第11話 よう
『よう』
知らない男の声で目を覚ます。
寝台の脇には椅子に座り、こちらを覗き込んでいるレイナがいた。窓から差す光が眩しくて目を細めると、彼女が身を寄せる。
部屋にほかの人はいない。入口へ顔を向けても誰も立っていない。
「コータ? どうしたの」
「今、誰か喋った?」
「私?」
『そっちじゃない。お前の頭の中だ』
また聞こえた。耳元で囁かれた感じとも違う。言われてみれば、頭の内側から響いてくるような声だ。
「頭の中って、どういうことだよ」
『こっちも何がどうなってるのか確かめてるところだ』
「そっちも分かってないのかよ」
レイナが眉を寄せる。
「コータ? 誰と話してるの」
「男の声がするんだけど」
「声?」
レイナが身を乗り出し、俺の顔を覗き込む。
「私しかいないよ。頭、痛い?」
「痛くはないけど――」
言いかけて咳き込んだ。胸まで痛んで、思わず体を丸める。
「無理に喋らないで。水、飲める?」
レイナが卓の上のコップを取ってくれる。受け取ろうと右手を動かすと、手首に痛みが走る。布が巻かれていた。
仕方なく左手を伸ばすと、そちらへ渡してくれる。
少しずつ水を飲む。飲み込めたところで、ようやく自分が寝台にいることを実感した。
街道で座り込んでいたはず。あの男が倒れ、レイナが俺のところへ来て、それから。
「ここ、どこだ」
「町のお医者さんのところ。覚えてる? 誰か呼んでって言ったの」
「そこまでは。レイナ、首は?」
彼女の襟元へ目を向ける。肌に赤黒い痕が残っていた。足で押さえつけられていた場所。
「まだ触ると痛いけど、大丈夫。ご飯も食べられるよ」
「声、出てるな」
「今も話してるでしょ」
「そうだけどさ」
レイナが小さく息を吐き、少しだけ笑った。
あのときは口を開けても声が出ていなかった。今はこうして返事をしてくれるし、水まで持ってきてくれる。
「無事でよかった」
「うん」
俺はもうひと口水を飲む。コップを返すと、レイナが背中へ枕を入れてくれた。礼を言おうと顔を向けると、思っていたより近くで目が合う。
レイナが驚いたように口を開いた。
「……これで、痛くない?」
「うん。楽になった」
「今、何時くらい?」
「お昼、少し過ぎたところ」
「そんなに寝てたのか」
「三日だよ」
コップを置く彼女の手を見る。
「三日?」
「ずっと起きなかったんだから。私、何回水替えたと思ってるの」
「……悪い」
「まずちゃんと飲んで。まだあるから」
言われて手を出しかけたが、腹の方からも音がした。レイナが俺の腹へ目を落とす。
「そっちもだよね。食べていいか聞いてくる」
「頼む。腹減った」
そんなに眠ったのは初めてだ。手首だけじゃなく、胸も左腕も痛い。寝返りを打つだけで苦労しそうだが、腹は減るらしい。
「どうやって町まで戻ったんだ?」
「荷車が来たの。道に出て手を振ったら止まってくれて、乗せてもらえた」
「一人で俺を運んだのかと思った」
「無理だよ。私も肩、痛かったし。乗せるのも手伝ってもらった」
レイナは水差しを寄せ直したが、すぐには立たなかった。
「先生からね、起きたらいつものコータと違うところがないか見てって言われたの」
「魔憑きになってないかって?」
「うん。前のことを覚えてても、人柄とか、親しい人への接し方まで変わることがあるんだって」
取り込みすぎるなとは教わっていた。あのときも具合は悪くなった。それでも、目の前でレイナの手が落ちるのを見て、やめられなかった。
「……俺、変わってる?」
「いつものコータだと思う。でも、声のことも先生に話そう」
頷いて足元へ目を落とすと、剣のそばに外套が畳んであった。
「あれも持ってきてくれたんだな」
「置いていけないでしょ」
「うん。ありがとう。落ち着いたら返さないと」
レイナがこうして話しているなら、ハロルドさんも無事なのだろう。
布の端に目をやってから、部屋を見回す。棚には薬の入っていそうな壺が並び、卓には水差しと清潔な布が置かれていた。宿の部屋とは違う。三日もここで世話になったのなら、いくらかかるのだろう。
「治療代、足りた?」
「今回はギルドが出してくれるって。魔憑きを倒したから、特別に」
レイナがいつもより大げさにありがたそうに言う。俺が金の心配をしていると思ったんだろう。
「それは……助かるな」
やっと貯めた金が全部なくなるところを想像していた。手首の布を見下ろす。これが取れるまでは剣を振るのも難しそうだし、しばらく稼ぎには出られない。ハロルドさんとの稽古も、手首が治ってからだ。
「じゃあ、先生を呼んでくるね。一人で立ったりしないでよ」
「分かった」
レイナは水差しを手の届くところへ寄せてから扉へ向かった。まだ痛む胸に手を当て、寝台へ背中を預ける。彼女の足音が廊下を遠ざかっていった。
*
扉が閉まってから、俺は小声で呼びかける。
「……まだいるか」
『いるぞ』
寝ぼけていたわけではないらしい。
部屋のどこから聞こえるか探そうとしても、声は相変わらず頭の中にある。さっきよりはっきりしているくらいだ。
「誰なんだよ、お前」
『それを話したいんだが、俺もどう説明したものか困ってる』
「人なのか?」
『人だよ。何だと思ったんだ』
「普通、人は他人の頭に入ってこないだろ」
『こりゃ一本取られたな。俺だって初めてだ』
当たり前みたいに返されても困る。相手の顔も姿も分からないが、声と喋り方からすると、俺よりは年上のおっさんのようだった。
「いつからいる?」
『お前が目を覚ます少し前だな。気がついたらこうなってた』
「その前は」
『眠ってた。少なくとも、俺が覚えてるのはそこまでだ』
何か思い当たることがないか待ってみたが、続きは出てこない。
「出られないのか」
『出られるなら、まず出てから挨拶してる』
「まあ、そうか」
『お前、意外と落ち着いてるな』
「俺より分かってなさそうなやつがいると、逆に騒ぎづらいんだよ」
水差しへ手を伸ばしかけてやめる。片手ではうまく注げそうにない。レイナが戻るまで待とう。
それより、確かめなければならないことがある。
「さっき、レイナが魔憑きになってないかって聞いてただろ。俺、魔素を取り込みすぎたんだよ」
『聞いてた』
「頭の中にお前がいるのも、魔憑きになりかけたせいなのか」
返事がすぐには来なかった。
窓の外から荷車の音がする。下の方で誰かが話しているのも聞こえた。俺は頭の中の声を待った。
『関係がないとは言い切れん。ただ、何が起きたかも分からんうちに、そうだとも言えん』
「お前が俺を魔憑きにしようとしてる、とかじゃないんだな」
『そんなつもりはない。お前をどうこうするために来たわけじゃないし、そもそも魔憑きってものが何なのかもよく分かっていないんだ』
「勝手に入ってきたってことか」
『気がついたらいたんだって。そこは分けてくれ』
少なくとも話は通じる。持ってもいない草を返せとは言ってこない。
「俺が変になったらどうしようと思ってさ」
『変ってのは?』
「話が通じなくなって、人を襲ったり。俺が会った魔憑きはそうだった」
返せ、と繰り返す声まで思い出しかけて、俺は頭を振った。
「まあ、何か分かったら教えてくれ。俺の頭なんだから」
『そっちもな。俺のことまで一人で決めるなよ』
「分かってる。追い出す方法くらいは探すけど」
『見つけたらぜひ俺にも教えてくれ』
そこは意見が合うらしい。思わず息が漏れ、胸に響いて顔をしかめる。笑うのも痛い。
話している間に、廊下では何度か足音がした。扉へ目を向けたが、そのまま通り過ぎていく。レイナはまだ戻ってこない。
『さっきの子、お前の連れか』
「レイナ? 幼馴染だよ」
『昔から一緒なのか』
「幼稚園からだから、二十年近くか。今も一緒に住んでるし」
他人に説明してみると、ずいぶん長い。親より一緒に飯を食うことが多くなったのも、いつからだっただろう。
『じゃあ、よく知ってる相手なんだな』
「まあな。こっちに来る前も、休みの日はよく出かけてた」
『今は?』
「今も出かけるよ。仕事ばっかりじゃ疲れるし、この前も二人で町を回って」
『二十年近く一緒にいて、話すことは尽きないのか』
「尽きないな。別に大した話もしてないけど」
思い浮かべたのは、この前の休みの日だ。
「雑貨屋と服屋に寄って、昼飯食って。それだけだよ。レイナが休みの日に着る服が欲しいって」
『今着てたやつか』
「いや、あれじゃない。薄い青の上着。林へは着ていかないって言ってたから」
俺は医者の寝台に背中を預け、左手を膝に置き直す。店を出てからも、レイナはときどき包みを覗いていた。
「店の前を通ったら歩くのが遅くなってさ。服を見ながら、自分の袖口を触ってたんだよ。だから、寄っていくかって」
『お前、袖を触ってたところまで覚えてるのか』
おっさんが変なところに食いついた。
「袖口を触ってるときは、たいてい何かあるんだよ」
『よく知ってるんだな』
「長い付き合いだからな。あのときは入りたそうだったし」
『じゃあ、お前が選んでやったのか』
「自分で気に入ったのがあったんだよ。俺もそっちが好きだったから、そう言っただけ」
青い上着を肩に羽織り、こちらを向いた顔が浮かぶ。俺の服も選んでもらったと話す。普段なら取らないような薄い色だったが、レイナは似合うと言っていた。
『向こうもお前の服を選んだんだな』
「うん。今度それ着て出かけようって」
『で、今も同じ部屋に住んでると』
「さっき言っただろ」
おっさんが少し黙った。
『お前ら、それで付き合ってないのかよ』
「……そういう話はしたことないな」
『二人で出かけて、服を選び合って、飯食って帰る。それはデートじゃないのか』
「そう言われればそうだけど」
わざわざ二人で出かけるのに名前をつけたことがなかった。
休みが合えば誘うし、向こうから誘われることもある。そのとき行きたいところへ二人で行くだけだ。
『お前はどう思ってるんだ。その子のこと』
「どうって……たぶん、レイナと結婚するんだろうなとは思ってる」
『本人には言ったのか』
「いや別に」
『言えよ』
今度は返事が早かった。
「そういう話にはなったことがないんだよ」
『なら、お前から話せばいいだろ。服を見に寄るかは聞けるんだから』
「それとこれじゃ違うだろ」
『違うから言うんだよ。相手が大事なら、相手と話しとけ』
俺は閉じた扉を見る。
次の休みにどこへ行くかは、何度も話してきた。来年も、その先もレイナと出かけるつもりでいる。でも、一緒にいたいとは言っていない。
そういうところを、知らないおっさんに先に言われるとは思わなかった。
「……そうだな」
『分かりゃいい』
「ちゃんと話すよ」
『俺に言ってもしょうがないからな』
「分かってるって」
勢いで起き上がりかけて胸が痛み、枕へ戻った。頭の中にいるくせに、やけに説教臭いおっさんだ。言っていることが間違っていないのが腹立たしい。
さて、いつ、どう切り出そうか。
改めて考えると気恥ずかしい。
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