傷の行方
傷の行方
007
借り物はよく目立つ。自分が思っているよりきっと、その違和感は大きい。
「なかなか今日はご機嫌な傘を持ってるんだな。雨でも降るんじゃないか」
帰り際、後ろから小突かれる。ダル絡みをしてくるこの声には聞き覚えがあった。珈琲の香ばしい匂いすら漂ってくる。
「テストの採点は終わったんですか」
「おいおい。いきなり現実見せるんじゃないよ。先生の事そんな嫌い? 大の大人が校門前でおんおん泣いちゃってもいいのかな」
高校生に泣き脅しを掛けるみっともない担任だった。
「別に時間を取ろうってわけじゃないんだ。それ返しに、今日も行くんだろ。そのついでに、また一つ頼まれてくれればいいだけだよ」
押し付けるように渡されたのは、印刷用紙を数枚綴じた冊子だった。
「なんですか、これ」
「草川栞専用の苦手克服問題集。出来る先生だからさ、こういうの作っちゃうんだよね」
自分で言ってしまうとこうも胡散臭くなってしまうものなのかと。
「頼みってのは、これも届けろってことですか」
「違う、ことはないんだけど。そうじゃない」
「じゃぁ、なんなんです」
「彼女に何が必要だと思う?」
授業に出ていないのだから、分からなくて当然だ。だから、必要なのは一つしかない。
「これを教えてやれと」
「その必要がありそうなら、でいいんだよ」
「先生の仕事でしょう。こんな事生徒に押し付けてもいいんですか?」
「生徒が必要性を考えて、自主的に動いてくれる。それ自体には何の問題もありはしないよ。ただ偶然、結果的に多忙で首が回らない私の助けになってくれたって話になる」
物も言いようだった。
「それは、何が違うんでしょうか」
「人聞き悪いな、ちゃんと選択肢を与えてあげてるだろう」
「断っても良いんですか」
「勿論」
やけにあっさり引き下がる。面倒ごとをうまく丸め込んでくる人とは思えなかった。きっと何かまだある。
「じゃぁ、丁重にお断りさせていただきます」
「わかった。草川には、お前は選ばれなかったよって伝えとくよ。きっと残念がるだろうな」
「言い方に悪意を感じますが」
「嘘は言っていないだろう、何かを選ぶ権利があるって事は何かを選ばなかった時の責任も伴うってことだ。お子様にはまだ難しかったかな」
「必要じゃない、とは思いませんけど」
「だったら、どうする」
断るといえば済んだ話だった。そのはずなのに、口を開いたところで言葉が止まった。
彼女は授業を二週間以上欠席している。渡された冊子の表紙には微分だとか、見覚えのある内容が並んでいて、どちらかといえば僕は得手な方だった。きっとそれを知っての白羽の矢だったんだろう。こんなものをわざわざ作って貰っている時点で、きっと彼女は苦手に違いなかった。
「良い表情だ、なら後は任せていいな」
「今の、断る選択肢なかったでしょう」
「最初から一番手の届きやすいとこにあったよ。それをお前がどぶに捨てただけで」
満足そうに担任は笑う。また、掌の上だった。乗せられたことに気づいた時には自分で逃げ道を塞いでしまっている。
「そんな背中生徒に見せてもいいんですか」
「模範的だろう、真似してくれていいよ」
「反面教師の間違いでしょう」
引き受けてしまった以上、受け取った冊子をパラパラと一通り目を通す。どうやら基礎固めが主で特段難しい事もなさそうだった。何か言いたげに担任がニヤついているのが横目に見えたけれど、気にしない。
冊子を鞄へ仕舞おうとして、指先に小さな刺激が走った。
「っ」
慌てて手を離す。裏返ったホチキスの針先が紙の端からわずかに飛び出していた。指の腹を突いてしまったのか、赤い点が浮かび、遅れてじんわりと鋭い痛みが広がる。
「あ、悪い。止め方が甘かったか、大丈夫か」
担任が僕の手元を覗き込む。
「平気ですよ、これくらい」
指を握り込んで、いつものように頭の中で数えた。
3、2、1。
痛みが消える。ゆっくり開いた指先には、もう傷口も赤く広がる血も残っていない。そのまま視線を上げた。担任は珈琲缶を右手に持ったまま、何事もなかったように立っていた。指にも、掌にも、傷らしいものはなくて、痛がっている様子もなかった。
「どうした、見惚れたか?」
「……いえ」
「十年遅かったな」
そう言って左手にはまった指輪を見せる。冗談めかしたように笑って、直ぐに興味を失ったように珈琲に口を付けた。
飛んでいない。
今までなら、目の前の担任に飛んでいるはずだった。少なくとも近くの誰かが声を上げるか、指を押さえるか、その程度の反応はあったはずだった。
辺りを見回す。下校していく生徒、部活動に勤しむ生徒。誰も、指を押さえて立ち止まっていなかった。
「目移りが激しいけど、何か探し物か?」
「別に、何でもないです」
「ふうん」
そう言って担任は踵を返した。数歩進んだところで、何かを思い出したように立ち止まって、振り返る。
「あと、答えだけ教えてやるのは、本人のためにはならない。それは意味がないからな」
「分かってますよ」
「相手がどこで分からなくなったか、それを一緒に探してやるんだ。欲しがっているから与える、じゃなくてな」
珍しく教師みたいなことを言う。
「人相手でも、まぁ似たようなもんだ」
後出しで言いたいことだけ付け足して、満足したから校舎へと戻っていく。勝手な人だった。
傷が消えた指先を見る。
何もない。穴も、血も、痛みも。いつも通り、綺麗さっぱり飛んで行ってしまった。
違ったのは、その先だけだった。
傷を飛ばされた誰かの悲鳴がない。痛みに顔をゆがめる人間もいない。少なくとも見える範囲で、だれも不幸を擦り付けられていなかった。
誰も傷つかない、都合のいい力になった。そうは思えなかった。
だったら、何処に消えた。
答えなんて出るはずもなかった。これまでだって、傷が飛ぶ理由も、飛ぶ先だって、何一つわからないまま、ただそういうものだと思っていた。今回だけ、きっと見つけられなかった。きっとそれだけだった。
そう片付けて、鞄の中へ冊子を詰め込む。
手に持った傘が風に煽られて、小さく揺れた。




