第50話 小さな機械
首都を出て八日目、ルーゼンの長い屋根が見えてきた。
「あれ、全部つながってるのか」
隣のテオが立ち上がりかけ、御者に座るよう言われる。俺も腰を浮かせていたので、黙って座り直した。
近づくと、屋根は一本ではなかった。長い建物が何棟も並び、その間へ渡した屋根の下を人が行き来している。大きな窓を板で塞いだところもあれば、その下に小さな窓と扉を作り直したところもあった。
町というより、工場へ入っていくように見える。
けれど入口の前には野菜を売る荷車が止まり、籠を持った女性が子供に手を引かれながら買い物をしていた。
『あんなところに店を出してるのか』
おっさんが言った。
「何か分かる?」
『荷物を運び込むところだと思うが。ほら、荷車をそのまま入れられるようになってるだろ』
言われて見ると、建物へ入る口の一つは坂になっていた。荷車を押す人がそこを上り、扉の向こうへ消える。
これが動いていた頃には、どんなものを運んでいたのだろう。
俺たちの馬車はその手前の広場で止まった。
*
御者に礼を言って荷物を受け取り、建物へ入る。
天井が高い。
外から見た屋根はもっと上にあったはずだが、頭上にはもう一つ床がある。その下だけでも、宿の一階と二階を合わせたくらいありそうだった。
石の床に車輪の音が響く。通路の両側には板で区切った店が並び、柱には行き先を書いた札が掛かっている。窓から遠いのに、壁の明かりで札の字は読めた。
「ほんとに、中が道になってる」
エマが言う。レイナは横山さんの図を写した頁を開き、柱の並びと見比べた。
「上へ行くの、こっちみたい」
「乗れるかな」
「聞いてみようよ」
通路の先で男たちが荷車から馬を外していた。手綱を引かれた馬が横へよけると、人の手で押された荷車だけが柵のついた台へ載せられる。
あれだ。
俺たちが近づくと、台の脇にいた男性が顔を上げた。
「上へ行くのかい」
「はい。人も乗っていいんですか」
「いいよ。荷車が入ってから、そっちの端へ。降りるときも荷物を先に通してね」
四人で乗り込む。足元には金属の継ぎ目があった。柵へ手を掛けると、テオも俺の隣へ来て下を覗く。
「これが上がるんだな」
「たぶん」
「乗ったことあるんじゃなかった?」
「これにはないよ」
そう答えた途端、柵の入口が閉じられた。
係の男性が上へ声をかけ、向こうから返事が来る。俺は足を開いて立ち直した。日本のエレベーターなら、こんなふうに身構えたりしなかったのに。
床が動く。
「おお」
テオの声と重なった。腹の辺りが沈むような感じがして、さっき歩いてきた通路が低くなる。
エマが柵を握り直す横で、荷車の男は袋の紐を結び直している。あの人には毎日のことなのだろう。
店の棚が低くなり、奥の卓で飯を食っている人まで見えた。俺は柵から顔を離せず、上へ着いてからも降りるのが惜しかった。
「どうだった?」
レイナが俺を見る。
「帰りも乗りたい」
「まだ着いたばっかりだよ」
笑われたが、彼女も通路へ出てから、もう一度台の方を振り返っていた。
*
上の階でもパンが焼ける匂いがした。
店先に積まれた籠を見て、エマがあれもさっきの台で運ぶんだねと言う。
「うちにもあったら、ずっと楽だっただろうな」
『運ぶのは楽だろうが、あの匂いを毎日嗅ぐのも大変だぞ』
「おっさん、それは別の大変さだろ」
伝えると、エマが笑った。
「でも、仕事が終わるまで残ってないかなって思うのは分かる」
「帰りに買うの?」
「うん。なくなっちゃってることもあるけど」
そんなことを考えながら店にいたのか。
あとで買おうとレイナが言い、俺たちは先に荷物を下ろせる宿を探すことにした。
宿の看板へ向かう途中でテオが足を止めた。
通路に面した広い部屋へ木箱が積まれている。入口の横には布や縄が吊られ、その奥に腹くらいの高さの金属の台が見えた。台は向こう側に口の開いた大きな箱へ続いていた。
「あれも何かする道具か?」
テオが指した先では、金属の台の上にも畳んだ袋が載っている。
俺も立ち止まった。箱の脇に文字があった。横山さんの帳面で見たものと同じだ。
「洗浄、って書いてある」
「こんなでかいところで、何を洗うんだろう」
エマが入口から奥を覗く。すると、箱の陰から布を抱えた男性が出てきた。
「それが気になるのかい」
「はい。昔、使ってたものですか」
「そう聞いてる。動かし方は分からないけどね。運び出すのも大変だから、そのまま置いてあるんだ」
男性は袋を一つ取り、抱えた布を詰め始めた。
洗うための機械の上で、今は袋詰めをしている。
何ができるかを考えていた俺より、今の持ち主の方がずっと使い道を分かっていた。
『あれ、中を通すようになってるな』
おっさんの声に俺は箱の口へ目を戻す。台は向こう側へも突き出していた。
「すみません。そっちから見てもいいですか」
「いいよ。積んであるものは動かさないでね」
荷物を脇へ下ろし、通れるところから箱の中を見る。向こうの口が四角く明るい。
中は空だった。水を吹きつけるようなものも、ブラシも見当たらない。
おっさんにも見えるように顔を動かしてから、俺は男性へ礼を言った。
通路へ戻ると、レイナが待っていた。
「明日行くところにもああいうの残ってるのかな」
「あるといいな。触らなくても、中を見られるだけで面白い」
首都で聞いてきた、古い建物を見せてもらえるところだ。荷物を下ろしたら場所を確かめようと話し、俺たちは宿へ向かった。
*
窓のない宿の部屋でも、壁の明かりはついた。男女で二部屋借り、荷物を下ろしてから俺たちの卓へ集まる。テオはさっそくパンを買う金を出し、エマが水差しを運んできてくれた。
俺はコップへ水を注ぎながら、さっきの箱を思い出す。
「おっさん、あれって水で洗うんじゃないのか」
『魔素で汚れを離すんだろ。お前らもやってるじゃないか』
「クリーン?」
『ああ。何を洗ってたかまでは分からんが、ああいう形のは見たことがある』
レイナへ伝えると、彼女も水を飲む手を止めた。
「じゃあ、中に入れたら勝手にきれいになるんだ」
『使うものに合わせて、先に働かせ方を決めておくんだよ。一つずつ人がやるんじゃ、あんなものを置く意味がないだろ』
「俺たちのところでは、水とか洗剤とか使って汚れを落としてたよ」
『こっちだって使ってたぞ。何にでも同じやり方でいいわけじゃない』
おっさんに初めてクリーンを見せたとき、これを魔法と呼ぶのかと言われたのを思い出す。
「そういえば、おっさんたちは魔素のこと、何て呼んでたんだ?」
『ナノマシンだよ』
俺は顔を上げた。
「……ナノマシン?」
『ああ。目に見えないくらい小さい機械だ。って言っても分からんか』
「いや、言葉は知ってる」
レイナが俺を見た。
「今、ナノマシンって言った?」
「おっさんが。魔素のこと、そう呼んでたって」
彼女の目が自分の手元へ下がる。
俺も手を開いた。何も見えない。けれど、あれでものを押し、手の汚れを落としてきた。
あれが、機械なのか。
「知ってるものなの?」
エマに聞かれ、俺は首を振りかけて止めた。
「使ってたわけじゃないよ。そういう小さなアーティファクトのようなものが出てくる話を読んだことがあるんだ」
「コータのところにもあったってこと?」
「少なくとも、こんなふうに使えるものはなかった。俺は知らない」
横からテオが覗く。
「じゃあ、何が違うんだ? 今までも使ってたんだろ」
「そうなんだけどさ」
うまく言えず、俺はもう一度手を見た。
俺は、形を変えられる不思議な力のつもりで使っていた。一つずつ、何かをするために作られたものだとは思っていない。
「おっさん。それ、先に言ってくれよ」
『言ったところで、機械って何だって話になると思ってたんだよ』
「そっちは分かるって。おっさんも、俺たちの世界の話、もっと聞いてくれよ」
『おう。そこは、悪かった』
「いや、俺もおっさんの話をもっと聞けばよかったな」
レイナが卓へ指を置いた。
「前に布をきれいにしたとき、薄い膜を間に入れるようにって考えたよね」
「うん」
「私、今もそれを伸ばそうとしてた。途中で切れないように」
俺も彼女と同じだった。薄くして、形を保つ。うまくいっても、ずっと気を張る必要があった。
『薄い一枚の膜にして、それを押し込もうとしてたのか』
おっさんが聞いた。
「そうだけど。違うのか?」
『形に気を取られるわけだ。土と布の間で働かせるところは合ってるんだがな』
その返事を伝えると、レイナは卓から手を離し、自分の袋を引き寄せた。靴を拭く布を取り出して広げる。さっきまで履いていた靴の泥がついていた。
「一回、見てもらってもいい?」
『ああ。今、どうやってるか教えてくれ』
俺は椅子を彼女の横へ寄せた。ここなら、おっさんにも手元が見える。
「パンは?」
財布を持ったままのテオが言う。
「ごめん。これだけ先に試したい」
「俺も見たいから、いいけど」
テオは財布をしまい、エマと一緒に卓へ寄ってきた。
町にはまだ見ていないものがいくらでもある。
けれど今は、この布の泥をどうやって落とすのかが気になって仕方がなかった。
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