第12話 ハロルド
医者に診てもらい、遅い昼飯を少し食べた。左手で匙を使うのは思ったより難しく、器の底に残った汁は持ち上げて飲んだ。
ほとんど味がない。異世界でも病院食は薄いんだな。
宿へ戻ってもいいが、しばらく仕事は休むようにと言われた。右手首の布は巻き直され、立ち上がるときも胸をかばわなければならない。
部屋の中を少し歩いてから寝台へ戻ると、レイナが空になった器を片づけてくれた。
「コータ、話しておきたいことがあるの」
いつになく改まった声に顔を上げる。レイナは器を置いてから、俺の前の椅子に座る。
「ハロルドさんが、亡くなったの」
レイナを見たまま、次の言葉を待った。
「林で、遺体が見つかったって。ギルドの人が教えてくれた」
窓の外で荷車が止まる音がした。誰かが声を張っている。さっきまで聞き流していた声が、妙にはっきり耳に入ってくる。
「……でも、腕を斬ったんだぞ」
「うん」
「あいつの。右腕、鉈ごと落ちたんだ。俺、見たんだよ」
レイナは頷いたが、そのあとは何も言わなかった。
「そっか」
「……うん」
膝の上で左手を握る。指が冷えているのに、顔だけが熱かった。
「マルタさんたちは」
「もう知ってる」
「そっか」
その先が出てこない。寝台の足元へ目を落とすと、畳まれた外套が見えた。
持って待っていますと言った。本人へ返すつもりだった。
「いつ聞いたんだ」
「コータが寝てる間に」
レイナは膝の上で手を重ねていた。
俺に水を渡していたときも、治療代の話をしていたときも、知っていたのか。顔を見ようとしたが、何を言えばいいのか分からず、また外套へ目を戻す。
「……あれ、返しに行かないとだ」
「うん。私も一緒に行く」
俺は頷いた。立ち上がろうと寝台に手をついたが、すぐには腰を上げられなかった。
*
夕方になるまで休んでから、医者に礼を言って外へ出た。
荷物はレイナが持ってくれた。俺は外套だけを左腕に抱える。ゆっくり歩けば大丈夫だが、段差では胸に響く。そのたびに足を緩めると、レイナも隣で待ってくれた。
「渡して、挨拶したら帰ろう」
「うん」
何を話せばいいかは、まだ分からない。俺たちが何も知らなかった頃から世話をしてくれた人だ。家族にまで、俺たちを気遣わせるようなことはしたくなかった。
大通りから二本入ると、見慣れた扉があった。
いつもなら声をかけながら開ける人が、今日は一緒にいない。レイナが俺を見てから扉を叩いた。
出てきたのはエマだった。
「コータさん。起きたんだね」
「うん。今日の昼に」
「入って。お母さん、コータさんたちが来たよ」
俺は外套を抱え直し、レイナと一緒に敷居を跨ぐ。
台所からマルタさんが出てきた。布で手を拭きながら、俺の顔と右手首へ目を向ける。
「よかった。目が覚めたんだね」
「はい。遅くなってすみません。これをお返しに」
外套を差し出すと、そばにいたエマが両手で受け取った。
「逃げるときに、持っていけって渡されて」
そこまで言って言葉が止まる。エマの指が畳んだ布の端を押さえた。
「……気に入ってるって、言ってました」
「うん。これ、ずっと着てたから」
エマは外套を胸に寄せた。
「持って帰ってくれて、ありがとう」
俺は頷く。引きずるなと言われたのに汚してしまった、とは言えなかった。
「今日はこれだけ。まだ大変なときに、すみません」
レイナがそう言って頭を下げる。俺も続こうとしたところで、マルタさんが食卓の方へ手を向けた。
「ご飯、まだでしょう。食べていきなさい」
「いえ、そこまでしてもらうのは」
「もうできるところだから。エマ、二人の分も器を出して」
エマは頷き、外套を椅子の背に掛けて棚へ向かう。
マルタさんは鍋の蓋を開ける。肉と野菜を煮た匂いがした。振り返って俺たちを見ると、もう一度座るように勧めてくれる。
「立ってるのもつらいでしょう」
これ以上断る言葉を探すのをやめた。レイナと目を合わせてから、食卓へ向かう。
「……ありがとうございます。いただきます」
*
椅子へ腰を下ろすときに胸が痛んだ。気づいたエマが俺の前へ器を寄せてくれる。
「このくらいで取れる?」
「うん。ありがとう」
マルタさんが煮込みをよそい、真ん中に置いたパンを切り分ける。俺の皿には小さくしたものを置いてくれた。
「手が痛いと、ちぎりにくいだろうから」
「すみません」
「いいの。温かいうちに食べて」
左手で匙を持つ。肉はよく煮込まれていて、端を押すと簡単にほぐれた。汁を含んだ芋と一緒に口へ運ぶ。
おいしかった。前にいただいたときと同じ味がする。
「おいしいです」
「そう。よかった」
マルタさんはレイナにも、熱いから気をつけてと言い添える。レイナは器に添えた手を少しずらして頷いた。
「お医者さん、何て?」
「しばらく仕事は休めって言われました。宿には戻っていいそうです」
「そうだね。ちゃんと治してからにしなよ」
「はい」
レイナの怪我についても聞かれた。彼女が肩はまだ少し痛むと答えると、マルタさんは荷物を持ちすぎないようにと言う。
俺たちのことばかりだ。
向かいの椅子は空いていた。壁の方を見ると、外套を掛けていた鉤の隣に買い物籠が下がっている。いつもそこへ外套を掛けてから、ハロルドさんも席についていた。
俺は器へ目を戻し、パンを汁に浸す。小さくしてもらったので片手でも食べやすい。
マルタさんが鍋の中をかき混ぜ、大きめの肉を一つすくった。
その手が、空いている席の方へ伸びる。
途中で止まった。
そこには器がない。マルタさんはしばらく手元を見てから、肉を鍋へ戻した。縁に匙が当たり、小さな音がする。
俺は口の中のパンを飲み込んだ。さっきまで柔らかかったのに、喉を通るのに時間がかかった。
エマが母親のそばにあった蓋を取り、鍋へ載せる。レイナも匙を持ったまま、器の中を見ていた。
何か言わなければと思ったが、口を開けない。
マルタさんは自分の席へ戻った。
「パン、まだあるからね」
俺は「はい」と答え、残っている一切れを手に取った。
*
食事を終え、俺たちは席を立つ。
レイナが器を重ねようとすると、エマがこちらでやるからと受け取ってくれる。俺も左手で自分の器を持ったが、座っていてと言われた。
「ご馳走さまでした」
玄関で頭を下げると、マルタさんは俺が靴を履くのを待ってくれた。
「気をつけて帰るんだよ。急がなくていいから」
「はい。ありがとうございます」
レイナも礼を言い、二人で外へ出る。
扉が閉まってからも、少しの間その前を離れられなかった。隣のレイナがこちらを見たので、俺は頷いて歩き始める。
さっき食べたものの温かさが腹に残っている。あの家には何度も行ったのに、ハロルドさんの声を一度も聞かなかったのは初めてだ。
*
宿の階段を上がり、部屋へ戻る。
レイナが荷物を机に置く。俺は寝台の縁に座り、靴を脱ごうとして手を止めた。俯いた拍子に、床へ何か落ちた。
左手で目を押さえる。指が濡れた。
「コータ?」
声をかけられると、余計に堪えられなくなった。
「マルタさん、優しかったな……」
レイナが黙ってそばに来た。
隣へ腰を下ろした彼女が両手で顔を覆う。指の間から息が漏れ、そのまま小さく肩が揺れ始めた。
俺は彼女の背中へ手を置いた。何か言おうとしたが、自分も泣いていて声にならない。
ハロルドさんに、外套を返したかった。
左手の下でレイナの背中が震える。俺も顔を伏せたまま、涙を拭くのをやめた。
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