第51話 炭酸水
「下に何か置かないと」
エマに言われ、桶の上へ布を広げる。レイナはいつもどおり端から泥を剥がし、どこへ気を使っているかをおっさんに話した。
途中でレイナの手が止まった。
「ここ。糸が浮いてるところに合わせようとすると、難しくなるの」
『そこで膜の形を直してるのか』
俺が聞くと、彼女は布へ指を添えた。
「うん。途中で切れたら、そこだけ残ると思って」
俺も縫い目を越えるたび、薄いものを曲げて沿わせるように考えていた。
『その形を全部つなげておく必要はないんだよ。土と糸が触れてるところで、それぞれ離す方へ働かせればいい』
「つながってなくても、できるのか」
『一枚の道具を差し込んでるわけじゃないからな』
小さい機械の集まり。
言葉で知っただけなのに、さっきまで薄い板のように思っていたものを、そのまま思い浮かべにくくなった。
レイナへ伝えると、彼女は一度手を引き、まだ泥のついた隣の部分を見た。
「やってみる」
同じくらいの幅を端から落としていく。糸の浮いたところで手が止まりかけたが、今度はそのまま進んだ。桶の底へ泥が落ちる。
「……あ、楽かも」
レイナは布を裏返し、落としたところを確かめた。
「途中、つなぎ直さなくてよかった」
「俺もやっていい?」
布を受け取り、残った泥へ手を近づける。薄く、切れないように。そこまで考えてから、今それをやめる話をしていたんだと思い直した。
糸の間に入り込んだ土を離す。そのために働くものがそこに集まっている。
俺が試したところも泥が落ちた。
見た目はいつもと変わらない。けれど、折り目に沿わせた形を保とうとしなくても、向こうまで進められた。
「これ、今まで余計なことしてたんだな」
『そこまで揃えなくても、落とせたってことだ』
「風も、変わるかな」
レイナが自分の手を見た。
「外で試そう。ここでやると、泥が飛ぶ」
俺が言うと、桶を覗いていたテオが顔を上げる。
「じゃあ、先にパンな」
「分かってるよ」
エマが笑いながら布を受け取り、乾いたところで桶の縁を拭いた。俺はまだ落とせそうな汚れを探しかけて、靴へ足を入れる。
帰ってからでもできる。今は俺も腹が減っていた。
*
買ったパンを齧りながら、上の階の通路を歩く。
硬い皮の中には刻んだ肉が入っていた。テオの一口目が中身まで届いたのを見て、俺も大きく齧る。
『そっちの端にも入ってるぞ』
「分かってる。順番に食うから」
明日訪ねる建物はこの棟の裏手だ。行き方を確かめながら、まだ通っていない方へ回る。
道具屋の前には鍋や水差しが並び、向かいでは果物を売っている。小さな瓶に詰めた果汁もあった。水で薄めて飲むものだと、エマが店の札を読んで教えてくれる。
その横を通り過ぎようとしたとき、おっさんが声を上げた。
『待て。そっちの棚、見てくれ』
道具屋へ顔を戻す。
水差しの間に太い筒のようなものが置かれていた。透明な胴に金属の底と蓋がつき、横から短い取っ手が出ている。大きめの水筒くらいだ。
「あれ?」
『ああ。飲み物を作るやつじゃないか』
俺が近づくと、棚の奥にいた店主が前へ出てきた。
「そいつが気になるかい」
「はい。何に使うんですか」
「水に泡を入れる。飲むと、口がぴりぴりするんだ」
食べかけのパンを下ろす。
「……炭酸?」
隣へ来たレイナが俺より先に棚を覗き込んだ。
「炭酸って言った?」
「たぶん」
「飲めるんですか、これで作ったもの」
「飲めるよ。試してみるかい」
店主は筒の線まで水を入れ、蓋を閉めた。脇の丸いところへ魔素を通すと、水の中に泡が立つ。
「止まったら、こっちを回す。音がしなくなってから開けてね」
蓋の縁から空気の抜ける音がして、四つのコップへ水が注がれた。
細かい泡が内側へくっついている。
口をつけると、舌の先がちりちりした。冷えてはいない。それでも喉を通る感じが懐かしく、飲み込んだあとに息が漏れる。
「ああ、これだ」
『うまいな。久しぶりだ』
レイナはもう二口目を飲んでいた。
「これ、持って歩けますか」
「空にすれば、それほど重くないよ。落とさないようにはしてほしいけど」
店主が差し出した筒を彼女は両手で受け取る。底を確かめ、取っ手を持ち、もう一度コップを見た。
俺も欲しい。袋の中でどこへ入れようかと考え始めたところへ、テオの声が割り込んだ。
「これ、うまいか?」
まだ半分以上残ったコップを持ち、難しい顔をしている。
「舌、痛くない?」
エマも口を離した。もう一度匂いを確かめているが、それだけでは普通の水と変わらない。
「果物の汁かと思ったけど、甘くないんだね」
「水だからな」
俺が答えると、テオはますます分からなそうな顔になった。
「水を、わざわざ痛くするの?」
そう言われると、急に買う理由が薄くなった。
*
「香りもつけられるよ」
店主はもう一度水を入れ、蓋の小さなつまみをずらした。泡を入れて開けると、今度は果物の皮のような匂いがする。注ぎ直された水を飲んでみた。
鼻へ抜ける香りに、舌が甘さを待つ。けれど、やっぱり水だった。
「レモンっぽい」
「うん。いいね、これ」
レイナも気に入ったらしいが、エマはやっぱり首を傾げた。
店主が別のつまみも見せてくれている間に、俺は声を落とした。
「これもナノマシンでやってるのか」
『ああ。こういうのはあった』
「何も入れてないのに、匂いまで変わるんだな」
『中でどう加工してるかまでは知らんぞ。俺は作る方じゃなくて、飲む方だったからな』
レイナが値段を尋ねる。聞こえた額に、俺は財布を出しかけて止まった。
今の宿で二部屋を五泊借りられる。
買えなくはない。けれど、水に泡を入れるために払う金としては安くなかった。
「レイナ、どうする?」
「……欲しい」
迷った末の声だったが、返事ははっきりしていた。
「私、持つよ。着替えを詰め直せば入ると思う」
「俺も欲しいんだけどさ」
横でテオが笑い始める。
「止めるやつ、いないじゃん」
「値段は聞いたよ」
レイナの返事に、エマまで笑った。道中で俺たちに言ったことは、確かに守っている。
『甘いのを混ぜりゃ、あの二人も分かるだろ』
おっさんが言った。
それだ。
「これ、そのままじゃなくてもいいんだよ。濃いジュースに入れると、うまいんだって」
「ジュース?」
エマが聞き返す。
「果汁。向かいで売ってたやつ。水で薄める代わりに、これを入れるんだ」
「そう。甘いのに合わせると、飲みやすくなるよ」
レイナもすぐに続けた。テオは俺たちを交互に見る。
「二人とも、急に喋るな」
『薄くしすぎるなよ。初めは甘い方がいい』
「薄くしすぎなければ、ちゃんとうまいから」
おっさんの言葉まで続けてしまい、俺は口を閉じる。これではよっぽど欲しいように見える。
よっぽど欲しいのだが。
「試してから決めてもいいですか。向かいで果汁を買ってくるので」
レイナが店主へ聞いた。
「いいよ。どうせ水はまだある。コップも使いな」
「ありがとうございます」
彼女はエマを誘い、向かいへ渡っていく。残されたテオが俺のそばへ寄ってきた。
「オヤジも欲しがってんだろ」
「うん」
「三人かよ」
『お前も飲めば欲しくなるぞ』
今度はそのまま伝えた。テオは、ほんとかよと言いながら、残っていた水をもう一口飲む。
やっぱり顔をしかめた。
*
二人が買ってきたのは、濃い紫色の果汁だった。
「こっちが甘いって」
エマが瓶を卓へ置くと、レイナは店主に水だけの炭酸を頼んだ。コップで果汁と混ぜると、紫色の上に細かい泡が広がる。
できた一杯を、俺はテオの前へ滑らせた。
「飲んでみろよ」
「そんな見んなって」
俺とレイナが見ている中、テオが口をつける。今度はすぐに離さず、もう一度飲んだ。
「……あ、これならうまい」
「だろ!」
『ほらな』
思ったより大きな声が出た。レイナも笑い、エマの分へ炭酸水を注ぐ。
「でも、甘くしたからじゃねえの?」
テオが言うので、同じ果汁を普通の水でも薄めてもらった。飲み比べていたエマが二つのコップを置く。
「こっちの方が飲んだあと口に残らないね。甘いのは同じなのに」
「そうなんだよ。パンにも合うし」
俺は残っていたパンを持ち上げた。テオはそれを見て自分のパンを齧り、炭酸の方を飲む。
「うん。こっちもいいな」
俺も味見させてもらう。果物の酸味と甘さのあとに泡が弾け、肉の脂っぽさが薄くなる。
『こりゃ、いい。もう一口いこう』
「俺の分、作るから待って」
テオへコップを返すと、エマが笑った。
「おじさんも気に入った?」
「かなり」
「じゃあ、五人だね」
レイナは最後に自分の分を作り、ひと口飲んでから俺たちを見た。
「これ、買おうよ」
今度は迷っていなかった。
エマは瓶の残りを確かめ、買うならこの果汁も持って帰ろうと言う。テオもコップを置いた。
「俺も飲む。持つのは代わるから」
「じゃあ、みんなの分から出していい?」
レイナの言葉に俺たちは賛成し、四人で使う金の袋を開いた。宿と次の旅に取ってある分は残る。筒の中を空にしてもらい、受け取ったレイナが布で包む。
店主に礼を言い、通路へ出た。
*
明日訪ねる場所への道を確かめてから、宿へ戻る。
レイナは包みを抱え、エマと果汁の残りで何杯作れそうか話していた。テオは俺の横へ来るなり、肩をぶつけてくる。
「余計なもん買うなって、誰が言ったんだっけ」
「みんなで使うから、余計じゃないだろ」
「俺の剣にも言ってくれよ、それ」
用途も値段も、買う前に確かめた。試してから決めたのだから、今回はちゃんとした買い物だと思う。
ただ、二人を説得していた俺たちは、ずいぶん必死だった。
『飯のときに使おう。さっきの果汁はまだあるだろ』
おっさんもそこにいた一人だ。
宿へ着くと、レイナは荷物を部屋へ置きに行った。俺は卓へ残していた布を畳み、桶を片づける。
「コータ」
戻ってきたレイナが扉から顔を出した。手にはさっきの筒がある。
「もう一回、作っていい?」
「もう飲むのか」
「作り方、覚えてるうちにやりたい」
俺は水差しを持ち上げた。
それなら仕方ない、と思うことにした。
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