第43話 一歩分
赤腹トカゲは、腹を見せてくれなかった。
岩の上へ平たく伏せ、顎までつけている。背中は赤茶色で、離れて見たときには、乾いた土が積もっているのかと思った。
「あれ。起きると、下が赤いんだよ」
リンデさんが小声で言う。
フォルネへ着いて三日目の朝だった。町を出て山裾へ来ると、道を外れた斜面のあちこちに岩が露出している。湯気が出ているところへ近づくなと、歩き始める前に教わった。
赤腹トカゲの皮はこの町でいい値がつく。今日はリンデさんの依頼へ同行し、俺たちが狩った分を分けて持ち帰ることになっていた。
エマが両手で外套の留め具を外す。ふと、剣を持ったまま片手で外していたハロルドさんを思い出す。畳んだ外套が荷物の上へ載る。俺も袋を下ろし、腰の剣の握りを確かめる。
町を出る前に四人で動きを見てもらった。新しい剣も盾も、まだ昨日買ったばかりだ。
「尻尾、長いな」
テオが呟く。胴から伸びる尾は途中から岩の裏へ落ちていて、先が見えなかった。
「振られると足を払われるよ。頭ばっかり追わないようにね」
リンデさんは背中の弓を下ろした。俺たちが入る場所と、その横の開けたところを見てから、一歩離れる。
「下がるなら、今来た道。私はこっちで見てる」
岩のすぐ脇まで追い込まれたくはない。俺たちは下の平らなところへ回り、俺が左、テオが右、と声をかけ合って位置を取った。レイナとエマは後ろだ。
トカゲが顔を上げる。
立ち上がると、脚の間に橙色の腹が見えた。胴の幅は俺の盾よりずっと広い。頭から尾までを一度に見ようとしたところで、そいつは岩から降りてきた。
*
最初の噛みつきは盾で止められた。
首が前へ伸び、開いた口の中に細かい歯が見える。盾を斜めにして弾くと、顔が俺の左へ流れた。
剣を出そうとして、足元で何かが動く。
「尾!」
エマの声で脚を引いた。太い尾が土を擦り、さっきまで立っていたところを通る。もう顔が戻っていた。
盾を上げ直す。
重い。
受けた腕ごと押され、俺は後ろへ一歩下がった。テオが横から剣を出しかけると、トカゲはそちらへ顔を振る。テオも刃を引いて下がった。
「コータ、もうちょい左」
「分かってる」
横へ足を出した途端、また口が来た。
盾で受ける。後ろへ下がる。その間にテオが動くはずだったが、俺が下がった分だけ、向こうも位置を変えていた。
「風、使う。二人とも離れて」
レイナの声でテオが右へ退く。
風は顔の横へ当たった。トカゲの頭が揺れたものの、低い胴は動かない。四本の脚が土を掴み、すぐにこちらを向き直る。
また盾を出した。
剣が使えない。
相手の攻撃を止めてから振ろうとしているのに、戻ってくる方が早かった。
『二人とも、また同じ方へ下がってるぞ』
「後ろ、段になってる!」
エマが言った。俺は一瞬だけ足元を見る。さっき降りた石の縁が踵のすぐ後ろだった。
すぐ右にテオがいる。横から斬ってもらうつもりだったのに、まだ二人とも口が届くところだ。俺がこれ以上下がれば、後ろのレイナとエマまで下がらせる。
横へ逃げたい。その一歩を出そうとするたびに、また歯が迫ってくる。
一回、ここで受けるしかないのか。
「テオ、そっち空いてるよ。もう一歩、ぐっと!」
リンデさんの声がした。
そっちってどっちだ。顔を向ける余裕はなかったが、テオは「ああ」と返していた。
「コータ、今度は俺が横へ行く。下がらないで一回、頼む」
トカゲが首を縮めた。
俺は盾を上げる。正面で全部受けるのではなく、口を外へ滑らせるつもりで構えた。
来た。
腕が押される。踵へ力がかかる。それでも、後ろへ足を出すのはこらえた。
テオが右へ踏み込む。
大剣の先が前脚の付け根へ届き、トカゲが体をよじった。頭がテオへ向く。その分俺の盾から重さが抜ける。
そこへ剣を出した。
刃が首の脇を滑り、硬いところに弾かれる。浅い。それでもトカゲはもう一度俺へ向き直った。
「テオ、尾が来る!」
レイナに言われ、テオが足を上げて下がる。完全には避けきれず、靴の横へ先が当たったが、倒れずに踏み直した。
俺も岩から離れた。さっきまで出せなかった足が、今は出せる。
『今なら、右側が空いてる』
顔を動かすと、レイナが見えた。
「レイナ、こっちから撃てる?」
「撃てる。エマ、もう少し後ろへ」
エマが離れるのを待ち、レイナが手を出す。
風がテオを追おうとしたトカゲの横腹へ当たった。持ち上がりかけていた前脚が地面へ戻る。体を支えようとしたせいで、顔が止まった。
「もう一回、行く」
テオの大剣が低い音を立てる。
前脚の付け根へ刃を押し当てた途端、トカゲの胴が傾いた。テオはすぐに音を止め、重さで刃を持っていかれないよう引き戻す。
俺は反対側へ回り、上がった顎の下へ剣を入れた。
尾が暴れる。
「離れて!」
レイナの声で剣を抜き、全員で距離を取った。
土が跳ね、乾いた草が倒れる。俺は盾を構えたまま、動きが止まるまで見ていた。
*
「足、どうだ」
テオに聞くと、靴を回してみせた。
「平気。ちょっと当たっただけ」
「頭は?」
「そっちも。今のくらいなら、大丈夫だった」
起動した大剣で初めて魔物を切ったのに、テオはまだ倒れたトカゲを見ている。俺も腕を下ろした途端、だるさがまとめて来た。剣で斬った回数より盾を押された回数の方が多い。
リンデさんが近づいてくる。
「最後の、よかったじゃん。さっきまで、二人とも頭の前にいたからさ」
「横に行きたかったんですけど、そっち向かれると」
「向くよ。切られたくないからね」
それはそうだ。
「でもコータが受けてるとき、テオの方には噛めないでしょ。そこ。こう、すっと入っちゃえば」
リンデさんは指を二本立て、一方を前へ、もう一方を横へ動かした。
すっと行ければ、あんなに困っていない。
『一度に両方へは向けんからな。お前に噛みついたあとでテオへ向き直す、その間を使えってことじゃないか』
受け終えてから、では遅いのか。俺は二人の立っていた場所を見た。今なら、よく見える。
「俺が受けてる間に、テオは横へ出る。そっちを向いたら、今度は俺が動くってことですか」
「そうそう。あんたたち、ちゃんと間に合ってたよ」
間に合っていたのか。俺はずっと、次が来ると思っていた。
「私も、岩のこと先に言えばよかった」
エマが地面を振り返った。
「俺、後ろ見られなかったから。言ってもらえて助かったよ」
リンデさんが口を開きかけ、坂の上へ目を向けた。
「あ、次いる」
離れた岩陰から赤茶色の頭が出ていた。同じくらいの大きさのやつだ。俺が盾を上げ直そうとすると、リンデさんは手でそのままと示す。
弓へ矢をつがえた。
俺たちには背を向けず、坂に沿って数歩移る。トカゲも顔を動かした。立ち上がって下へ降りようとしたところで、矢が飛ぶ。
顎の下へ刺さった。
トカゲが体を起こしたときには、二本目がもう放たれていた。次は前脚の内側。着地を崩した胴が坂の途中で止まる。
リンデさんは距離を保って回り、最後の一本を射た。
俺たちが四人で動き回っていた時間より、ずっと短かった。
「……そこ、当たるんですね」
テオが言うと、リンデさんは弓を下げた。
「見えてるときならね」
見えていたら当たる、という話ではないと思う。
隣のエマはまだ弓を見ていた。
「私、さっきあそこ見えてた」
「前脚の裏?」
「うん。でも、ここからだと何もできなくて」
リンデさんはエマの手を見た。
「弓、触ってみる?」
エマが顔を上げる。
「引けるかな」
「私のはきついかもね。町で軽いの借りようか」
エマはもう一度、坂の上のトカゲへ目を向けた。
「……やってみたい」
さっきまでなら届かなかったところへ、矢が刺さっている。
俺も新しい剣の握りを見た。持ちやすくなっただけで、どこからでも斬れるようになったわけではなかった。
次はあんなに盾の後ろへ隠れていたくない。
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