第9話 逃げろ
道の真ん中に立っていたのは、男だった。
くすんだ色の上着に、泥のついたズボン。髪は耳を隠すほど伸びている。どこかの採取帰りに見えたが、背負っている袋はない。
代わりに左手で草を握っていた。根に土がついたままの束から、赤い茎が何本もはみ出している。
右手には鉈。
その刃先から赤いものが落ちたのを見て、俺は足を止めたまま剣の握りを確かめる。
「そこで何をしていた」
男は俺たちが歩いてきた林の奥へ顎を向けた。
ハロルドさんが俺たちの前へ半歩出る。剣には手を掛けているが、まだ抜こうとはしなかった。
「薬草を採っていた。もう帰るところだ」
普段、道でほかの冒険者に会ったときと変わらない声だ。ただ、男の鉈からは目を離していない。
あの草と刃の血を見れば、ハロルドさんも林の死骸を思い出したはずだ。それでも何も聞かない。今はこの男と揉めずに通り抜けるつもりなのだろう。
俺は剣の握りに掛けていた手を緩め、話を任せることにした。
「何を採った」
男に重ねて聞かれ、ハロルドさんが答える。
「今日は二種類頼まれたが、採れたのは一つだけだ。あんたが持ってる草は見つからなかった」
男の目が俺の袋へ移った。次にレイナの袋を見る。顔はほとんど動かないのに、目だけが忙しく行き来している。
「見せろ」
男は鉈の先で俺の袋を指す。言われるまま近づいていいものか迷い、ハロルドさんを見る。
「そこから中を見せてやれ。袋は持ってていい」
俺は頷き、袋を体の前へ回す。こっちが赤い茎の草を持っていると思われているのなら、見せた方が話は早い。口を広げ、中が見えるように傾けた。
「採ったのはこれだけです。そちらの草は入ってません」
俺がそう伝えると、男は一歩近づく。
よく見えるように一歩前へ出かけたところで、ハロルドさんに肩を押さえられた。顔を向けると、小さく首を振っている。
俺は腕を伸ばすのをやめ、ハロルドさんのそばに留まる。
「違う」
中を見た男が呟いた。ようやく分かってくれたのかと思ったが、今度はレイナの袋へ目を移す。
「そっちは」
レイナもハロルドさんへ目を向けた。頷きを確かめてから、自分の袋を開く。前へ出ず、その場で口を広げて見せた。
「赤い茎の草は、私も持っていません。探したけど見つからなかったので」
レイナが説明しても、男は袋を見たまま動かない。空いている底まで確かめるように首を傾けている。
風に揺れた枝が頭の上で擦れた。俺は袋を開いたまま待つ。
何も隠していないことくらい、見れば分かるはずだ。だからないんです、と言い足そうとしたところで、肩を押さえる指に力が入った。
俺は口を閉じた。ハロルドさんに任せよう。納得させようとして言い合いになれば、それだけここにいる時間が長くなる。
男が袋から顔を上げるのを待って、ハロルドさんが声をかけた。
「見たとおり、二人とも持っていない。オレたちは町へ帰りたい。そこを通してくれないか」
男の手の中で草が潰れた。折れた茎から葉が一枚落ちる。男はそれを目で追い、踏みつけそうになった自分の足を引っ込めた。
「なくなる」
男は俺たちへの返事もせずにしゃがみ込み、落ちた葉を拾った。
「食うから。抜くから。みんな持っていくから」
手の中の草へ話しかけるような声だった。
首の曲がったウサギと、腹を裂かれた魔物が頭に浮かんだ。草を食べたから殺されたのだろうか。聞きたくはなかったし、答えが分かったところで俺たちにできることもない。
俺は袋の口を閉じた。ハロルドさんも男を問い詰めず、俺たちへ横に寄るよう手で示した。
「その草は採っていない。ここへ採りに来るのもやめる。だから、オレたちはもう行くぞ」
話しかけながらハロルドさんが道の端へ動く。男の前を横切るのではなく、大きく距離を取って脇を抜けようとしていた。
俺もレイナと一緒にハロルドさんの後ろへ回る。男を急かすようなことは言わず、道の端を歩く。男はまだ足元の葉を拾っている。このままこちらに構わないでいてくれれば、それでよかった。
あと数歩進めば、男の横を抜けられる。
「返せ」
男が立ち上がり、こちらへ向き直る。
俺は足を止めた。袋の中は見せたし、もう採りに来ないとも伝えた。それでも男はレイナの袋を見て手を伸ばしている。
「採る前に、返せ」
男が繰り返した。
採る前とはどういうことだ。まだ持っていないものをどう返せばいい。言葉は分かるのに、何をすれば通してもらえるのか分からない。
レイナが袋を胸へ寄せ、一歩下がった。ハロルドさんがすぐその前へ入る。
男の右腕が上がる。鉈を持った手が頭の横へ来たときには、ハロルドさんの剣も抜けていた。
「下がれ!」
ハロルドさんの声とともに、金属がぶつかる音がした。
ハロルドさんが斜めに構えた剣に鉈が当たる。刃に沿って横へ滑り、その先の木の幹に食い込んだ。木の皮が弾ける。さっきまでレイナが立っていたところへ、砕けた破片が飛んだ。
俺は剣を抜きながら後ろへ下がった。レイナも二歩離れ、袋を脇へ寄せている。
男が鉈を引いた。
幹に深く入った刃が引っかかりもせず抜けた。木が軋み、頭の上で枝が大きく揺れる。
あんなものを盾で受けたら、腕ごと持っていかれる。
「魔憑きだ。相手にするな」
ハロルドさんは男から目を離さずに言う。
魔憑き。出会ったら逃げろ。倒すことを考えるな。そう言われていた相手が、手の届きそうなところにいる。
*
男の鉈がまた動く。
ハロルドさんは正面で受けず、横へ踏み込んだ。刃が空を切り、返した剣が男の腕をかすめる。上着が裂けて血が出たが、男はそこを見もしなかった。
「草を置け」
鉈が横に振られた。
ハロルドさんが下がる。俺もレイナと離れすぎないように動いたが、袋が腿に当たって足がもつれかけた。
「袋、捨てろ!」
紐を肩から外して放した。レイナの袋もすぐ隣へ落ちる。
男の目がそちらを向いた。
ハロルドさんは地面へ向けて手を振った。乾いた土と落ち葉が風に巻かれ、男の顔の前へ舞い上がる。
「こっちだ!」
ハロルドさんの背中を追い、レイナと走り出した。街道へ抜ける道からは遠ざかるが、今はあの男の脇を通りたくない。来た道を少し戻り、木の間へ飛び込んだ。
剣を下げたままでは走りづらい。刃先がレイナへ向かないよう体の外側へ寄せた。鞘に戻す余裕はなかった。
後ろで草の袋が裂ける音がした。
振り返らなかった。見ても足は速くならない。今はハロルドさんの行く方を見失わずに走る。
「倒れた木を越えたら右だ。そのまま行けば街道へ戻れる!」
俺は返事をして木の幹を跨いだ。着地で膝が沈んだが、踏ん張って次の足を出す。レイナも越えたのを横目で確かめる。
ハロルドさんが後ろへ回った。俺たちを先に行かせ、剣を構えたまま数歩下がる。
木の向こうに、土のついた男の顔が見えた。
まだ来る。根につまずいてもすぐに踏み直し、距離が縮まってくる。左手には草を握ったままだ。
ハロルドさんが鉈を持つ腕へ剣先を向け、ようやく男の足が止まった。
「止まるな、行け!」
俺は前を向いて走った。
この辺りは歩いたことがあった。木々の間を抜ければ緩い斜面があり、その下を街道が通っている。そこへ出れば、足元を気にせず走れる。
息が喉に引っかかる。もうあの日のように脚が動かなくなるほどではない。それでも、背後の足音が消えない。
レイナが前の枝を避けて身を低くした。俺も同じところをくぐった直後、後ろで鋭い音がした。
枝が折れて横へ飛ぶ。
ハロルドさんが俺たちのすぐ後ろへ下がってきた。外套の裾が低い枝に引っかかり、肩が引かれる。舌打ちが聞こえ、強く引いた布が枝から外れた。
男はもうその向こうにいた。
ハロルドさんが足を止め、鉈を弾いて男の膝を蹴った。男がよろめく。
倒れてくれれば、その間に走れる。
けれど男は踏み直し、また鉈を持ち上げた。
俺は剣を握り直した。横からなら届くかもしれない。そう思って一歩寄りかけたところで、ハロルドさんが声を張った。
「コータ、前へ出るな!」
足が止まった。
俺へ向いた男の目を見て、腹の底が冷えた。剣の間合いへ入れば、あの鉈の届くところに俺も入る。ウサギのときと同じようにはいかない。
ハロルドさんが間へ入り、俺の見ていた顔を背中で隠した。
「レイナと先に行け」
「でも、三人で――」
「お前らが離れた方が動ける」
言われて剣を下げた。俺たちが止まるたび、この人も止まらなければならないのだ。
*
ハロルドさんの剣が男の手元へ走った。
鉈を避けながら踏み込み、肩で押す。男は二歩下がった。その左手から草が何本か落ちた。
男の動きが止まった。
「踏むな」
自分の足元を見ている。
ハロルドさんはすぐに距離を取り、俺たちのところへ戻った。剣を右手に持ったまま、左手で外套の留め具を外す。
「これ、持ってけ」
肩から滑り落ちた布を差し出された。俺は左腕で受け取る。
「さっきから枝に取られて邪魔でな。本気で動くから脱いどく」
外套は思ったより重い。さっきまで着ていた温かさが残っている。
「荷物を置いてから、戻ってきます」
「いらん。街道を町の方へ走れ。人に会ったら魔憑きが出たと伝えろ」
俺は男の方を見た。落ちた草を拾い、また握り込んでいる。赤い茎が折れ、土のついた根が指の間から突き出した。
あいつが立つ前に行かなければならない。
そう分かっているのに、足が動かない。
「ハロルドさんは」
「オレもあとで追いつくからよ」
いつもの声だ。
「生き残るのだけは得意なんだ」
ハロルドさんは口の端を上げた。それから俺の腕にある外套へ目をやる。
「引きずるなよ。気に入ってるんだ」
俺は布を抱え直す。
ウサギに怯えていたときも、剣を振り損ねたときも、この人は俺たちの動きを見ていた。止まるところと進むところを、俺たちよりずっとよく知っている。
今もそうなのだと思った。
「分かりました。持って待ってます」
「町まで行けよ」
レイナが隣で頷く。唇を結び、剣を持ち直している。
男が立ち上がった。
ハロルドさんは俺たちへ背を向ける。外套がなくなった背中は身軽に見えた。肩を一度動かし、剣先を男へ向ける。
「行け!」
俺はレイナと走り出す。
左腕に抱えた外套を落とさないよう押さえ、斜面へ続く道を駆ける。後ろで剣と鉈がぶつかる音がした。
早く離れよう。俺たちを気にせず動けるようになれば、きっと追いついてくる。
俺はそう信じて足を動かした。
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