また今度
また今度
006
雨は逃げ場が無くなったのを待っていたみたいに降り始めた。額を小さく濡らし、それから鼻先へ。気のせいではないと気づいた頃には、もう自宅より目的地の方が近かった。
朝は鬱陶しい程の青空だった。天気予報なんて見ていない。見ていたところで、どうせ傘なんか持ってこなかっただろう。運が悪いけれど、しかし濡れるくらい怪我ですらない。
そう高を括った結果、草川栞の家へと着く頃には、シャツは肌へ張り付き、前髪から顎へ雫が伝って、夏を目前にした季節には場違いな、わずかな肌寒さを感じていた。
鞄だけは、胸に抱えていた。プリントを濡らしたなんて担任の耳に入れば、余計な小言を聞くか、また何か後だしを押し付けられるような気がした。
軒下へと滑り込んで、呼吸を整える。濡れた手を制服の裾で拭ってから、呼び鈴を鳴らした。
耳をすませば、雨音の先でいつものように、こつ、こつ、と松葉杖の音が近づいてくる。五度目の今日は、なんだか扉が開くまでの時間が少しだけ長く感じられた。
「幸助君」
いつものように扉の隙間から顔を出した彼女は、僕を見上げて、そのまま眉を上げて息を飲み込む。呆れた顔にも、驚いたようにも見えた。どれが正解なのかは分からなかった。
「ごめん、降ってるから。これだけ渡したら直ぐ帰る」
抱えていた鞄からクリアファイルが濡れてないことを確認して、彼女へ差し出す。それでも、どうしてか彼女はそれを受け取らなかった。それを見ようとすらしていない。
「明日でもよかったのに」
「大丈夫、プリントは濡れてない。と思う」
「そういう話じゃないから」
扉がもう少しだけ開かれる。
「早く入って、雨が入ってくる」
「いや、僕が入ったら濡れちゃうだろ」
「早くしないと、そのプリントも濡れちゃう。でしょ?」
それはちょっと卑怯だろう。
「早く」
促されるままに、招き入れられる。冷えた外気は締め出されて、室内は暖かかった。緊張が解けたのか、一つ大きく身震いした。
「そこ、座ってて」
「濡れるけど」
「見たらわかるよ。いいから、座って待ってて」
犬か何かに見えてるんだろうか。言われた通りその場に座る。彼女が廊下の先へ消えるまで、少しだけ危なっかしい後ろ姿を眺めていた。
靴棚の上には彼女と両親の写真があった。随分と昔の写真みたいで日に焼けてしまって、色はすっかり褪せている。そう遠くはない場所のはずなのに、僕は何も知らなかった。
こつこつ、と後ろから松葉杖の足音が寄ってくる。頭のすぐ近くでその音は止まって、顔を見上げると、松葉杖とは反対の手にタオルを抱えた彼女が立っていた。前髪から雫が一滴、頬を伝った。彼女の裾や、髪先にも雨がついているようだった。
「風邪ひく前にちゃんと拭いて」
「草川だって濡れてるように見えるけど」
「私は外走ったりしないから」
視界は白く塞がった。どうやら、タオルをかぶせられたらしい。せっかくなので、髪についた水気を荒く拭き取ってから、タオルを首に掛ける。
「だめ、まだ全然濡れてる。もっとちゃんと拭いて」
「……意外と口うるさいんだな」
「幸助君が適当過ぎるだけでしょ」
首にかかったタオルを彼女は持ち上げて再び僕の頭上に乗せる。なんだか少しだけ過保護な気さえした。今度は彼女から何も言われないように、念入りに水気をとっていく。
「隣、座るよ」
人ひとり分、距離を空けて、彼女はギプスで固定された方の足を不器用に移動させながら隣に座った。
「嫌じゃない?」
「別に、これくらいで嫌がったりしない」
「いっつも女の子に絡まれてたもんね。それもそっか」
「あれは、嫌だけど」
僕の返事に彼女はこちらを見ないまま少しだけ笑った。
初めて訪れた日のことを思い出す。あの日は僕が一歩近づいただけで怯えた顔をしていたのに、それに比べると今の彼女との隙間は随分と狭くなったように感じた。
「私の隣に座ってくれるのは、きっと幸助君くらいだよ」
「そんなことないだろ」
「そうかな」
雨粒が扉を細かく叩いていた。玄関に二人で並んで座る理由なんて、もうなかった。髪は拭いた。プリントも無事だった。それでも彼女はあの日みたいに、帰って、なんて言わなかったし立ち上がらなかった。僕もそうだった。
「あんまりさ、私、良い噂がないんだよね。だからきっと居ないよ。幸助君は聞いたことある? 私の傷をみちゃったらおんなじ場所に怪我しちゃうんだって」
抑揚のない声だった。
「そんな馬鹿みたいな話、信じるほうが幼稚だろ」
「ふふっ、そうだね」
彼女は喉奥で小さく笑った。その余韻を飲み込むように一度口を閉じて、そして伏せていた目だけをこちらへ向けた。
「……でも、もし本当だって言ったら?」
笑い声は残っていなかった。口元だけはわずかに緩んでいるのに、目は逸れない。どうして、そんな顔で冗談をいうのか分からなかった。
「本当だったとしても、別にどうだっていい」
慰めるつもりで言ったわけではなかった。本当でも嘘でも、僕には関係がない。噂一つあったところで、今更彼女への接し方を変える理由にはならなかった。
「幸助君らしいかも」
「それって褒めてる?」
「半分くらいは褒めてる」
「残り半分は?」
「最低だと思ってる」
彼女は俯いたまま、わずかに口元を緩めた。「でも、少し安心した」玄関越しの雨音にすらかき消されそうな小ささで、彼女はそう言った。
「雨、まだ止みそうにないね」
「走れば帰れるから、心配ない」
「駄目」
彼女は立ち上がり、傘立てから傘を一本抜いて僕に渡した。差し出された右手には二か所、絆創膏が見えた。
「これ、貸してあげるから。また今度返しに来て」
借りた傘は、僕には少し小さくてズボンの裾が雨に濡れたままだった。それでも、帰り道は来た時ほど肌寒さは感じられなかった。




