第22話 二万年
翌朝、エマは俺たちの顔を見るなり笑った。
「おはよう。今日は三人で出かけてもいい?」
「昨日も誘っただろ」
「そうだけど。邪魔しちゃ悪いかなって」
「じゃあ、おっさんにも出てってもらわないと」
『俺はどこへ行きゃいいんだ』
そのまま伝えると、エマは肩を揺らした。レイナも笑いながら、俺の前へパンの籠を寄せてくれる。
昨日、あれだけ緊張したのが嘘みたいだ。向かいでパンを選んでいるのは、いつものレイナである。俺が見ているのに気づくと、一つ持ち上げてみせた。
「これ欲しかった?」
「いや。取っていいよ」
そっちを見ていたわけではない。言うのも恥ずかしいので、俺は別のパンに手を伸ばした。
今日は広場の露店へ行くことにした。帰るまでに、マルタさんへの土産も探しておきたい。菓子なら日持ちするものがいいとエマが言い、レイナは昨日食べたものの中から考え始める。
『あの薄い生地のやつがいいな』
「あれ、持って歩いたら崩れるだろ」
『じゃあ、持って帰るのは別にして』
「自分が食いたいだけじゃないか」
昨日も食べただろうと返すと、昨日うまかったから言っているんだと答えられた。それもそうなのだが、全部聞いていたら朝飯のあとにもう一食必要になる。
*
広場には昨日より店が増えていた。
布を敷いて品物を並べただけのところもあれば、荷車の板を広げて台にしているところもある。干した果物、帯、刃の欠けた鉈。何を売っているのか、近くまで行かないと分からない店も多い。
レイナとエマが布の色を見比べている間、俺は隣に並んだ金物を眺めた。錠前らしいものの横に平たい箱がある。握れば手の中に収まるくらいで、表面の一部だけが黒かった。
そこに数字が出ている。
631847205316。
何の数だろう。指を伸ばしかけたところで、最後の六が七に変わった。次に八。その次は九になり、隣の桁も動く。
「これ、動いてる」
「ああ、そいつか」
店の男が顔を上げた。
「遺跡から出たやつだよ。手に取っていいぞ」
持ち上げてみると、厚みのわりに軽い。ひっくり返しても中で何か転がる音はせず、黒い面の数字だけが増え続けている。
「時計ですか?」
「時計にしては数が多すぎるだろ。一つずつ増えるのは分かるんだがな」
『ちょっと待て。それ、正面を向けてくれ』
黒い面をこちらへ向けると、おっさんの声が弾んだ。
『ああ、やっぱりそうだ』
知っているものらしい。俺はレイナたちを呼び、店の男には連れと相談したいと伝えた。
「何、見つけたの?」
「おっさんが知ってる道具みたいなんだ。ちょっと聞いてみる」
レイナが俺の手元を覗き込む。エマも布を戻してやってきた。
『これは時刻を知るための時計じゃない。何かを始めてから、どれくらい経ったかを数えるんだ。たとえば、ここからあそこまで走るのにかかった時間を――』
「ストップウォッチ?」
『……そっちにもあるのか』
「あるよ。学校でも使ってた」
『そうか。だったら話が早い』
最初からそう言ってくれればよかったのに。レイナにもストップウォッチだと伝えた。
「でも、どこで止めるの?」
『そいつは、動かし始めたら数え続ける型だ。止めて記録を読む使い方じゃない』
「ずっと回しっぱなしにするって。何に使うんだ、これ」
『設備を動かしてから何時間になるか調べたりな。人が見てない間も数えていてほしいことはあるだろ』
持ち主が取りに来ることもなく、ここへ売られてからも働いていたわけか。店の男も、最初は何か起こるかと思って見ていたが、いくら待っても数が増えるだけだったと笑う。
「使い方、分かったのかい」
「時間を数えるものみたいです」
「それなら、煮物のときにでも使えるかね」
「最初の数字を覚えないといけないですけど」
「面倒だな、それ」
値段を聞くと、土産の菓子よりは高かった。それでも、一晩の宿代を使うほどではない。おっさんが知っている道具を、俺ももう少し見てみたくなった。
『裏に何か書いてないか』
ひっくり返す。底には擦れた文字があり、その下に小さく数字が刻まれている。
「書いてあるけど、ここ、削れてるな」
指でこすっても変わらない。汚れではなく、表面そのものが傷ついていた。
計測開始。統一暦。
続く年は、四と一までは読める。そのあとの二文字は、深い擦り傷に重なっていた。
『……もう少し光に向けろ』
言われたとおり傾ける。レイナが俺の肩越しに見た。
「下の二桁、読めないね」
「うん。おっさん、これ知ってる暦か?」
『知ってる。四千百何年、だな』
「その頃にもいたの?」
『俺が覚えてるのも、そのあたりだ』
店の男に代金を渡し、箱を受け取った。薄い布へ包んでくれたので、ほかの金物と擦れないようバッグの内側へしまう。
俺もレイナも、この町の地名を知っているだけで嬉しかった。おっさんなら、自分がいた頃のものを見つけたのだから、もっとそうなのかもしれない。
「よかったな。持って帰ったらゆっくり見よう」
『ああ。……頼む』
俺たちは店を離れた。エマが向こうに日持ちする菓子があると教えてくれたが、おっさんは今度、そちらへ口を出さなかった。
*
宿へ戻り、三人で俺の部屋に入った。
買ってきた土産を寝台の端に置き、小さな机を囲む。椅子は一つしかないのでレイナに座ってもらい、俺とエマは寝台へ腰を掛けた。
布を開くと、数字はまだ増えている。
「これ、何秒だよ」
「桁、数えた?」
「途中で分からなくなった」
レイナがメモ帳を開き、動いている数字を書き写してくれた。最後の桁まで正確に追おうとしていたが、おっさんが大きい方さえ合っていればいいと言う。
『一日で八万六千四百だ。一年を大まかに三百六十五日として、割ってみてくれ』
「一日、二十四時間?」
『そうだ。一時間は三千六百』
「そこは俺たちと一緒なんだな」
口にしてから、紙へ目を戻す。エマは横から桁を数えていた。
「六千三百十八億……これ、お金だったら読めなくなるね」
「秒でも十分読めないよ」
俺は別の行に一年分を計算して書いた。三千百五十三万六千。レイナが掛け直し、同じ数字になるのを確かめる。
スマホが使えれば電卓で一瞬なのに、と思った。リンダムに預けた荷物の中だ。電池を惜しんで使わないうちに、持って歩くものからも外れてしまった。
「こっちで割るんだよな」
『ああ』
俺はペンを持ち直した。数字を並べて引き、次の桁を下ろす。こういう計算を紙でやるのは何年ぶりだろう。
一つ目の数字を書いたところで、レイナが紙を押さえた。
「コータ。そこ、一つ左じゃない?」
「え?」
見直した。確かにそうだ。書いた二を消し、左へずらす。
そのあとには、零が二つ並ぶ。
手が止まった。
「……二万?」
まだ下の桁が残っている。けれど、もうそこを計算する気になれない。
「年、だよね」
レイナに聞かれ、俺は一年分の数字を指で辿った。途中で掛けるのを忘れたのか。秒を日へ変えるところを間違えたのか。
もう一度、最初から確かめる。
三千百五十三万六千。それを二万倍すれば、六千三百七億二千万。箱の数は、それよりまだ多かった。
『合ってる』
おっさんの声がした。
『俺も、同じになった』
エマが俺の手から紙へ目を移す。
「この道具、二万年も動いてたってこと?」
「……そう、みたいだ」
裏返して、あの暦を見た。四千百何年。読めない二文字を零にしたところで、おっさんの知っている時代と大きく離れるわけではない。
その頃から、二万年。
「途中で止まってたとかは?」
『止まっていたなら、その分は数えてない。実際には、もっと前になるな』
そうだ。数字が増えるのをやめた時間があっても、短くはならない。
俺は箱を机へ戻した。指を離しても、何も変わらず最後の桁が動いている。
「おっさん」
『ああ』
「そんなに経ってるとは、思ってなかったよな」
『思うかよ』
いつもの言い方だった。そのあとに続くものはなかった。
レイナもエマも黙っている。何か言っているかと聞かれたら答えられるが、二人も今は聞こうとしない。
俺はこの部屋に来て、まだ何日も経っていない。リンダムへ戻ればいつもの宿があり、マルタさんもいる。そのつもりで土産を買ってきた。
おっさんが帰ろうと思う場所は。
言葉にできず、机の端へ置いてあった地図を見る。サディウスは載っていなかった。あのときは、違う国の地図を見れば分かるかもしれないと思っていた。
『コータ、もう包んでいいぞ』
「……うん」
布をかぶせると、ようやく数字が見えなくなった。
*
夕飯の皿には焼いた肉と煮たリンゴが添えられていた。
焼いた肉にもリンゴが合うのかと思ったが、ひと口で気にならなくなる。脂の多いところへ酸味が混ざって、パンも欲しくなった。
「これ、昨日のと違うね」
レイナが肉を切りながら言う。エマは宿の人を呼び、土産に買った干しリンゴでもできるのかと尋ねた。先に水へつけて戻せば使えると教わり、ありがとうと返している。
おっさんが何か言うかと思って待った。
肉をもう一切れ口へ入れても、声はしない。
「……おっさん、どうだ?」
『ああ。味は分かる』
聞こえなくなったわけではない。俺は手元のパンをちぎった。
『悪いな。今は、うまいとか言える気がしなくて』
「謝ることじゃないだろ」
レイナが俺を見る。俺が首を振ると、続きを尋ねず、水差しをこちらへ寄せてくれた。
今朝は食べすぎるなと言っていたのに、黙られたら何か言ってほしくなる。勝手なものだ。
俺は水を注ぎ、残りの肉を食べた。向かいではエマが、マルタさんなら何と合わせるだろうとレイナに話している。
食べ終えるまで、俺はもうおっさんを呼ばなかった。
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