第53話 とびきりの飯
廊下で足音がするたび、扉を見る。
水を持ってきてくれた職員に町の様子を尋ねても、まだ確認しているとしか返ってこない。卓へ置いたコップに口をつけると、水はぬるかった。
さっき、あれだけ水が出ると喜んだのに。
「上の水槽って、どこにあるんだろう」
レイナの開いた図には、設備の先へ伸びた管がどこへつながるかは載っていない。
『いっぱいになれば止まるはずだが……今、どう使ってるのかは見てないな』
止める場所も、部屋の中に危ないものがないことも確かめた。けれど、機械の先にある水槽を誰かが開けていたら。止まった台の上へ荷物を積み、別の仕事をしていたら。
昨日だって、洗うための機械を物置にしているところを見たばかりだ。
「俺、あの部屋の中しか見てなかった」
エマが顔を上げる。
「私は、あそこから町の水まで動くって、途中まで分かってなかった。台も使えるようになるかもって聞いて、よかったと思ってた」
「うん。ちゃんと話してなかったな」
「私もだよ」
レイナが言った。
「危なかったら止まるって聞いて、安心した。日本で普段使ってた機械みたいに考えてたんだと思う」
『俺も、動く条件が揃ってるかしか気にしてなかったな』
テオが椅子を引き寄せ、図を覗く。
「今、止めた方がいいのか?」
すぐに返事ができなかった。
『確かめてもらおう。さっき水が出たなら、もう使ってる人がいるかもしれん』
そう伝えて席を立ち、扉の外の男に話す。彼は奥の職員へ声をかけ、戻ってくると、勝手に止めず待っているよう言った。
俺は椅子へ戻った。
動かすときには、自分たちで決めてよかったことのように思えたのに。
*
受付の男性が戻ってきたのは、持ってきた昼飯を四人で分けて食べ終えた頃だった。
「大丈夫です。怪我をした人はいません」
俺は椅子から腰を浮かせ、そのまま座り直した。隣でレイナが長く息を吐く。
「水も、槽が満ちたところで止まりました。しばらく使ってみましたが、また減れば出てくる。以前と同じだと、係が言っています」
「よかった……」
エマがコップを両手で包んだ。
大きな昇降台も、係が周りを片づけてから動かせたという。消えていた通路にも明かりが戻っている。
「二十年ほど動いていなかった設備も動き始めていますが、そちらも今のところ問題はありません」
男性は卓に図を広げ、部屋の位置を指す。
「何がつながっているか、こちらでも全部は分かっていないんです。だから、動かす前に話してほしかった」
「すみませんでした」
レイナも頭を下げた。おっさんの声はしない。
「次からは、先に相談します」
「お願いします。今朝、大きな台を直していたらどうなったかと思うと、こちらもね」
怒鳴られはしなかった。その具体的な言い方の方が、胸に残る。
男性は紙を揃えた。
「ただ、助かりました。上の店は、毎日下から水を運んでいたので」
顔を上げると、男性も俺たちを見ていた。
「もう、ここにいてもらう必要はありません。このあと時間があれば、町の係にも動かした場所を教えてもらえますか。報酬のことも、戻ってから話しましょう」
俺はレイナを見る。彼女が帳面を手に立ち上がり、エマも袋を持つ。
「行きます」
*
係の女性と設備の部屋へ戻り、操作した場所を教えた。
「また止まったら、ここへ魔素を送ればいい?」
聞かれて表示へ目を戻す。
『先に、何で止まったか確かめてもらえ。次も同じとは限らん』
その言葉を取り次ぎ、理由の出る場所も示す。女性はレイナの写した文字と見比べていた。
テオが箱の横にある別の表示を指す。
「こっちの数字も写す?」
燃料の残量と、今使っている量だった。俺もおっさんに見せ、桁を確かめる。
『表示が合ってるなら、今の使い方で二百年以上はあるな』
俺は顔を上げた。
「二百年?」
女性までこちらを見る。俺は慌てて、残っている燃料を今の量ずつ使った場合だと付け足した。
「その間、壊れないってことではないです。今日みたいに止まるところもあると思うので」
「ええ。そっちはもう、十分分かってるよ」
女性は笑いかけ、それから板を見直す。
「でも、使い切ったわけじゃなかったんだね」
高い箱の列を見上げる。工場だった頃より使う量がずっと少ないにしても、俺たちがいなくなったあとまで、この音は続くのか。
部屋を出ようとすると、エマが女性に声をかける。
「あっちの通路も、明かりが戻ったんですか。見学できなかったところ」
「点いたよ。途中までなら、帰りに通ろうか」
今朝はそこを見に来たのだった。
*
上の通路では、水を入れた桶を男が床へ置いていた。
桶の水を店の水瓶へ移してから、男は壁の口をひねった。水が出るのを確かめて手を洗い、今度は空の桶を抱えて戻っていく。そばにいた女性が俺たちに気づき、町の係へ声をかける。
「出るようになったよ。こっちも!」
「使っていて変だったら、すぐ知らせて」
返事をしながら先へ歩く係の女性に、俺たちも続く。
今は水の出る音が嬉しい。
案内されたのは、広い窓のある部屋だった。
壁いっぱいに図が浮かんでいる。長い線が枝分かれし、分かれた先に地名らしい文字が並ぶ。その下には低い台があったが、何も載っていない。
「今朝まで、壁が黒かったんだ。ずっと前には、こうなってたって聞いたことはあるけど」
女性の言葉を聞きながら、レイナが図へ近づいた。
「これ、道かな」
『ものを運ぶ路線だな。どこへ出せるかを見るやつだ』
俺は端から目で追う。今いる建物の配置らしい四角い印があり、外へ伸びる線が三本。その先は、どれも知らない名前だった。
おっさんが黙った。
「どうした?」
『右の上。そっちを、もう一度見てくれ』
顔を向ける。
オルナ。
声に出して読むと、おっさんが、そこだと言った。
『知ってる。サディウスへ帰る途中に通るところだ』
俺は図へ近づいた。
「サディウスが、近いのか」
『いや、近くはない。サディウスは、オルナからさらに北だった』
レイナが帳面を開き、エマも俺の隣へ来た。おっさんの知っている地名があると伝えると、テオは線の端を指す。
「今の町でいうと、どっちなんだ?」
係の女性に北を教えてもらい、建物の並びを図と比べる。昔の路線は、町の北東へ伸びているようだった。
『ここからなら、まずそっちだろうな。道が残ってるかまでは分からんが』
地図のどこを探せばよいのかも分からなかった名前に、初めて方角がついた。
エマが図を見たまま聞く。
「おじさん、行ってみたい?」
『見られるものがあるなら、見たいな』
おっさんの知っているものが、何か残っているといい。
その返事を伝えると、レイナが線の向きを帳面へ写した。今の地図とは違うので、地名のそばに昔のものだと書き添える。
「まず、こっちへ行く道を聞こう。今は何があるのかも」
「うん」
係の女性は、書き終わるまで待ってくれた。
*
ギルドへ戻ると、報酬には設備を動かした分が足されていた。
「いただいて、いいんですか」
「働いた分は払いますよ」
俺たちはもう一度礼を言って外へ出た。
テオが俺の肩を叩いた。
「今日は、オヤジに何食いたいか聞こうぜ」
『とびきりうまいやつだ。安い方でいいか、は今日はなしにしてくれ』
返事が早い。
「だって」
「うん。今日はそれでいいと思う」
レイナが笑う。エマも、宿へ帰る前に店を見ようと言った。
「おっさん、今日は好きなの選んでいいよ」
『……いいのか』
「自分で言っただろ。何食いたい?」
俺たちだけなら、暗い部屋の文字を写して終わっていたと思う。
『じゃあ、さっき通ったところへ戻ってくれ。丸いのを焼いてた店だ』
「見てたのか」
『見えてたからな』
俺たちは来た道を戻った。
店先の窯から出されたのは、生地で包んで焼いた肉だった。四人で卓へつき、切り分けてもらう。割った隙間から湯気が上がり、皿に肉汁が流れ出した。
『そこの端、焼けてるところも一緒にな』
言われたとおりに口へ入れる。生地が崩れ、中の肉と柔らかい玉ねぎが熱かった。
うまい。
向かいのテオも喋らなくなった。エマは先に中を割って冷まし、レイナは皿へ流れた汁を生地につけている。
『これだよ。今日は、こういうのが食いたかった』
「うん。俺も」
腹が減っていたことを、ようやく思い出した。
レイナが、明日は北東の道を聞こうと言う。俺も賛成し、忘れないよう、オルナと口の中で繰り返した。
『コータ。あの小さい皿にあるのも頼もう』
棚の上に、蜜をかけた焼き菓子が並んでいる。
「それも食べるの?」
『今日は好きなのを選んでいいって言ったろ』
レイナに笑われながら、俺は店の人へ手を上げた。
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