第44話 もう一歩
エマの最初の矢は、数歩先の的まで届かなかった。
地面へ落ちたものを見てから、彼女は弓を下ろす。隣にいたリンデさんが、惜しいと言った。
「どこがですか」
俺が聞くと、リンデさんは的を指した。
「向きは合ってるし、何より飛んだ」
確かに、全然違うところへ飛んでいったわけではない。エマも笑い、もう一本と手を出した。
狩りへ行った翌朝、弓屋の裏で軽い弓と指を守る革を借りていた。リンデさんのものはほとんど引けなかったが、これなら弦が動く。袖が弦へ触れるので、外套は脱ぎ、畳んでそばへ置いてある。
「ここまで引いたら、すっと放す」
リンデさんが何も持たずに同じ動きをする。エマはその手を見てから、自分でも真似してみた。
矢が飛ぶ。
今度は的の手前まで行ったが、先ほどより右へ曲がった。
「放すときに、引いてる手が外へ逃げてるよ」
店の主人が横から声をかけた。リンデさんは、ああそれ、と手を叩く。
「同じこと言おうと思ってた」
「ちゃんと言ってやんなよ」
主人は笑い、エマにもう一度構えてもらう。腕を引いたところで止めさせ、どちらへ動いていたのかを示した。
エマは何も持たずに二度ほど試し、それから矢を受け取った。
藁の左端へ刺さる。
「当たった」
俺の隣でテオが言うと、エマが振り返った。
「見えた?」
「見えた。端っこだけど」
「端でも、当たった」
もう一度的へ顔を向ける。口元が緩んだままだった。
次も同じようにやろうとして、今度は下へ落ちる。それが悔しいようで、彼女は矢を見てから、自分の手の方を確かめた。
借りてみたら俺は四本とも外した。テオが一度当て、得意そうに俺を見た次に大きく外す。
「エマ、よく当てたな」
「一回だけだよ」
「俺、まだ一回もない」
レイナは自分で射つよりエマを見たいと言い、放す手を横から見ている。
「今度はさっきと同じくらい引けてたよ」
「うん。ちょっと、分かってきたかも」
ただ、続けるうちに、放す手がまた外へ逃げ始めた。エマは矢を受け取る前に指を握って開き、もう一度構える。主人がそれを見て、今日はそこでやめておこうと言った。
「まだできるけど」
「今のうちにやめりゃ、次も練習できる」
エマは弓へ目を落とし、名残惜しそうに渡す。
「また、これ借りられますか」
「ああ。同じの置いとくよ」
エマが外套を着直すと、リンデさんが借りた紐でその袖をまとめた。
「山では冷えるからね。次は着て引いてみよう」
エマが弓を持つ方の腕を伸ばす。今度は布がずり落ちなかった。
店を出てからも、エマは何度か指を曲げていた。まだ疲れているのかと聞くと、それもあるけど、と答える。
「あの一回、どんなふうに放したっけって」
*
午後は鍛冶屋の裏を借りた。
作りかけの小手へ腕を通し、肘の当たるところを見てもらう。その横でレイナが靴の下へ魔法を使ってみたいと言った。
「昨日、コータが押されてたでしょ。足が動かなかったら、もうちょっと受けられたのかなって」
「足を動かなくするの?」
「滑りにくくする、かな。まず板で試したい」
おっさんに教わったクリーンでは、汚れとものの間へ魔素を働かせた。同じように触れ合う面へ働かせれば、滑りやすさも変えられないかと考えたらしい。
借りた板へ手のひらを滑らせてみる。レイナが魔法を使うと、同じ力では途中で止まった。
「こっちは?」
今度は行きすぎて、慌てて肘を戻す。
「全然違うな」
「これ、靴と地面の間でもできないかな」
最初に試した庭の土では、うまくいかなかった。靴底は滑っていないようなのに、足そのものがずれる。
『下の土ごと動いてるんじゃないか』
足をどけると、靴の形に土が押し寄せていた。
「おっさんの言うとおりだ。地面ごと崩れてる」
レイナもしゃがみ込み、崩れていない石敷きの方を見た。
石敷きの端へ移り、もう一度試す。今度は踏ん張る感じがあった。それでも、テオに肩を押されると、上半身は揺れる。
レイナが笑いながらそばへ寄り、声を落とした。
「前に出るの、コータばっかりだった?」
俺は靴の方へ目を戻した。
「……今だって、支えてもらってるよ。これなら、もう一歩出られそうだ」
「うん。そのときは言ってね」
レイナの手はまだ俺の足元へ向いていた。
「ずっとやるのはまだきついかも。どこに足を置くか分かってる方がやりやすい」
レイナが手を下ろす。まだ試したかったが、続けてもう一度とは頼まなかった。
それから五日は、近場の仕事と練習を繰り返した。エマは外套の袖に留め紐を縫いつけ、俺とテオは受ける方と横へ出る方を代わりながら動いた。
「早いって。まだ受けてない」
「受けてからだと、もうこっち向いてるだろ」
「でも、それでお前の方へ来たら」
「じゃあ、どこからならいいんだよ」
待ってほしいとは言えるのに、ここからなら大丈夫だとは、すぐに答えられなかった。
レイナに相手の役を頼んだ。俺へ伸ばした手はすぐには戻せない。そこへテオが入るのを横目で見て、ようやく俺も盾を残せた。
五日目の夕方、エマが弓を持って宿へ帰ってきた。
いつもの練習用より、握るところの色が濃い。矢の入った筒も肩へ掛けていた。
「買ったの?」
俺が聞くと、エマは嬉しそうに弓を見せる。
「うん。同じくらいの強さのを選んでもらった。もうちょっと強いのもあったけど、今はこっちにする」
弓を包みかけたエマが顔を上げる。
「今度の狩り、持っていく。撃てるかはまだ分からないけど」
エマは弓を丁寧に布へ包んだ。
俺の小手も明日の朝には試せると言われている。早く着けてみたかった。
*
翌朝、鍛冶屋で小手を着けてもらった。
肩まで覆う小手は見た目より重く、腕を上げれば背中の帯も張る。何度も合わせてもらった肘は、もう皮膚を挟まなかった。
親父さんが小手の外側の細い金具を叩く。
「これにあの剣の鋼を使った」
色で分かるわけではない。刃だったところももう残っていなかった。
指を当て、肘を動かしてみる。
「ありがとうございます」
親父さんが開けた戸から裏へ出て、盾を構える。まずは空の容器で踏み込み、盾を戻した。肘の出っ張りが仲間に当たらないか、エマにも見てもらう。
力を蓄えた容器へ替えると、急に盾が重くなったような気がした。
重さは同じだ。
肩を引かれたときのことを、体の方が覚えている。
『少なくしてある。まず、今やった動きでやってみろ』
俺はおっさんの言葉を聞き、足を前後に開いた。正面には厚い詰め物を当てた木がある。左右も後ろも空けてもらっている。
盾を出し、踏み込む。
留めへ魔素を通した。
肘を押された。
肩が持っていかれる前に、自分の足が前へ出る。盾の面が詰め物へぶつかり、鈍い音がした。背中の帯が張って、息が漏れる。
止まったときも、両足は地面についていた。
『おお、いけたぞ』
おっさんの声が弾む。俺は盾を下ろした。
腕は重いが、肩は痛くない。レイナへそう言い、俺は小手を着けたまま肘を曲げてみた。
テオが詰め物を見に行った。凹んだところを押し、自分の拳を当ててから振り返る。
「これ、横から来たら嫌だな」
「そうしたいんだよ」
笑おうとしたら、先に息が出た。力を入れすぎていたらしい。
親父さんに留め具を見てもらい、その日は庭での試し打ちだけにした。
翌朝、リンデさんと合流して山裾へ向かった。休みながら空気を詰め直してある。今日は一度試したら戻るつもりだ。
平たい岩のあるところを選ぶ。エマは外套の袖を自分で縫いつけた紐で留め、弓を持って俺たちの後ろへ回った。
*
赤腹トカゲが草から出てきた。
俺が盾で噛みつきを流すと、テオが横へ入る。この前と違い、俺もその一歩を待っていられた。
大剣を追ってトカゲの頭が向いた隙に、俺は盾を構え直す。
前のときも、この時間はあったのだろうか。
エマの最初の矢が腹の下を通り、地面へ刺さった。
外れても取りには来ない。次を抜き、俺たちがどくのを待っている。レイナの風が踏み出しかけた前脚へ当たり、トカゲが止まった。
「コータ、今のところなら、足いける」
この地面なら踏ん張れるが、このまま押せばテオの方へ向けてしまう。
まだだ。
「テオ、もうちょい右。押すから」
テオが俺を見て、一歩離れる。
その動きを追って、トカゲが顔を向けた。
俺は踏み込んだ。
「レイナ、足!」
「やっちゃって!」
靴底が岩を捉えたところで、俺は盾を胴へ当て、留めを外した。
肘から前へ押される。
背中の帯が張った。盾の向こうで鱗が擦れ、低い胴がずれる。俺の左脚も曲がる。足が滑らない分、膝と腰で重さを受けた。
動いた。
トカゲの前脚が思っていたところと違う場所へ落ちる。顔が下がり、テオの前に首の横が出た。
テオが大剣を動かした。
低い音がして、刃が入る。
俺は盾を戻そうとした。
戻らない。
体が前へ出すぎている。足を引きたいのに、小手の重さで肩も前へ傾いていた。
『肘をたため。腕だけ引くな』
盾を体へ寄せる。レイナが魔法を解いたと声をかけ、俺は一歩後ろへ下がった。
トカゲの尾が持ち上がる。
「まだ振る!」
エマが言う。俺は盾を下げず、テオも刃を抜いて離れた。
尾が地面を叩く。トカゲは踏ん張り直そうとしたが、脚が曲がり、腹が落ちた。首を起こそうとしているものの、胴は動かない。
「もう一回、撃つ!」
俺は盾を上げたまま半歩横へずれ、エマの前を空けた。テオも反対側へ離れている。今度は当たってほしい。地面についた胴は、練習の的より近くにあった。
飛んできた矢が胴の後ろ寄りへ刺さる。
トカゲが頭を上げ、口を開いた。
テオが俺を見る。
「入れる?」
「うん。今度は俺が行く」
動かなくなる前に近づきすぎたくはない。顔と尾を見て、相手が息を吐いたところへ踏み込む。
新しい剣が顎の下へ届いた。
*
終わってから、俺は盾を地面へ置いた。
腕がだるい。肩を回しても、前のような鋭い痛みはないが、これでもう一匹とは思えなかった。
容器の中も空だ。
「押せたな」
テオはそう言ったが、俺は盾を戻せなかったところを思い出していた。レイナへ顔を向ける。
「使ったあとも言うよ。足を戻すって」
「うん。解除していいのか、迷った」
レイナが俺の隣へしゃがむ。彼女も魔法を続けるのは今日はやめておくという。
エマが地面に刺さった矢を抜いていた。一本目は先を曲げてしまい、リンデさんに見せると、直せるか店で聞こうと言われる。
「二本目は当たったね」
レイナの言葉にエマが顔を上げた。
「うん。狙ってたところとは違うけど。止まってくれたから、よく見えた」
エマは矢を拭いて筒へ戻す。嬉しそうだったが、練習の的へ当てたときほどはしゃいではいなかった。
俺もそうだった。
あのイノシシなら、今日と同じだけ動いただろうか。押せたあと、俺は立っていられただろうか。
「戻ったら、親父さんにも話さないとな」
俺は小手の帯を緩めた。エマが端を持ってくれ、レイナも肩の留め具を外す。
「盾も持つよ」
「ありがとう。ちょっと休んだら、自分で持てる」
テオが盾を拾い、俺の空いた手へ水袋を渡した。
*
夕方、小手を見た親父さんは肩の下に擦れを見つけた。明日はそこに当てる布と、肘の戻り方を直してもらう。
宿へ向かう途中、テオが前を指す。
「今日もあそこ寄る?」
串を揚げていた店だ。今は衣をつけたものが盆に並び、ちょうど油へ入れようとしていた。
『寄ろう』
「俺も寄りたいけど、先に風呂かな」
答えると、レイナが俺の腕を見た。
「二人とも、今日は熱い部屋で勝負しないでね」
「勝負してないって」
テオと声が重なった。
エマが笑い、リンデさんまで、揃って言うんだねと俺たちを見る。
今日は本当に勝負する気にはなれなかった。
湯へ入って、腕を休ませて、飯を食いたい。
そのあと、元気が残っていたら。
「テオ、夜、モリスやる?」
「やる。今日は負けた方が駒を片づけろよ」
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