栞
栞
009
結局、一時間半掛けて終わったのは薄い問題集の数ページのみだった。
時間は掛かった。けれど、草川は別にひどく勉強が不得意という訳ではないらしかった。微分を変化の割合だと説明した時には宇宙を感じた猫みたいな顔で固まっていた癖に、問題一つ一つに落とし込んで、接線の傾きとして図にしてやれば、あとは自分であれでもないこれでもないと、パズルを組み立てるように進めていく。
公式を覚えられないわけじゃない。考える力が足りていないわけでもない。最初の一段だけ、一緒に上ってやればいいらしい。そこを超えれば、後は勝手に進んでいく。そういえば、これまでにだって似たようなことがあった気がした。
彼女の一歩目はいつだって控えめだったように思う。
「今日はこのくらいにしておきませんか、幸助先生」
手を付けていた問題を解き終えたのだろう。草川は握っていたシャープペンシルを机の上に転がして、凝り固まった肩をほぐすように両腕を上へ伸ばした。随分と行儀の悪い生徒だった。
「今日のところは、勘弁してあげましょう。草川生徒」
「先生って、生徒の事を生徒なんて言わないでしょ」
「じゃぁ、草川君」
「なんか偉そうでそれはむかつくかも」
「草川」
「それじゃ、今までと何も変わってないじゃん」
「だったら、何が正解なんだよ」
草川は答えなかった。
机に広げた問題集を揃えて、筆記用具たちを一つずつ筆箱に帰していく。そんなことする必要がないくらい、もう綺麗に片付いているのに。それでも指先だけを忙しなく動かして、こちらをどうしても見ようとしなかった。
「憶えてないかもしれないけどさ。わたしの名前、栞っていうんだよね」
僕は直ぐには返事ができなかった。聞き返すほど小さな声ではなかった。顔を横に向けた彼女の耳が赤い。
「……栞さん」
「なんか、さん付けされるとちょっといやらしいかも」
「……もう二度と呼ばない」
耳が熱い。隣から小さく息が漏れた。
「ふふっ」
「何がおかしいんだよ」
「さっき玄関で笑われたから、そのお返し」
彼女は堪え切れなかったのか、まだ笑っている。随分と根に持つ生徒だった。なるほど、こうも舐められっぱなしでは、先生としての威厳が保てないような気がしてならなかった。こういうとき背中を見るべき人間は、一人しか浮かばない。
「栞」
その一言だけで、笑い声は止んだ。筆箱へ戻りかけていた消しゴムが彼女の指から逃げ出して、机の上を数回だけ転がった。なんだか、その時間がゆっくり流れている気さえした。
「……なに」
「間違ったかな」
「知らない」
顔を背けて、消しゴムを拾い上げる。掛かっていた髪が落ちて、赤くなった耳は見えなくなってしまったけれど。もう、それを確認する必要もなかった。
それきり、会話は途切れた。
机に広げられた勉強道具が綺麗さっぱり片付けられていた。だから、僕がここにいる理由も、もう何も残っていなかった。
栞は帰ってほしいといわなかった。だから、僕も立ち上がろうとしなかった。
窓の外から、遠くを走る車の音が聞こえる。秒針がひとつずつ部屋を刻んで、時折、栞が足を動かすたびにギプスが絨毯を擦った。
不思議と、何かを話さなければならない気はしなかった。なんだか随分と懐かしい気分だった。
沈黙は嫌いだった。それは相手が自分を退屈だと思うまでの猶予で、だから適当な言葉を探して、相手が欲しそうな返事を並べてきた。
けれど、今は何も思いつかなかった。
聞きたい事とか、あった気がする。それでも今は、聞かなくてもいいと思った。
何も話さなくても、困らなかった。
隣に座った彼女も同じだったらいいと、そう思った。
確かめるように改めて栞を見る。
何度も顔を合わせていた。学校では一年以上同じクラスだったし、ここ二週間は何度も彼女の家を訪れている。それなのに、こうしてちゃんと向き合って見るのは初めてのような気がした。
背は低いほうだと思う。座って並べば肩の位置は僕より下にあって、長袖のパジャマから覗かせた手首は白くて、細かった。ギプスが付いていないほうの足を抱えて座るものだから、余計に小さく見える。
髪は肩を少し超えるくらいだった。特別に手入れされているわけでもないのか、それともやはり風呂はまだ不自由なのか、毛先はところどころ好き勝手に遊んでいる。それでも、なぜか少しだけ伸びたように感じた。
伏せた睫毛は思っていたよりも長くて、横顔は、ぼやけていた記憶よりずっと穏やかだった。
別に、誰もが振り返るような顔じゃない。
少し目つきが悪くて、愛想もない。口を開けばかわいげのない言葉ばかりを使うし、笑うときは決まって人をからかっている。
それでも。さっきから、目が離れなかった。
「なに」
視線に気づいた栞が、こちらを向いた。
「別に。なんでもないよ」
「嘘。目、合ったじゃん」
「気のせいだ」
「さっきから、じろじろ見てたくせに?」
面倒なところだけ、よく見ている。誤魔化すように視線を落とす。片付けを終えた彼女の手は、筆箱の上に置かれていた。
細い指。短く整えられた爪。昨日見た二つの絆創膏。顔はろくに見ていなかったくせに、彼女の手だけはいつの間にか見慣れてしまっていた。
だから、その見覚えのない肌色に目が留まった。
絆創膏が一つ。増えていた。
丁度、僕がホチキスの針で刺した指の腹に。




