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第20話 折れた木

「小屋の方へ下がろう。走るのは、まだ待って」


 俺はイノシシを見たまま言った。背後で二人が動き始める。小屋までは木の間の通路を戻ればいい。依頼主に知らせて、もっと人を呼んでもらわなければ。


 イノシシの耳が動いた。

 リンゴを噛んでいた口が止まり、頭が下がる。

 次の瞬間には土を蹴っていた。


「避けろ!」


 俺は左の木の列へ飛び込んだ。レイナがエマの腕を引いて反対へ動く。その間を太い胴が通り抜け、すぐそばで牙が白く光った。

 盾を出す気にもなれなかった。あんなものを受けたら、そのまま踏み潰される。

 イノシシは数歩先で土を掻き、小屋へ続く道を塞ぐように止まった。そこで向きを変え、俺たちを見直す。


「二人とも!」

「いる! こっちは大丈夫!」


 レイナは通路を挟んだ反対側にいた。エマもその後ろからこちらを見ている。

 走って小屋へ向かっていたら、背中にあれが来ていた。今さら膝が震えそうになるが、止まっていれば安全というわけでもない。


 鼻先が俺へ向いた。


『その木を挟め。正面を空けるな』


 すぐ右にあった幹へ寄り、イノシシとの間へ入れる。両腕を回せば抱えられそうな太さだ。枝が低く張り出しているが、横へ抜ける隙間はある。


 相手が動く。

 俺は幹の後ろへ体を寄せ、通り過ぎたら反対へ回ろうとした。


 鈍い音が響いた。

 頭の上の枝が大きく揺れ、リンゴが肩へ落ちてくる。幹の低いところに白い裂け目が走った。ばきばきと音を立てて、木が俺の方へ傾く。


「うわっ」


 かがんで枝の下を抜けた。すねに何かが当たり、地面へ片手をつく。振り返ると、さっきまで隠れていた幹が途中で折れていた。


 畑の木が。


 倒れた枝が地面へ広がり、ついていた実が土へ叩きつけられる。赤い皮が裂け、中の白いところが見えた。


『来るぞ、立て!』


 イノシシが頭を振り、折れた枝を押し退けた。俺は立ち上がって剣を構える。木が倒れたところを見ている余裕はない。


 横から風が当たった。

 背中の毛が逆立ち、顔がレイナの方へ動く。それでも胴はほとんど動かなかった。さっきのウェアドッグなら、あれで脚がずれていたのに。


「押せない!」

「今のうち、こっちへ!」


 俺が倒れた枝から離れると、レイナとエマが通路を渡ってきた。イノシシは頭に絡んだ細い枝を振り払い、またこちらへ向く。

 全員が同じ側へ戻れた。それだけでもましだ。俺は二人の位置を確かめ、折れた木から距離を取る。


「木のないところへ出られないか」


 列の端に、籠を運ぶためらしい空いた道があった。そこから回れば、小屋へ近づけるかもしれない。

 レイナがそちらを見て、エマを先に歩かせる。俺も剣を向けたまま下がった。


 イノシシが枝を踏み越えた。

 間に木がなくなる。

 頭が下がったのを見て、俺は先に横へ動いた。狙われた場所から外れたつもりだったが、相手も走り出す前に向きを変える。顔が俺を追ってきた。


 間に合わない。


 レイナが放った風が鼻先へ当たり、頭が外へ振れた。俺は体をひねって脇へ逃げる。牙は避けられたが、肩が盾の端を擦った。

 左腕を引っ張られ、足がもつれる。地面へ膝をつきながらも剣を離さずに済んだが、腕の奥が痺れていた。


 背後で乾いた音が続いた。振り向くと、行き過ぎたイノシシが木の列へ突っ込んでいる。列の端にあった細い木が立て続けに倒れ、枝が重なった。そいつはその上を踏み、土を掻いて向きを変えた。


 あれを、もう一度やるのか。


「コータ、立てる?」

「立てる。エマ、そっちから離れないで」


 剣を杖にするわけにもいかず、左手で膝を押して立った。イノシシはもうこちらを向いていて、小屋まではまだ遠い。


 木のないところでは、俺たちよりあいつの方が速い。


     *


『木に当たったときは、止まったな』


 おっさんの声がした。


「折れたけど」

『ああ。……だが、あれを体で止めるのは無理だ』


 前方にはまだ実のついた木が並んでいる。どれも同じ畑の木だ。昨日食べた煮込みや焼きリンゴも、こういうところから採ってきたのだろう。


 イノシシの鼻が上がる。俺は盾を持ち直そうとしたが、腕にうまく力が入らなかった。


「レイナ、木を使う。ぶつかったところを狙おう」


 レイナが俺の後ろの幹を見た。


「分かった。私、横へ回る」

「エマも一緒に。倒れる方へ入らないで」


 二人が動く間、俺はイノシシから目を離さなかった。狙うのは、枝が通路と反対側へ張り出した木だ。俺はその幹の脇に立ち、走り始めてから裏へ回る。

 あいつが俺を見ているうちに、二人が離れてくれればいい。


 イノシシが地面を蹴る。

 今度は向きを変えさせない。まっすぐ来るのを待ち、足が勝手に引けそうになるのを堪えた。


『今だ!』


 俺は幹の後ろへ踏み込んだ。

 衝突の音とともに、枝が頭の上で跳ねる。幹がしなり、根元の土が持ち上がった。イノシシの前脚が折れ曲がり、肩が下がる。


 レイナが横から剣を振った。

 刃が後ろ脚へ当たり、硬い毛の下から血が出た。イノシシが鳴いて頭を振る。レイナはすぐに剣を引き、間合いの外へ逃れた。


 俺も反対側から斬りつけた。肩へ入った刃が思っていたより手前で止まる。押し込もうとしたところで胴が動き、剣ごと持っていかれそうになった。


『抜け、離れろ!』


 引き抜いて下がる。直後に頭が横へ振られ、牙が俺のいたところを通った。

 背後で木が軋む。裂けた根元から幹が傾き、枝の先が地面へついた。エマの声がする。


「右は枝がある! こっち、左!」


 言われた方へ抜けると、エマが腕を伸ばして場所を示していた。レイナもそちらへ戻ってくる。俺は二人の前まで下がり、相手へ剣を向け直した。


 イノシシは傷ついた後ろ脚を引きずっていたが、それでも立っている。

 肩に血が流れていた。あれだけ近づいて、まだ倒せないのか。握りを持ち替えると、右手のひらが汗で滑った。


「脚、傷ついたよな」

「うん。でも、ちゃんと踏ん張れなくなっただけ」


 レイナも息を弾ませている。左手を上げたまま、放つ機会を探していた。


 俺は一度、長く息を吐いた。魔素を取り込めば、もっと強い風を出せるかもしれない。首へ刃を飛ばせれば、近づかずに済む。


 左手を向けかけ、やめた。

 あのときは、撃ったあとに手も上がらなくなった。ここで同じことをしたら、残るのはレイナとエマだ。


「俺も風を使う。足が浮いたら、横へ押してくれ」

「倒すの?」

「木に当たったあとなら、いけないかな。さっき、前脚が曲がった」


 おっさんがすぐに口を挟む。


『二人で別の向きに押すなよ。同じ側からだ。支えてる脚を増やされる前に』


 そのままレイナへ伝え、俺は次の木を見た。奥の一本は根元が太く、周りに落ちた枝もない。二人が同じ側へ抜ける場所はある。


 また木を使うことしか、考えつかなかった。


「あそこまで下がろう。エマ、俺たちの後ろにいて」

「うん。枝、こっちはないよ」


 イノシシもこちらを追ってくる。歩くたびに後ろ脚がずれ、そのたびに鼻先が地面へ近づいた。止まってくれればいいのに、歯を鳴らして進んでくる。

 俺たちは木のそばまで戻った。

 胸の中へ魔素を取り込む。温かさを確かめ、いつも練習しているところで止める。もっと、と考えそうになるのを押さえ、剣を右手に残したまま左の掌を開いた。


「レイナ、俺の右。木の右側へ一緒に避ける」

「分かった」


 太い鼻がこちらを向く。

 今度の突進はさっきより遅かった。それでも歩いて逃げられる速さではない。傷ついた脚で土を蹴り、重い体がまっすぐ近づいてくる。

 俺は幹の右へ逃れた。レイナも同じ方へ動く。


 牙が樹皮を削り、頭が幹へぶつかった。

 木が震える。イノシシは前脚で踏ん張ろうとしたが、血に濡れた後ろ脚が滑り、体が傾いた。


「今!」


 俺とレイナが同じ側から風を当てる。

 こちら側の脇腹を押された胴が木を擦りながら向こうへ倒れた。土を蹴る脚が空へ浮き、腹が見える。

 俺は風を送るのをやめ、幹の手前を回って近づいた。起き上がろうと頭が振られる。牙の向く先を避けながら、剣を両手で持った。

 首の下へ切っ先を当て、体重を掛ける。


 刃が入った。


 柄を握る手へ振動が返ってくる。途中で止めたら起き上がる。俺は脚を踏ん張り、そのまま押し込む。

 イノシシの脚が土を掻く。レイナが剣を構え、俺の横に立っている。

 動きが弱まるのを待って刃を抜き、二人で離れる。


 もう一度、大きく腹が動いた。


 それきりだった。


     *


 俺は木にもたれかけ、削れた幹を見て体を起こした。

 手が震えている。剣を下ろしても、柄に掛かった指がなかなか緩まない。レイナも口を開けて息をしていた。


「倒した?」


 エマの声が聞こえる。


「たぶん。まだ近づかないで」


 しばらく待っても、脚は動かなかった。俺はそこで初めて、周りを見た。林の方にも、壊れた柵の向こうにも、同じ背中は見えない。

 エマが俺たちのそばへ来た。剣を持ったままの手が細かく揺れている。


「怪我は」

「ない。二人は?」

「俺は、すねを擦った。左腕も痛いけど、動く」

「私も大丈夫。枝が当たったくらい」


 俺は盾を外して足元へ置き、左腕を曲げてみた。痛むが、持ち上げられる。右手首も曲がった。胸にあのときのような痛みはない。

 魔素酔いはどうだろう。吐き気はしない。頭がふらつくのは息が上がっているからなのか、すぐには分からず、腰を下ろして待つ。


「風、合わせられたな」

「うん。横になってくれてよかった」


 レイナが言うと、ようやく笑えた。


 生きてる。三人とも、ここにいる。


『……止まったな』


 おっさんも息を吐くような声だった。俺は返事をして、張りついていた舌を口の中で動かす。水が飲みたい。


 顔を上げると、向こうの木の枝が地面についていた。

 その手前にも、一本。盾を擦られた場所の先では、細い木が何本も折り重なっている。身を隠すために使った木だけではなかった。

 リンゴが道へ転がっている。踏まれた実は土と混ざり、折れた枝にはまだ葉がついていた。さっきまで、その陰を選んで走っていたのだ。


「小屋へ、知らせよう」


 俺は膝に手を置いて立ち上がった。


     *


 声をかけると、依頼主が小屋から出てきた。ほかの人にはそこで待っていてもらい、まず倒れたイノシシを確かめに来る。


「こいつまで入ってきたのか」


 男性は牙を見て、俺たちへ顔を向けた。


「よく怪我せずに……大丈夫なのか」

「擦ったところはありますけど、歩けます」


 ウェアドッグが三匹いたこと、そのあとで柵を破ってこれが入ってきたことを伝えた。男性は林に面した柵を見に行き、倒れた板を起こしかけて手を離す。


「助かったよ。あいつらがいたんじゃ、実を採りにも入れなかった」


 俺は頭を下げた。


 男性は道へ戻り、突進で倒された細い木の前で止まる。重なった枝を持ち上げ、その下から折れた幹を引き出した。ついていたリンゴを一つ取り、傷のついたところを親指でなぞる。


「……この木、去年から実がついてたんだけどな」


 俺は、その顔を見られなかった。


「申し訳ありませんでした」


 隣でもレイナが頭を下げる。エマの声が重なった。


「すみませんでした」


 男性はリンゴを持ったまま、折れたところを見ていた。

 風で葉が鳴った。地面へ倒れても、枝の先だけが揺れている。


 やがて男性は小屋の方へ声をかけ、空いた籠を持ってくるよう頼んだ。


「落ちたのを拾う。踏まれてないのは、まだ使えるから」

「手伝います」


 レイナが言い、俺も盾を拾って道の端へ置いた。剣の血を拭い、魔法で残った汚れを落としてから鞘(さや)へ戻す。

 エマは持ってきてもらった籠を受け取り、枝の間へしゃがみ込んだ。

 拾った実は、見た目よりずっと硬い。手の中で返すと、裏側に土がついている。俺はそれを払って籠へ入れ、次の一つへ手を伸ばした。


     *


 町へ戻ったのは昼を過ぎてからだった。

 ギルドで依頼の完了を伝え、畑で何が起きたか話した。イノシシの特徴を聞いた受付の男性がビッグボアだと教えてくれる。林に近い畑にも知らせるため、ほかの職員を呼んだ。

 借りた盾を返すと、台の上へ報酬が並べられた。依頼書で見た額より多い。


「ビッグボアには、別に討伐の報奨金が出るんだ。その分も入っている」


 示された額はウェアドッグ三匹の報酬より多かった。採取では、何日働けばこれだけになるだろう。

 俺はレイナとエマへ顔を向けた。


「この中から、畑の補償に回してもらえないかな」

「うん。私もそうしたい」

「私の分からも、出して」


 三人で渡す分を決め、受付の男性へ頼んだ。


「これを、畑の方へ渡してもらえますか。壊してしまった木の分に、少しでも」

「分かった。そう伝えて渡しておくよ」


 硬貨の一部を預け、残りを分けて受け取った。それでも、しばらく宿と飯に困らずに済む額だ。明日は無理に仕事を探さなくてもよさそうだ。


 宿へ戻る途中で水を買った。すねの擦り傷は畑で洗って布を巻いてもらっている。歩くと皮が引っ張られるが、階段を上がれないほどではない。

 部屋へ荷物を置いてから食堂へ下りると、レイナとエマは壁際の卓に座っていた。


「まだ、ご飯頼んでないよ」

「ありがとう」


 俺は向かいへ座る。空腹ではあったが、何を食べたいか聞かれても、すぐには出てこなかった。結局、三人とも同じ煮込みを頼んだ。

 水を飲んでいると、おっさんが話しかけてくる。


『俺が、木を使えと言ったんだよな』

「俺も、それしかないと思ったよ」


 レイナが顔を上げたので、おっさんの言葉を伝える。


『次に隠れた木も、折れるだろうと思ってた。それでも、あそこへ行けと言うつもりだった』


 俺は畑の方を思い浮かべた。最初に隠れた木が倒れたときは、木が壊れたことに驚いていた。次の幹の前へ立ったときは、ぶつかったあとに斬れるかしか考えていなかった。


「木のないところへ行こうとしても、追いつかれたしな」

「私も、風で押せると思ってた。最初のが全然動かなくて、慌てた」


 レイナが言った。


「エマにも下がってほしかったけど、どっちへ行けばいいか、言えなくて」

「私も、二人の後ろにいるのでいっぱいだったよ。畑の外へ出ればいいのかなって思ったけど、どっちに出口があるか分からなくなった」


 俺も逃げ込める幹ばかり探していた。小屋への道を塞がれたあと、畑の外がどうなっているかまで考えられなかった。


「次は仕事を始める前に、入ってきたところ以外も見とこう」

「うん。私も覚える」


 エマが答えた。レイナも、依頼主に聞いておけばよかったねと言った。

 それだけで次は木を壊さずに済むのか、俺には分からない。あの大きさの相手をどう止めるかも、まだ答えは出ない。


 運ばれてきた煮込みには、今日もリンゴが入っている。

 俺は匙ですくい、肉と一緒に口へ運んだ。甘くて、温かい。昨日と同じ味だった。


「拾ったの、使えるといいね」


 エマが言った。


「うん」


 根元で折れた木は、拾って戻すわけにはいかなかった。


 それでも手の中にあった実は、籠へ入れられた。俺は次のひと口を食べ、今度は汁も飲んだ。


お読みいただき、ありがとうございます。

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