第32話 まつ毛
脱いだ靴を揃えても、次に何を言うかは決まらなかった。
レイナは机の前に座っている。俺は寝台の端だ。いつもなら、これくらい離れたところからでも何でも話せる。今は、彼女が目元へ指を当てるたび、さっきの言葉を思い出してしまう。
まつ毛が濡れていた。
「……まつ毛」
レイナが顔を上げる。
「何?」
「長いんだなって、告白したとき思った」
彼女は俺を見たまま止まった。
何から話そうとしているんだろう。自分でも変だとは思う。でも、それはレイナにも伝えておきたかった。
「あのとき、好きだって言ったあと、黙っただろ。こっち見て」
「……びっくりしたから」
「うん。俺、待ってる間、レイナの顔ずっと見てて。まつ毛も、目も、口開いてるのも、かわいいなって」
言いながら、耳が熱くなる。
「それで急に怖くなった。付き合えないって言われたらどうしようって」
「そんなこと考えてたの」
「考えてたよ。いいよって言われたあとも、しばらく何言っていいか分かんなかった」
レイナが膝へ目を落とした。
「私、知らなかった」
「言ってなかったから」
「ずっと隣にいたし、レイナだから好きだったんだよ。今さら、顔がどうとか考えることもなくて。でもあのとき、ちゃんと見たら、かわいくてさ」
「今までは?」
「いや、今までも。そうじゃなくて」
うまく言えず、顔を伏せた。
彼女の方から鼻をすする音がする。
「……何となく分かるよ」
顔を上げると、レイナはこちらを見ていた。まだ目は赤い。けれど、俺が言葉を探しているのを待ってくれている。
「俺も、何とも思ってないわけじゃないんだ。今も、顔見て話すの、結構きつい」
「怒ってるから?」
「泣かせたから」
彼女の目が伏せられる。
先に謝らなければならなかった。
「前に出るのが俺ばっかりとか、人に話しかけるのがどうとか。あれ、ごめん。思ってない」
「……うん」
「俺もやってるって言い返したくなって、何でも持ち出した。レイナが何もしてないなんて、思ってないよ」
膝の上で手を開く。
「あのとき助けたことを、嫌だったと思ったこともない。レイナのせいだなんて思ってない」
今度は、聞こえたと分かるまで顔を見ていた。
レイナがゆっくり頷く。それから椅子を離れ、俺の隣へ座った。
「私も、ごめん。おじさんのこと、あんなふうには思ってない」
「うん」
「コータが喋ってると、何話してるんだろうって思うことはあるけど。そればっかりなんて思ってないよ。二人が楽しそうだと、私も聞きたいし」
レイナはこちらへ体を向けた。
「おじさんにも、ごめんなさいって。伝えてくれる?」
『聞こえてる。言っちゃうこともある。気にしてないよ』
言われたとおりに伝えると、レイナは息を吐いた。
「言っちゃったあと、自分でも違うのにって思った」
「俺も」
二人で黙る。
同じことをしたから、それで済むわけではない。さっき俺が言った言葉は、まだ自分の耳にも残っている。
「怖かったって、言ってくれてありがとう」
俺が言うと、レイナは首を振った。
「もっと普通に言いたかった。怒って、あんなにいっぱい言いたくなかった」
「うん。でも、聞けてよかった。平気だって言えば、安心してくれると思ってたから」
「平気なときは、それでいいよ。ただ、本当に?」
彼女の目が俺の左腕へ落ちる。
「今は、痛くない。今日も大丈夫だった」
「ならいいの。痛いとか、頭が重いとかは、言ってね」
「分かった。レイナも」
彼女は頷いた。それから、机に開いたままのメモ帳を見る。
「帰る話もさ。私、何で書いてるのかまで話してなかったね」
*
レイナがメモ帳を持って戻り、二人の間へ置いた。
関さんの話を聞いた日のページだ。訪ねたという町の名前の横に、線を引いて消したところがある。読めなかった地名をあとで直したのだという。
「無駄にしたくなかったの。関さんが探して見つからなかったところも、覚えておけば、同じことを一からやらなくて済むかもしれないから」
「うん」
「でも、十五年って聞いたら、次の人に会えば帰れるなんて思えなくなって」
俺も、その言葉を聞いていた。
「どこまで行けばいいんだろうって、思った」
「俺も」
今度の返事はすぐに出た。
「関さんは、家族に会うためにあんなに探してたんだろ。俺は帰れるもんだと思ってた。遠くに来ちゃったから、帰り道を探そうって、それくらいで」
隣のレイナを見る。
「レイナもいるし。こっちでも一緒に飯食って、仕事して。だから、ずっと帰れないかもって、本気で考えてなかった」
「うん」
「あの日、母さんに最後に電話したのいつだっけって考えた。何話したかも、よく覚えてなくてさ」
何か買ってきてほしいと言われたのは、その前だったかもしれない。帰れる日に持っていくと答えた気はするが、それさえ曖昧だった。
「おばさん、心配してるだろうね」
「してると思う。飯食ってるかって、そればっかり聞く人なのに、こんなに返事なかったら」
レイナがメモ帳の端へ手を置く。
「うちも、私がどこにいるか分かんないの、嫌だと思う。旅行のときは泊まるところ送ってたから」
「送ってたな。出る前に決めたやつ」
「そう。あれ、今も送りたい」
俺は部屋を見回した。
机と椅子、寝台。窓の外には知らない町があって、下へ行けば飯が食える。怪我は治って、今日も笑って帰ってきた。
その程度のことを、向こうへ伝える方法がない。
「生きてるって、言いたいよな」
「うん。それだけでも、言いたい」
レイナが俺の方を見る。
「だから、私も帰りたい気持ちはあるよ。さっき、コータのためだけみたいに言っちゃったけど。お母さんたちにも会いたいし」
「うん」
「仕事も、急に行かなくなってるしね」
「俺もだ。休む連絡すらしてない」
「昨日の分だけ片づけて帰ろうって思ってたのに、次の日から行かない人になっちゃった」
彼女が困ったように笑った。俺も、最後に職場を出たときのことを思い出す。
また次の出勤日に来る。それ以上のことは考えなかった。
「友達からも、連絡来てるのかな」
「来てると思うよ。私のところにも、コータ知らないって来てるかもしれない」
「逆もあるだろうな」
レイナが俺の手へ指を重ねた。
「コータが一緒でよかったとは思ってるよ。でも、二人いるから平気ってわけでもないんだね」
「……うん。俺も、そこがまだ、うまく考えられない」
隣にいてくれることは嬉しい。それで何もかも足りているのかと聞かれたら、今は答えられなかった。
「レイナは、どうしたい?」
「紹介してもらった人には、会いたい。どんなことを調べてるのか聞いてみたい。それから先は、まだ分かんない」
「俺も会いたいよ。行くまでに、できるだけ練習はしておきたいけど」
「私も。練習するの、やめてほしかったわけじゃないから」
そこで、さっきのやり取りを思い出してしまう。
「分かった。明日、関さんに何を聞くか、一緒に考えよう」
「うん。決まってなくても話してよ。私も話すから」
レイナの手を握り返した。
「そうする」
灯りの油が減ってきていた。レイナがメモ帳を閉じる。それでも、すぐには手を離さなかった。
しばらくして手を離し、俺は靴を履いた。下へ戻る頃には、テオとエマは次の勝負を始めていた。二人が終えるまで待ち、四人で階段を上がった。
*
翌朝、顔を洗って戻ると、レイナはエマと食堂の端で話していた。
昨日泣かせたことを思い出して足が鈍る。レイナが俺を見つけ、隣の椅子を引いてくれたので、そこへ座った。
「おはよう」
「おはよう。眠れた?」
「うん。レイナは?」
「寝たよ。朝、ご飯食べたら、関さんのところ行こう」
普通の声だった。俺も返事をして、出されたパンを取る。
エマが二人を見比べた。
「もう、大丈夫なんだね」
手が止まる。
「何が?」
「喧嘩したって、さっきレイナさんから聞いたから」
レイナが隣で、私が話したの、と言った。
「でも、昨日のうちにちゃんと話したよ」
「そっか。よかった」
エマはそれ以上聞かず、俺の方へ水差しを寄せてくれた。
食べ終わる頃にテオもやってきた。昨日より軽い足取りで、空いていた椅子へ大剣を立てかける。
「おはよう。昨日の木、もう片づけちゃったかな」
「またもらう前に、今日は関さんに話を聞きたい」
俺が言うと、レイナも身を乗り出した。
「次の旅のこと。テオも、一緒に聞いてくれる?」
「いいよ。食ったら行く」
レイナはメモ帳を取りに部屋へ戻った。俺も椅子を引きかけると、エマに袖を引かれる。
「コータさん。仲直りしたなら、デート誘いなよ」
「デート?」
「うん。コータさんから、ちゃんと」
テオがパンを齧りながら顔を上げた。俺はエマへ向き直る。
「……また、二人で?」
「二人で。デートに行こうって誘うんだよ」
出かけるだけなら何度も誘ってきた。でも、そういう言い方をしたことはなかった。
『あとは自分で考えろよ』
おっさんに先回りされる。
「分かってるって」
「私、まだ何も言ってないけど」
エマに聞き返され、おっさんだよと答えた。
階段から足音がする。メモ帳を持って戻ってきたレイナが立ったままの俺を見て足を緩めた。
「何?」
「明日、仕事を休みにして、二人で出かけないか」
一度息を吸う。
「デートに」
レイナは俺を見た。それから、腕の中のメモ帳を抱え直す。
「うん。行きたい」
隣でエマが何も言わずに笑っていた。
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