第13話 おっさん
朝飯を食べ終える頃、宿にエマが来た。
腕には買い物籠を提げている。俺たちを見つけると近づいてきたが、向かいの椅子へ座るよう勧めても首を振った。
「途中で寄っただけだから。昨日、ちゃんと帰れた?」
「うん。ご馳走さま。マルタさんにも、ありがとうって伝えて」
「手、まだ痛む?」
右手首を少し動かし、途中でやめる。
「しばらくは駄目そう。今日も休むよ」
「そうだよね」
エマは籠の持ち手へ目を落とした。帰るのかと思ったが、そのまま立っている。
「どうしたの?」
レイナが声をかけると、エマは顔を上げた。
「あの、今度、少し話してもいい?」
「もちろん。今でも大丈夫だよ」
「……ううん。お母さんが待ってるから、また今度にする」
籠を持ち直し、エマは今度こそ入口へ向かった。扉のところで一度こちらを振り返り、小さく手を上げる。
レイナも手を振り返す。
「まだ、つらいよね」
「そりゃ、そうだよな」
昨日の空いた席が頭に浮かぶ。俺たちは帰ってきたが、あの二人はあそこで暮らしている。
話せることがあるなら聞こう。そう思いながら、俺は残っていた水を飲んだ。
*
部屋へ戻り、机の前へ椅子を寄せた。
「昨日の声、まだ聞こえるんだ」
レイナが荷物を置き、俺の向かいへ座る。
「昨日は先生に、声がしたみたいって伝えたけど。続いてるなら、今度はちゃんと話そう」
「うん。レイナが先生を呼びに行ってる間に話したんだけど、向こうも気がついたらここにいたって」
「その人にも分からないの?」
「出る方法があるなら教えてくれって言われた」
魔憑きとの関係を聞いても分からなかったことを話す。レイナは俺の右手首へ目を向けてから、顔を見る。
「勝手に体が動いたりはしてない?」
「してない。今のところ、喋ってくるだけ」
「変わったことがあったら教えて。私には聞こえないから」
「分かった。……おい、聞こえてるか」
『聞こえてる。そっちが落ち着くのを待ってた。その子に、よろしくと伝えてくれ』
「よろしく、だって」
「……よろしくお願いします」
レイナは俺の顔を見たまま答えた。どこへ向かって言えばいいか困っているらしい。
「私の声は聞こえるんだね」
『聞こえる。お前がそっちを向いてるから、見えてもいるぞ』
今度の返事を聞いたレイナは、自分の服へ目を落とした。
「じゃあ、着替えるときは向こう向いててね」
「今までも見てないだろ」
「コータだけならまだいいけど、知らない人に見られるのは嫌だよ」
『そういえば、昨日の煮込みはうまかったな』
「味も分かるのか?」
いきなり違う話が来た。
「昨日のマルタさんの煮込み、おいしかったって」
「食べたのはコータだよね」
俺だって今知ったところだ。試しに水を飲む。
『水だな。味はまあ、水だ』
確かめるものを間違えた気がする。
昨日、あの家で飯を食っている間は何も言わなかった。マルタさんの煮込みの味を、こいつも知っているらしい。
*
「この町の人なの?」
レイナの質問を繰り返そうとすると、先に返事が来る。
『違うな。リンダムって名前は聞いたことがない』
「だってさ。どこに住んでたんだ?」
『サディウス』
知らない地名が返ってきた。レイナが地図の写しを広げるが、俺たちの調べた範囲には載っていない。
「この辺にはないな」
『その地図にある名前も、俺は知らん』
「遠くから来たってこと?」
『それも分からん。長いこと眠ってたんだよ。眠る前と町の様子もずいぶん違う』
窓の外へ顔を向ける。向かいの建物の屋根と、通りを歩く人が見えた。
「どれくらい?」
『それを知りたいんだ。寝てる間のことは覚えてないからな』
俺が三日寝ていたのとは、だいぶ話が違うらしい。
「私たちの世界へ帰る方法も知らないかな」
レイナの問いに、おっさんは俺たちがどうやって来たのかと聞き返した。日本で二人で出かける途中だったこと、気づいたら草原だったことを話す。
『悪いが、そんな話は聞いたことがない。ここへ来るために何かしたわけでもないんだな』
「うん。こっちでは、転移者って呼ばれてる」
帰る手掛かりにはならなかった。俺もレイナも地図へ目を戻す。
『こっちからも聞いていいか。今、何年なんだ?』
レイナにも尋ねたが、彼女も首をかしげた。仕事の期限や宿代を払う日は気にしていたが、年まで尋ねた覚えはない。
「……そこも聞いてくる」
『何を基準に数えてるのかも頼む。数字だけ違っても、暦が変わってたら分からんからな』
暦の数え方も頼むと、レイナがメモ帳へ書き足した。眠っていた間のことを知らない相手に、今ここで全部答えてもらおうとしても無理か。
「分からないことが増えただけな気がする」
『俺もだ。聞かれたこっちの方も驚いてるんだぞ』
レイナが地図を畳んだ。机に残っていたメモ帳を重ねると、ページの端から細長い紙が覗く。
魔法の本を写したところに挟んでいた目印だ。
「魔法なら、昔と同じだったりしないのか。火を出したり、汚れを落としたりするやつ」
『魔法?』
おっさんの声が高くなった。
『魔法が使えるのか、お前ら』
「少しは。周りにある魔素ってやつを取り込んで使うんだよ」
『魔素、ねえ。いいな、見せてくれよ』
さっきまでとは明らかに食いつきが違う。
「急に元気になったな」
『そりゃ見たいだろ、魔法だぞ』
レイナがこちらへ身を寄せる。
「何て?」
「魔法を見せてくれって。なんか、すごい期待してる」
俺が左手を開くより先に、レイナが言った。
「コータは休んで。私がやるから」
彼女は洗うために分けていた布を手に取る。昨日、靴の泥を拭いたものだ。
「クリーンなら、ここでも大丈夫でしょ」
*
布の下へ受け皿を置き、レイナが乾いた泥へ指を添える。
「クリーン」
指を添えたところの土が細かく崩れ、皿へ落ちた。その下から布の織り目が見える。いつものクリーンだ。
『……ああ。これを魔法って呼んでるのか』
「知ってるのか?」
『知ってる。呼び方が違ったな』
期待していたものとは違ったらしい。それでも、さっきまでの分からんとは違う返事に、俺は椅子を寄せた。
「使い方も?」
『それなら少しは話せる。どうやってるのか聞いてくれ』
「その前に、今のが何なのか教えてくれよ。俺たちは魔法としか聞いてないんだから」
『お前らが魔素と呼んでるものが布についた土を剥がしてるんだよ。目には見えないくらい小さなものが集まって働いてる』
「小さいもの?」
『一つひとつはあの土の粒よりずっと小さい。だから布の細かいところにも入り込める。そこで土を動かして、離してやるわけだ』
俺は皿へ落ちた土を見た。なくなったわけではない。布から離れただけだ。それは最初に教わったときにも見ていたのに、何がやっているのかまでは考えていなかった。
レイナへ話すと、彼女は布を持ち上げた。
「私は、汚れてるところを覆う感じで使ってるんだけど」
『布の裏までまとめてやってるなら、余計に使ってるかもしれんな。汚れと布の間だけを狙えばいい』
「広さじゃなくて、厚み?」
『そうだ。ただ薄くする方にも力を食う。端から、今動かすところだけでいい』
俺は説明を取り次ぎながら、指先で薄い隙間を作ってみせた。そこへ膜を一枚差し込むようなものだろうか。
「こういうふうに、間に入れるってことか」
『まあ、そうだな』
レイナが布へ指を添え直す。
泥の端が少し剥がれた。けれど真ん中は残り、彼女は一度手を離した。
「薄くしようとすると、途中で切れる感じがする」
彼女は泥の真ん中までを指した。そこへ届く前に、うまくいかなくなるらしい。
『奥まで伸ばそうとせず、入ったところから離してくれ』
伝えると、レイナは剥がれかけた端へ指を置いた。今度は土が少しずつ皿へ落ち、指の動きにつれて布の色が戻っていく。
「できた」
「どう?」
「途中で足さなくて済んだけど……薄くする方に気を取られるし、楽になったとまでは言えないかな」
『……もう少し変わると思ったんだがな』
おっさんも考え込んだ。俺は布と自分の指を見比べる。説明を聞いて分かったつもりだったが、この隙間をずっと保っておくのは難しそうだ。
「私のやり方、違ってた?」
俺はすぐには答えず、おっさんの返事を待った。
『説明がうまく伝わってないのかもしれん。少し考え直させてくれ』
「いや、おっさんも考えてる。ちゃんと説明できてるか確かめたいって」
レイナは布を机へ置いた。
「今日はここまでにしとこうかな。一度に変えると、何が違ったか分からなくなる」
俺も頷いた。今は俺が試して比べるわけにもいかない。
「お前、こういうことをしてたのか。昔」
『仕事は研究だよ。生み出した力をどう使うかとか、無駄をどう減らすかとか、そういうことをやってた』
帰り方も町のことも分からないのに、布の汚れの落とし方には口を出せる。妙なおっさんだが、今までと違うやり方で落ちたのは確かだ。
レイナがメモ帳を開く。
「忘れないうちに書いとこう。どこからだっけ」
「広さじゃなくて、厚み」
「そう、それ」
書き始めた手元を見てから、俺は自分の左手を膝へ戻した。
魔法を使うたび、あのときみたいに取り込む必要はない。そう分かっていても、自分で使うところを考えると、あの男の顔が浮かぶ。
少なくて済むなら、その方がいい。治ったら俺も試してみたい。
『コータ。もう少しそっちを向いてくれ』
「何だよ」
『書いてるものが見えん。説明が合ってるか、俺も見たい』
俺は椅子をレイナの方へ向けた。
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