第4章 異変
ある朝、ミルソン家を訪れた一人の商人が、ハスパーの前で申し訳なさそうに頭を下げた。
「申し訳ありません、ハスパー様。今回のカカオですが……お渡しできません」
ハスパーは手元の書類から顔を上げた。
「お渡しできない? 何かあったのか?」
声に怒りはなかった。ただ、これまで何度も取引を重ねてきた相手からの突然の申し出に、疑問を感じていた。
「ヴァルデン家と契約を結んだのです」
「ヴァルデン家と?」
ハスパーは静かに聞き返した。
「はい。これから仕入れるカカオは、すべてヴァルデン家に売ることになりまして……」
「そうか。では、今後のカカオの取引は難しいということか」
「申し訳ありません。ただ、カカオ以外のお取引については、これまで通りです」
ハスパーは少し考え込んだ。
「なるほど……。しかし、なぜヴァルデン家はカカオだけを?」
「そこまでは分かりません。ただ、ドレッド様から契約のお話をいただきまして。条件も良かったものですから、お受けすることにしたのです」
「そうか……」
ハスパーは静かにうなずいた。
商人に悪気がないことは分かっていた。条件の良い契約を提示されれば、商人として受け入れるのは自然なことだ。
「分かった。今後のカカオについては残念だが、ほかの取引はこれまで通り頼む」
「ありがとうございます、ハスパー様。このたびは申し訳ありませんでした」
商人はもう一度頭を下げた。
ハスパーは商人を責めることなく、その背中を見送った。
しかし、胸の中には小さな疑問が残っていた。
それから数日後。
再びミルソン家を訪れた商人が、ハスパーにカカオの取引について話を切り出した。
「ハスパー様、実はカカオの件でお話がありまして……」
ハスパーは顔を上げた。
「カカオ? 何かあったのか?」
商人は気まずそうに答えた。
「ヴァルデン家と契約を結びまして、今後のカカオはそちらにお渡しすることになったのです」
その言葉に、ハスパーはわずかに眉を動かした。
「……ヴァルデン家と?」
「はい。ドレッド様からお話をいただき、条件も良かったものですから」
ハスパーはしばらく商人を見つめたあと、静かにうなずいた。
「そうか。分かった」
商人が帰ったあと、ハスパーは小さく息を吐いた。
「……またか」
思わず、そんな言葉が漏れた。
先日も、別の商人から同じ話を聞いたばかりだった。
どちらの商人も、ドレッドから契約を持ちかけられ、条件が良かったために応じたという。
商人たちにとって、条件の良い契約を結ぶことは珍しい話ではない。
しかし、なぜ立て続けにヴァルデン家がカカオの契約を結んでいるのだろうか。
ハスパーはしばらく考えたが、まだ答えは出なかった。
「考えすぎか……?」
そう呟き、再び仕事に戻ろうとした。
だが、心の片隅には、先ほどの話が引っかかったままだった。
さらに数日後。
また一人の商人がミルソン家を訪れた。
「ハスパー様、カカオの取引についてなのですが……」
その言葉を聞いたハスパーは、静かに顔を上げた。
「……まさか、今回もか?」
商人は申し訳なさそうにうなずいた。
「はい。ヴァルデン家と契約を結ぶことになりまして。今後のカカオは、すべてそちらに売ることになったのです」
ハスパーはしばらく黙っていた。
またしてもヴァルデン家。
しかも、今回もカカオだけの契約だった。
「その契約は、誰が話を進めたのだ?」
「ドレッド様です。条件が良かったものですから、お受けすることにしました」
「……そうか」
ハスパーは静かに答えた。
商人が帰ったあと、ハスパーは椅子に腰掛け、考え込んだ。
一人なら偶然かもしれない。二人でも、同じようなことが起こる可能性はある。
だが、三人目となれば話は違う。
別々の商人が、次々とヴァルデン家とカカオの契約を結んでいる。そして、その話を進めているのは、いずれもドレッドだった。
「……何か考えているな」
ハスパーは小さく呟いた。
まだ、その目的までは分からない。
しかし、ドレッドが何の考えもなく、これほど立て続けにカカオを集めているとは思えなかった。
ハスパーは机の上に置かれた帳簿に目を落とした。
これまで、ヴァルデン家とミルソン家は、互いに商人として競い合いながらも、良き友人として関係を築いてきた。
ベルミンが、カカオを独占するような真似をするとは思えない。
だが、実際に動いているのはベルミンではなく、ドレッドだった。
「いったい、何を考えている……」
ハスパーは腕を組み、考え込んだ。
カカオはチョコレートを作るうえで欠かせないものだ。それを次々と集めているのなら、何かしらの目的があるはずだった。
しかし、その目的が分からない。
単に商売を拡大しようとしているのか。それとも、何か別の狙いがあるのか。
ハスパーには、まだ判断できなかった。
「ベルミンは、このことを知っているのだろうか……」
ふと、そんな疑問が浮かんだ。
もしベルミンも承知のうえで進めているのなら、長年の友人として直接話を聞く必要がある。
だが、ベルミンが知らないところでドレッドが動いているのなら、話は違ってくる。
ハスパーは静かに息を吐いた。
今はまだ、何も分からない。
ただ一つ確かなのは、ドレッドが何かを始めているということだった。
その頃、ヴァルデン家では――。
ドレッドが机の上に一枚の紙を広げていた。
そこには、町でカカオを扱う商人たちの名前が並んでいた。
そのほとんどに、すでに印がついている。
計画は大きく進んでいた。
ドレッドは最後に残った名前を見つめた。
「ミルソン家……」
その名を口にすると、ドレッドはしばらく考え込んだ。
ほかの商人たちとは違う。
ミルソン家は、ただ契約を結べば終わる相手ではなかった。
ドレッドは再び紙に目を落とした。
「……あと一つだ」
その言葉を聞いたエミリーが、ドレッドに声をかけた。
「ずいぶん進んだようね」
「ああ。ほとんどの商人とは話がついた」
「残るはミルソン家だけ、ということね」
ドレッドは静かにうなずいた。
エミリーは机の上の紙に目を向けた。
「……ハスパーも簡単にはいかないでしょうね」
「分かっている」
ドレッドは短く答え、再びミルソン家の名を見つめた。
一方、チャリスはその計画を知り、父ベルミンのもとへ急いでいた。
まだベルミンは何も知らない。
そしてハスパーも、まだドレッドの本当の目的を知らない。
だが――
二つの家が向き合う日は、すぐそこまで迫っていた。




