第8話 違和感
ハロルドさんの家で初めて飯をご馳走になってから、二か月ほどが過ぎた。
「今日は夕飯も食べるかい?」
「お願いします。遅くなるようなら伝えます」
宿の人に答えて外へ出る。レイナは入口の脇で水袋の栓を確かめている。最初の頃は忘れ物がないか二人で何度も確認していたが、今は支度にそう時間がかからない。
町を歩けば挨拶する相手がいて、道に迷わず宿へ帰れる。明日の飯代も自分たちで払える。
帰りたくなくなったわけではない。ギルドでは今も転移者の話を聞き、本も少しずつ読んでいる。ただ、元の世界へ帰る方法につながる話はまだ見つかっていなかった。
その間にも、こっちでできることは増えた。
剣を外しても慌てず構え直すこと。レイナが魔法を使う位置を空けておくこと。相手を倒しても周りを見ること。ハロルドさんに何度も言われ、少しずつ身についてきた。
本で見つけた風の刃も、最近になってようやく練習を許してもらった。薄くまとめた風を飛ばし、近くの木片に浅い傷をつける程度だ。それでも、ただ押していた風でものを切れたときは嬉しかった。
続けて使えばすぐ頭が重くなる。もっと深く切ろうと魔素を足す前に、ハロルドさんから止められる。今の俺が扱えるのはそこまでだ。
*
ギルドへ入ると、ハロルドさんは受付で依頼の確認をしていた。俺たちに気づくと紙をこちらへ向ける。
「今日はいつもの林だ。この二つを集める」
「根っこを掘る方はなしですね」
「ああ。そっちは今日は数が足りてるそうだ」
レイナが必要な量を書き留め、俺は帰りの時刻を受付へ伝える。荷物を持ち直して外へ出ると、ハロルドさんが並んで歩く。
「具合はどうだ」
「大丈夫です。昨日は魔法の練習も休んだので」
「私も平気です」
「よし。帰りに余裕があれば剣を見るぞ」
歩きながら腰の剣の位置を直す。最初に渡されたものをまだ使っているが、今は帯を自分で合わせる。レイナも道具を試しながら、自分が使いやすいものを探していた。
町を出て街道を進み、何度も通った分かれ道から林へ入る。木の根で足元が盛り上がっている場所を越えると、採取に使っている開けたところがある。
俺は袋を下ろし、いつもの木のそばへしゃがむ。
目当ての草はすぐに見つかった。葉の裏を確かめ、育ったものだけを摘んでいく。最初の日は一本採るたびにハロルドさんへ見せていたが、今はある程度まとめてから確認してもらっている。
「コータ、そっちある?」
少し離れた場所でレイナが膝をついていた。足元を指している。
「こっちはあるよ」
「そっちじゃなくて、茎が赤い方」
俺は手を止め、周りを見た。確かに、今日頼まれたもう一種類が見当たらない。いつもなら今採っている草の間にも何本か交じっているはずなのに。
「誰か先に来たのかな」
「そうかもしれないけど……」
レイナは地面へ顔を近づけた。草をかき分けているが、何かを採る様子はない。
「この前、小さいのを残したんだよね。ここ、いっぱい生えてたから」
指さした場所を俺も覗く。湿った土と細い草の間に、小さなくぼみがいくつもある。
「小さいのまで抜かれたってこと?」
「うん。それに、ほかのは残ってる」
レイナの膝のすぐ横にも俺が採っていた方の草が生えていた。こちらも依頼の多い種類だ。知らない人が見落とすことはあるだろうが、赤い茎の草だけを小さな株まで抜いていったのは確かに妙だ。
ハロルドさんを呼ぶと、周りを見ていた顔がこちらへ向いた。
「何かあったか」
「こっちの草だけないんです。前に残した分も」
レイナが場所を示す。ハロルドさんもしゃがんで土を見たが、すぐには答えなかった。
「いつ来たときだ」
「五日前です。あの倒れた木のところまで採って、ここの小さいのは次にしようって」
「ああ、あの日か。根ごと持っていった奴がいるのかもしれんな」
ハロルドさんは立ち上がる。
「この先にも生えてたな。そっちを見て、なけりゃ今日はある方だけにするぞ」
俺たちは袋を持って移動する。奥へ探しに入るのではなく、普段も採っている林の縁を回る道だ。
けれど、次の場所でも同じだった。
レイナは足元を見回してから、何も入っていない袋を一度開く。そのまま口を閉じ、ハロルドさんを見る。
「ここもです」
ほかの草は生えている。葉を食われた跡もあるのに、目当ての赤い茎だけが見つからない。
ハロルドさんは腰へ手を置いた。剣には触れず、林の中へ顔を向ける。
俺も袋の紐を握り直した。
*
「動くな」
声が低くなった。
ハロルドさんの目は道脇の茂みで止まっていた。俺は剣へ手を伸ばし、その視線を追う。
草の間から灰色の足が出ている。
ウサギの魔物だ。横倒しになった体は動かない。毛の間に血が固まり、首が不自然な方へ曲がっていた。
ハロルドさんが前へ出る。俺たちには下がっていろと手で示し、周囲を確かめてから死骸を見下ろした。
「死んでる」
剣の握りから少し力を抜く。誰かが倒した跡なら何度か見たことがある。アッシュウルフの食い残しに出くわしたこともあった。
ただ、目の前の体はほとんどそのままだ。
「食べられてないですね」
「ああ」
短い返事のあと、ハロルドさんが道の反対側へ目を向けた。少し先の木の根元にも茶色いものが見える。
細い角の生えた魔物が前脚を折るようにして倒れていた。腹には大きな傷がある。こちらも肉を食われた様子はない。
俺がそちらへ足を向けかけると、ハロルドさんの腕が前に出た。
「そこからでいい」
止まって見れば、その奥にも長い耳が片方だけ見えた。草に隠れていて体はよく分からないが、動く気配はなかった。
口の中が乾いてきた。三匹。見えているだけで、それだけいる。
「この辺で、誰か討伐をしてるんですか」
「今日はそんな話は聞いてねえな」
ハロルドさんは俺たちのそばへ戻ってきた。
「レイナ。なくなってるのは赤い茎のやつだけだな」
「はい。ほかの草はいつもと変わらないと思います」
ハロルドさんは倒れたウサギと角のある魔物を順に見る。
「こいつら、どっちもあの草をよく食うんだ」
俺はさっき見た地面を思い出した。小さな株までなくなっていた場所。それを食べる魔物が、食われもせずに倒れている。
「じゃあ、草を採った人が……」
「まだ分からん」
ハロルドさんは俺の言葉を止めた。
「だが、ここで確かめる必要はない。今日は帰るぞ」
俺はすぐに袋の口を縛った。依頼の半分はほとんど採れていないが、残りを探そうとは思えなかった。
「同じ道を戻りますか」
「ああ。街道へ出る。二人とも離れるな」
レイナが頷いて俺のそばへ来た。ハロルドさんは俺たちが荷物を背負うのを確かめ、来た道へ向き直る。
*
帰りは誰も話さなかった。
さっきまで薬草を探していた茂みが、今は中の見えない場所に変わっている。葉が揺れるたびに目を向ける。足元ばかり見ないように顔を上げても、後ろが気になった。
ハロルドさんは早足だった。道が曲がるところでは速度を落とし、先を見てから進む。俺たちもそれに合わせた。
レイナがいなければ、草が少ないだけで済ませていたかもしれない。俺は自分の袋の重さを気にするばかりで、小さい株がなくなったことまでは見ていなかった。
肩の袋が枝に触れ、乾いた音がした。自分で立てた音なのに体が強張る。
「慌てんな。足元も見とけ」
ハロルドさんの声に頷き、引っかかった紐を外した。
木々の隙間が広くなってきた。もう少しで街道だ。荷車の通る道へ出れば見通しも利く。
そう思ったところで、前を歩くハロルドさんが止まる。
片手が上がる。俺も足を止め、レイナを見た。彼女も動かずに前を見ている。
木の間に人影があった。
街道へ続く道の真ん中に、誰かが立っている。
ハロルドさんの手がゆっくりと剣の握りへ移った。
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本編は全143話、完結まで執筆・校正済みです。
本日は第10話まで、10分おきに公開します。
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