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第10話 生きて帰れ

 斜面へ出る直前、俺は一度だけ振り返った。

 木々の間で男がハロルドさんへ鉈(なた)を振り下ろした。ハロルドさんは横へ避けると、振り切った腕のすぐそばへ踏み込む。男が鉈を引き戻すより先に、その腕を下から斬り上げる。


 男の右腕が鉈ごと宙へ跳ねる。

 鉈を握ったままの腕が草の上に落ちる。ハロルドさんは剣を引き戻し、よろめいた男へ向き直った。


 勝っている。


 胸につかえていたものが少し緩む。やっぱり、俺たちを庇いながらでは動けなかったのだ。


「コータ!」


 レイナの声で前へ向き直る。足が根に触れ、慌てて踏み越えた。


「腕、斬った。ハロルドさんが」


 それだけ伝えると、レイナも後ろへ目を向けかけた。けれどすぐ足元を見て、斜面を下り始める。


「先に行ってよう」

「ああ」


 外套(がいとう)を左腕に抱え直し、俺も続く。


     *


 街道へ出ると、靴の下の感触が変わった。土が踏み固められている。枝を避けずに走れるだけで、少し速くなった気がした。

 町のある方へ曲がる。

 荷車も人も見えない。道の先は緩く曲がり、低い丘に隠れている。あそこまで行けば誰かいるかもしれない。

 息が荒くなり、飲み込もうとした唾が喉に引っかかった。レイナも口を開いて息をしている。それでも二人とも走れていた。


 足音が聞こえたのは、曲がり角に近づいたときだ。

 俺たち二人の靴音とは違う。もっと重い音が後ろから続いてくる。


 追いついた。

 そう思って振り返り、足が止まりかける。


 男が走っていた。

 右腕がない。肘より上で途切れた袖が血に濡れ、走るたびに赤いものが道へ落ちている。鉈も持っていなかった。

 それでも、こちらへ来る。


 その後ろを見た。

 誰もいない。


「……ハロルドさんは?」


 声が漏れた。レイナも振り返り、息を詰まらせた。

 男は答えない。左手に握った草が走る体に合わせて揺れている。


 ハロルドさんが来ない。

 腕を斬ったところを見た。あの人は立っていた。俺たちを見送って、あとで追いつくと言った。

 どうしてこいつだけが来るんだ。


「コータ、走って!」


 レイナの声で足を動かす。

 もう一度後ろを見たい。木の間からあの人が出てくるところを確かめたかった。けれど男の足音は振り返る前より近くなっている。

 レイナの肩が大きく上下する。俺も脚が重い。前へ出しているつもりなのに、歩幅が伸びなかった。


 すぐ後ろで土を蹴る音がした。肩越しに見ると、男が俺の背中へ左手を伸ばしている。


「レイナ、横に避けろ!」


 声を上げながら道の端へ飛び退いた。すぐ隣を走っていたレイナも同じ方へ逃れ、草の上で踏み止まる。

 男の手が俺の肩のあったところを掴んだ。指の間から草が散り、止まりきれなかった体が俺たちの脇を通り過ぎる。男は二歩先で足を止め、こちらへ向き直った。

 町へ続く道を男が塞いでいた。脇を抜けたくても、あの手が届く。


 俺はレイナの前へ出て、抱えていた外套を脇の草へ下ろした。空いた左手を剣の握りに添える。

 もう一度走っても、背中を向けたところで捕まる。せめて距離を取れるだけの隙を作らなければならない。

 ハロルドさんが来るまで持たせればいい。


 そう考えようとして、男の上着についた血へ目がいった。自分の傷から出たものだけなのか、分からなかった。

 剣を握る指が冷たくなる。


「返せ」


 男がこちらへ歩いてくる。


「持ってないって言ってるだろ!」


 声を張ると喉が痛む。

 男の視線が地面へ落ちた。散らばった草が俺とレイナの足元にもある。俺は踏まないように足を引いたが、男はその分だけ近づいてくる。剣先を胸へ向けても立ち止まらない。


 男の左手が俺の襟元へ伸びる。

 掴まれる前に払おうと、俺はその腕へ剣を振った。刃が袖を裂き、腕の表面を切る。けれど男は手を引かなかった。血の出た腕を突き出したまま、さらに一歩踏み込んでくる。

 剣を引き戻すには近すぎた。男の肩が胸へぶつかり、俺の両足が地面から浮いた。


 後ろへ倒れながら左手を剣から離したが、体を支えるには間に合わなかった。背中が地面へ落ち、剣を握ったままの右手も土へ打ちつける。手首が変な方へ曲がったのが分かった。

 痛い、と声を出すこともできない。胸を押し潰されたようで、口を開いても息が入ってこない。剣から指を離す余裕もなく、俺は横向きになって左肘をつく。


 目の前に男の靴が来た。


「こっち!」


 レイナの声がした。俺の右側から草地へ出て、男の横へ左手を向けている。

 風が男の脇腹へぶつかった。不意に押された体が傾き、一歩踏み直した足のそばへ右腕の傷から血が落ちる。男は俺から目を離し、レイナへ顔を向けた。


「コータ、立って!」


 レイナは俺から離れる方へ下がる。男もそちらへ向きを変える。彼女が引きつけてくれているうちに立たなければならない。

 俺は左手で地面を押し、上半身を起こした。ようやく息が入った途端、胸の奥に痛みが走る。片膝を立てようとしても力が入らず、腰が地面についたままだった。


 レイナがもう一度風を放った。男は身を低くして踏ん張り、服をはためかせながらレイナへ迫る。

 止まってくれ。俺は膝に力を込めたが、立てないうちに男の手がレイナへ届きそうになった。


 レイナの剣が男の左肩へ入る。

 当たったのに、その手は止まらなかった。左手で胸元を掴まれたレイナが強く引かれ、足をもつれさせる。

 剣を戻そうとした腕ごと引き寄せられ、そのまま道脇の草へ投げ倒された。

 短い悲鳴とともに、地面に当たった剣が手から離れて転がる。レイナは肘をつき、起き上がろうとしていたが、肩を男の足が押さえた。


「やめろ!」


 俺は叫んで剣を持ち上げようとした。ひねった右手首から腕まで痛みが走り、切っ先が地面を擦っただけだった。

 レイナは数歩先にいる。それなのに立てず、這って近づこうとしても胸が痛んで体が進まない。


 男の足が肩から首元へずれた。押さえる力が強まると、レイナの顔が上を向いた。

 両手で男の足首を掴み、もがいている。口は開いているのに声が出ず、踵だけが土を擦る。


 頭の中からほかのことが消えた。

 俺は剣を放した。

 魔素を取り込む。

 胸の奥に練習で何度も確かめた温かさが広がる。いつもなら一度取り込むのをやめ、手元へ集めるところだった。けれど、木片に浅い傷をつける程度ではあの男を止められない。


 そのまま魔素を取り込み続け、左手を上げた。男の足にしがみつくレイナの手が見える。助けに行きたくても、膝を立てるだけで胸が痛んだ。俺は地面に座り込んだまま、男へ手のひらを向ける。

 胸の温かさが熱に変わった。頭が重くなり、喉の奥へ酸っぱいものが上がってくる。練習で止められたときよりずっとひどい。吐き気を堪えて顔を上げると、レイナが俺の方へ手を伸ばそうとしている。


 その手が途中で落ちた。


 俺はさらに魔素を引き込む。鼻から流れたものが唇を濡らしたが、拭わなかった。視界が揺れて男の顔がぼやける。いつものように具合を確かめながら使う余裕はもうなかった。


「離せよ」


 声は掠れていた。男がこちらへ顔を向ける。その胸を見ながら、集めた魔素を左手へ押し出す。

 掌が内側から裂けそうに痛んだ。扱ったことのない量が腕を通り、指先で広がりかける。散らさないように押さえ込み、何度も練習した刃の形を思い浮かべた。早く放たなければ、レイナの息が止まってしまう。


 男が左腕を上げた。体をひねろうとしたが、右腕の傷から血が流れ、踏ん張った膝がぐらつく。

 俺は声を上げ、男の胸へ向けて風を放った。


 地面の砂が跳ね上がり、男の上着が斜めに裂けた。その下から血が噴き、体が後ろへ揺れる。

 同時に俺の左腕も弾かれたように落ちた。肘を土へ打ちつけたのに、痛みがよく分からない。

 レイナを押さえていた足が外れる。彼女は体を横へ転がし、男から離れようと地面を掻いた。


 男は胸を血に染めたまま、俺へ一歩近づいた。

 まだ倒れない。

 もう一度撃とうとしても、左手が上がらない。指で土を掻くことしかできず、俺は近づく足を見つめる。


 次の一歩で男の膝が折れた。なくなった右腕の方へ体が傾き、肩から地面へ落ちる。

 そのまま横倒しになった男の指が、そばにある赤い茎へ伸びた。


 届く前に指が止まった。


 俺はしばらくその手から目を離せなかった。また動き出す気がしていた。自分の息ばかりが耳につき、レイナの咳に気づくまで、剣を拾おうとも思えなかった。

 顔を向けると、レイナが両手を地面について咳き込んでいた。ひゅう、と細い息が入る音がする。それを聞いて、ようやく肩から力が抜けた。


「……レイナ」


 彼女は顔を上げ、何か言おうとしてまた咳き込む。それでも首元を押さえながらこちらへ這ってくる。生きている。俺を見て、近づいてきてくれる。それが嬉しくて口元が緩んだ。


「コータ、血……」


 レイナの声を聞いても、うまく返事ができない。胸の熱がまだ引かず、息をするたびに吐き気が込み上げる。手も脚も力が入らない。近くに来た顔を見ようとするだけで視界が揺れてしまう。


「誰か、呼んで」


 それだけ言うと、レイナが何度も頷いた。自分の袖を俺の鼻の下へ当てる。その腕も震えていたが、俺の体が傾くと肩へ手を回して支えてくれた。

 町へ帰らなければならない。顔を動かすと、道の脇にハロルドさんの外套が見えた。置いたときのまま残っている。気に入っていると言っていたのに、少し汚してしまった。

 あれも持っていかないと。そう思って指を伸ばそうとしたが、手は動かない。


「コータ?」


 呼ばれて顔を上げようとした。けれどレイナの顔はぼやけたままで、返事が声になったかも分からなかった。


 肩を支える手の感触が遠くなり、俺は意識を失った。


ここまでお読みいただき、ありがとうございます。


本編は全143話、完結まで執筆・校正済みです。

これ以降は、7:40、17:40の1日2回の投稿で143話まで投稿していきます。


「面白かった」「続きが気になる」と思っていただけたら、ブックマークや☆からの評価をいただけるとうれしいです。

感想も楽しみにしています。


これから2か月ちょっと、よろしければお付き合いいただけますと幸いです。

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