僕一人分の隙間
僕一人分の隙間
008
草川栞に傘を返して、預かった問題集を渡す。今日の目的はそれだけだった。
どちらも玄関先で済ませられることで、長居をする理由はない。今日は幸い雨も降って来なかった。昨日と同じように呼び鈴を鳴らして、開かれた扉の隙間に傘を差し出す。
「これ、ありがとう。お陰様で濡れずに済んだ」
「うん。どういたしまして」
草川は傘を受け取ると、柄のあたりを一度握ってみて傘立てに戻した。何かを確認したようにも見えた。
「そんな見なくたって、人のもの壊したりなんかしない」
「知ってる」
「だったら、なんだってそんな確認をしたんだよ」
「ちゃんと返ってきたなって、思っただけだよ」
妙に引っかかる言い方だった。それでも、深く考えるほどでもないだろう。きっと彼女の中に、僕の知らない何かがある。それだけのはずだ。
続けて鞄から、昨日担任から押し付けられた冊子を取り出す。
「あとこれ。担任から」
草川は差し出された冊子の表紙を見て、一瞬だけ目を逸らす。
微分基礎。苦手克服問題集。草川栞専用。
簡潔な文言が大きく印刷された表紙は、わざわざ読み上げなくても十分すぎるほど現状を説明してくれていた。
「これが来たってことは……何か先生から聞いた?」
「必要だと思うなら、必要だと思うことをしてやれって」
「なにそれ」
「何かを選ぶなら、選ばなかった方の責任も持てって」
少しだけ彼女は眉をひそめて首をかしげる。そのポーズのまま数秒経って、ようやく「あぁ」なんて合点がいったみたいに目線を戻した。
「つまり、幸助君が自分で選んでくれたってことか」
それだけ頭が回るのに、どうやったら微分の基礎程度で躓けるんだよ。
「先生に遊ばれたみたいだね。随分楽しそう」
「お陰様だけどな」
「まぁ、そうだよね。先生に頼んだの私だから」
「……何を?」
「私が休んでる間に授業が進んだところ、分からないって」
「それだったら、担任に教えてもらったらよかったんじゃないか。あの人数学なのに」
「あんまり私には言わないけど、先生だいぶ忙しいみたいだったから」
ほんの小一時間前、珈琲片手に校門まで追いかけてきた担任を思い浮かべる。少なくとも息つく暇もないほど忙しそうには見えなかったけれど、確かに多忙で首が回らないとか、本当か冗談かわからないようなことを言っていた気がする。
「それで、僕か」
「そこまでは、言ってない。けど」
彼女は否定した。そう言いながら、今度は問題集の表紙に目を落として、困って言葉を探しているみたいに、冊子の端を指先で何度も撫でている。
「数学が得意な人、誰か知りませんかって。そう先生に聞いたら、幸助君に頼めば万事解決するじゃないって。そこからは、先生早くって」
「それで、こうなってた。と」
「相談したのも、昨日だったから。うん。驚いてる」
随分と回りくどい頼み方だった。
自分から僕の名前を出したわけでもない。教えてほしいとも言ってない。ただ、先生が選んだ時に拒まなかった。これまでの彼女を思えば、それは何でもないことではなさそうだった。
「それだったら、最初からそう言ってくれればいいだろ」
「直接頼むのは、なんか気が引けちゃって。ちょっと違うかなって」
「何が違うんだよ」
「断られたら、やっぱり嫌じゃん。迷惑かけてる自覚くらい私にだってあるんだよ」
最後だけ少し声が小さくなった。冊子の端を撫でていた指も、その言葉と一緒に止まる。迷惑じゃない、と一言返してやればいいだけだった。こういう時の正解くらい、考えなくても分かる。
なのに、返事が詰まった。
草川はその隙に、僕の手から問題集を奪い取った。少しだけ大げさに、胸元へ大事そうに抱え込み、それから玄関の奥へ一度目を向ける。
「問題集、渡すだけじゃ意味ないんでしょ」
「似たようなことを言われたばっかだよ」
彼女は扉を閉めようとはしなかった。僕も帰るために背中を向けなかった。
数秒間、どちらも次の一言を押し付けあうように沈黙した。けれど、先に堪えられなくなったのは草川のほうだった。
彼女は一度息を吸う。
「ここじゃ、勉強できないからさ」
「そうだな」
「だから。その……嫌なら帰ってもいいけど」
彼女は体を横へずらす。僕一人が通れるだけの隙間が、家の中へ続いていた。
「時間、大丈夫なら。上がってけば」
頼んだというよりは、なんだか仕方なく許可してやったみたいな言いぐさで、その不器用さに思わず笑ってしまう。
「今笑うとこじゃないでしょ」
「ごめん、ごめん。だってあんまりだったから」
「いいから。早く決めて」
目線は逸らされたままだった。けれど、扉を支える手には少しだけ力が入っている。
「じゃぁ、お邪魔します」
「……うん」
返事は素っ気なかった。
それでも靴を脱いで顔を上げれば、彼女はもう先を歩いていて、松葉杖がなんだかいつもより少しだけ早い間隔で床を叩いているようだった。




