽口を叩く。
「人を傷つけないと決めた人間が手伝いたいって言うんだから、手伝わせときゃいいんだよ。この頭の堅い緑ゴリラのバカ女」
「…………」
険しい顔で冬が押し黙り、立ち止まったことに、和久は気づかない。
「大体お前、あのバカ娘にそのクソったれな毒液流した時点じゃ、ちょっとチャンス与えようとしてやがったんだろ?」
「…………」
「そのしょーもない頭でよ、ションベンくせー女友達でも作れればいいって魂胆だったんじゃねーのかよ、死にかけの唐変木がよ」
「わ、わ……」
あーん、と適当に返事をして振り返り、和久はようやく冬が自分を睨みつけながら、肩を震わせていたのに気づいた。
「わ……和久は、さあ……いっつもいっつもそうやって、毒舌ばっかり吐くけどさあ……今回は、人を殺すべきかどうかってところで、何とか殺さずに済んだのにさあ……」
「お、おい……冬、待て、待てよ。俺のこの言葉が、わざとじゃないってことぐらい、クソったれのお前も知ってるだろうが」
和久が青ざめる。まずい、と思ったがもう遅かった。
冬の唇はわなわなと痙攣し、目にはたっぷりの――緑色の涙が溜まっていた。
「クソってゆーな……それに私だって、殺さなくて済むように、いっつも悩んでるのに、上手く助けられたのに……こんな時ぐらい、元気づけてくれてもいいのにさあ……」
「分かってる、分かってるって!」
クサレ脳味噌が。
和久はニッコリ笑って言った。
とどめの一撃だった。
「……そんな非道いこと言わないで、黙って誉めてくれても、いいじゃないかあー!」
大口を開けて、大声を上げて、わんわんと冬は泣き出した。
直線的な、大号泣だった。
「し、しまった……!」
――近づけない。
本当にどうしたらいいのか、和久には分からないのだ。
緑色の瞳から、エメラルドの光沢を持った涙がぽたぽたと床に流れ落ちる。
冬が心の底から流した涙だ。恐らく近づくことすら危険な猛毒である。もう誰にも、涙を拭いてやることも出来ない。
いや。それ以前に。
和久は、冬の傷ついた心を癒すための言葉を、知らなかった。
――分かんねーんだよ。どうして、俺の言葉でお前が傷つくのか。
和久はいつも笑っている。和久はいつも卑屈にならない。
和久はいつも冬を尊敬している。
ただ。和久にはこの村の言葉が、良く分からない。
和久がこの村にやってきたのは、僅か一年ほど前だ。
和久は、冬が生まれてから、殆ど初めてと言ってもいい外部からの来訪者であり、世界に唯一と言ってもいい、旅人だった。
和久は滅びに瀕した外の世界を、名前という概念さえ知らず、名字だけを背負って、旅していた。
この山王Z村のようなまとまった集落は、希少すぎるほど希少だった。和久は、ここ以外には一度も見たことが無い。
この村に来るまで、人間も一人しか知らなかった。
その人間は和久の祖母であり、その祖母は、言葉が――乱れていた。
この村で言う〝毒舌〟でしか、祖母は和久とコミュニケーションを取ろうとしなかった。
和久にとっては、言語とは祖母の毒舌であり、それは決して忌むべき悪ではない。
毒舌は、和久の孤独な倫理心に染み着いた母語だ。悪い言葉なんて一つも無い。
祖母が死に、一人で旅をして、この村に偶然辿り着いた時に、和久は初めて自分の言葉で人が傷つくことを知ったぐらいなのだ。
――あのとき。
冬は初対面の和久との会話で、非道く傷つき、ぼろぼろと涙を流した。
幸か不幸か、村の人間達は、和久の毒舌に拒絶反応を示さなかった。
心に毒を持たない人間達は、言葉で傷つく、という心理が理解出来なかったようなのだ。
和久の言葉で泣くのは、この村では冬一人だけだ。
人を数秒で殺せるほどの猛毒を持つ冬は、和久の毒舌がとても苦手だった。
今回もずっと、冬は傷ついていたのだろう。それは分かっていたが、和久は自分の言葉のどこで、冬が傷つくのかが分からない。
どれほどこの村の言葉を習っても、どの言葉が悪いのかと聞かされても、未だにピンと来ないのだ。
もう、一年になるのに。
――あのとき。
冬は、和久を殺そうとはしなかった。
和久が決して、村の人間を傷つけようとはしない、心に毒を持たない人間だと冬は分かってくれた。
たった一人の旅人だった和久は、たった一人で村を守ろうとしていた冬と出会って、共にこの村を守ろうと誓ったはずだったのに。
冬は未だに、和久の目の前で泣き喚く。
「和久のバカ! バカやろー! もう和久なんて嫌だ! 死んじまえ!」
冬はいつの間にか覚えてしまった、稚拙な毒舌を吠えている。
「……ったく、このダサくてきたねー、クソったれ緑め」
聞こえないように呟きながら、和久は静かにその場を去った。
毒性生物の館の中心で傷心する冬が、これ以上傷つかないように。
「バカ! 毒舌男! さっさと私の村から出て行け!」
冬の泣き声はずっと遙か遠く、夜明けの雪景色にまで響いていた。
ひとまずの第一章でした。まだ続きもありますがどうしましょ。




