それだけ
それだけだった
010
待ち合わせの十分前についた日曜日の駅前は、人間で溢れていた。恋人同士、家族連れ、制服姿の高校生。それらの流れをぼんやり横目に、改札の時計を確認する。
あと、四分。
どうしても、考えてしまう。
昨日見た栞の指先、増えていた絆創膏。ホチキスで刺したのは右の人差し指だった気がする。跡形もなくなってしまって、もう確認のしようもないけれど。
偶然か。
それとも
「幸助!」
自分の右腕がその声と同時に前に引っ張られて。待ち合わせにようやく到着した彼女に腕を確保されたのだと理解した。
「待った?」
「いや、今来たところ」
「ダウト。幸助毎回おんなじこと言うじゃん。本当は?」
「じゃぁ、十五分くらい」
呆れたように笑う。白いワンピースに薄いカーディガン、普段より少しだけ化粧にも時間を掛けているみたいで、なんとなく印象が違った。
「どう?」
僕の顔を覗き込むように彼女は目線を合わせてくる。鬱陶しくて、細部を見るふりをして僕はそれを逸らした。
「ネイルが、綺麗」
「……そこ?」
「間違いだった?」
「そうじゃないけど」
口を尖らせながらも、彼女は僕の腕をとったまま空いている手を僕の前に持ち上げる。淡い桃色の爪が陽の光を反射して、表面だけ小さく光る。思わず目を細めた。
「昨日、自分で塗ってみたんだよね。結構時間かかっちゃった」
「へぇ。上手いと思う」
「でしょ~」
機嫌は直ったらしい。
さっきまで尖っていた口元は緩んで、見せつけるように指を広げている。褒める場所は、間違ってなかったんだろう。相手が欲しそうな言葉を投げかけてやれば、大抵の人間は満足してくれる。
「他。私のいつもと違うところは何処でしょう」
まだ欲しいらしい。
もう一度、今度は足元から順に眺める。白い靴。肩にかけた小さな鞄。毛先はいつもより内側へまかれている。耳には金属が下がっている。
「髪を巻いてる」「うん」「ピアスも新しい」「うん」「服も似合ってる」「……うん」
一つ答えるたびに、彼女の返事から勢いがなくなっていく。
「合ってる。だけなんだよね」
腕に絡んでいた力がほんの少しだけ緩んで、歩きやすくなる。首をかしげて見せれば「うん、幸助らしいなって思っただけ」なんて返ってくる。
その言い方に、何か引っかかるものがあった。それでも聞き返すほどの事でもない。僕は映画館の方へ足を進めた。
肩が触れる。体温が伝わる。いつも彼女がつける柔らかい香水のかおりがした。
今日の彼女はきっと普段より綺麗だったんだろう。さっきから、周りの視線が痛い。腕を組まれて歩けば、きっと悪い気分になる男のほうが少ないんだろう。それでも、僕は歩きづらかった。
頭に浮かんでいたのは、淡い桃色の爪じゃない。右の人差し指に張られた絆創膏だった。
「幸助」
彼女は突然立ち止まる。腕を引っ張られ、一歩遅れて僕も止まる。
「なに」
「今日なんか変じゃない?」
「いつも通りだよ」
「その返しだって、幸助らしくない」
要領を得ない指摘だった。
「考えすぎだろ」
彼女はそれ以上追求しなかった。その代わり、僕の腕を抱く力だけが少しだけ強くなって、また歩きづらかった。
結局映画が始まってからも、頭の中は静かにはならなかった。
暗くなった館内で巨大なスクリーンだけが明滅している。男と女が出会って、すれ違って、何かを失って、それでももう一度出会おうとする。多分、そういう話だった。
話の筋が追えなかった訳じゃない。伏線らしきものが出れば、それがどこへつながるかも、ある程度は予想できた。
けれど、それ以上は何も入ってこなかった。
隣から、小さく鼻をすする音が聞こえた。
横目で確認すると、彼女はスクリーンを見たまま目元を指で拭っている。桃色の指先が暗闇の中で微かに反射した。
どうやら、泣いているらしい。
手を握るだとか、ハンカチを渡すだとか、こういう時の正解を何通りか知っていた。知っているだけで、僕は何もしなかった。
彼女は僕の手を一度だけ握った。けれど僕が握り返さないままでいると、直ぐに離した。
映画の中では誰かが誰かを抱きしめていた。館内のそこかしこからすすり泣く声が聞こえる。僕の隣からも聞こえる。
エンドロールが流れ切って、デザートみたいな蛇足の映像。その先でようやく照明が戻る。
周囲の人間は余韻を楽しむようにゆっくりと席を立っていた。伸びを一つして、僕もそれに合わせて立ち上がる。彼女はまだ座ったまま、目元を押さえていた。
「大丈夫?」
「なにが」
「泣いてたから」
「見てたんだ」
「隣にいたら、それくらいわかる」
「そっか」
返事は短かった。
彼女は鞄から鏡を出して、崩れた化粧を確かめる。一人また一人と席を立って、少しずつ人が捌けて行った。
「幸助は、この映画どうだった?」
「……そうだな」
何か答えなければいけない。そう思って内容を思い出す。男と女がいた、二人を阻む障壁があった、最後はハッピーエンドだった。
「よかったと思う」
「どこが」
「最後、二人が会えて」
「それだけ?」
それ以上の答えは出なかった。
主人公の名前も、相手の名前も思い出せない。どんな顔で笑っていたとか、たった今見たばかりの最後のシーンすら曖昧だった。
「……あんまり映画に集中できてなかった」
彼女の手が止まる。鏡越しに、その瞳が見えた。
「どうして」
「それは」
「草川栞の事?」
息が詰まった。
その一瞬は、きっと答えとして十分だったんだと思う。彼女は鏡を閉じた。すっかり空になった館内に、その音は妙に大きく響いた。
「やっぱり、今日の幸助、ずっと変だよ」
「それは」
「私が髪巻いてきたのも、いつもと違う服を選んできたのも、化粧も変えてみたのも、全部分かってたよね」
「あぁ」
「でも、何もわかってない。見てただけ」
立ち上がった彼女は、僕より少し低い位置からその大きな瞳で睨みつけてくる。
「何を言えば喜ぶのか、それをあてはめて上から順番に言ってただけ」
声を抑えていても、彼女の声ははっきり聞こえた。
「幸助って、ほんとに顔だけだよね」
「なんだよ、急に」
「顔がよくて、愛想よくして、相手が欲しそうなこと言って。それで人から嫌われないようにしてるだけ」
反論できなかった。
「誰にも興味ないくせに、嫌われるのが怖いんでしょ」
その通りだった。
「優しくしてるつもりかもしれないけど、あんなの優しさでも何でもないから。自分が悪者になりたくないだけじゃん」
その通りだった。
「何が欲しいかは分かってるくせに、なんで欲しがってるかはどうでもよかったんでしょ。だから、あたしが触れても、腕を組んでも、ずっと嫌そうな顔して。だったら最初っから、優しくなんてしないでよ」
初めて彼女の声が館内に響いた。
「私が誘ったから映画にも来た、私が声を掛けたからいつも一緒にいてくれた。でも先生に頼まれたから、草川の家にも行って、私たちから勝手に離れて。誰かに言われてからしか、人に関われないの?」
「……別に」
「そう。やっぱり草川は、別なんだ」
栞の顔が浮かんだ。玄関で扉を開けた顔。クッキーを差し出した手。雨の日にタオルをかぶせてきた時の顔。名前を呼んだ時の赤い耳。
「幸助?」
確かに最初は言われたからそこに行った。それだけだった。
でも今は違う。少なくとも栞に会いに行くとを面倒だなんて思わない。
「ほら」
彼女は小さく笑った。いつもの嬉しそうな笑い方じゃなかった。
「そんな顔するんだ」
「なにが」
「もういい」
胸元を突き飛ばされる。一歩だけ後ろに下がった。前にも、こうして突き飛ばされたことがあった気がする。
あの時は理由が分からなくて腹が立ったんだった。今は、目の前の彼女が怒っている理由くらいは分かる。
「アタシより可愛い子なんて、絶対幸助には寄ってこないから」
少しだけ声が震えていた。
「アタシより幸助に合わせてあげられる子だって。幸助の性格を知っても、それでも隣にいてくれる子なんて、絶対にいないから」
「……そうかもな」
彼女はきっと、間違ってなかった。
「なにそれ」
彼女の顔が歪む。慰めるべきなんだろう。きっと今までの僕だったら、嘘でも否定して今日は悪かったと謝って、相手の欲しそうな言葉を差し出して、それ以上相手に嫌われないようにと、ずっと考えていた。
けれど、何も。僕は彼女に声を掛けなかった。
「最低」
「さっき、教えてくれた」
「そう言うところが一番嫌い。大嫌い」
「そっか」
「なんで何も言わないの」
何を言えばいいのかわからないわけじゃない。
「ごめんって言えばいいじゃん」
目元に涙がたまっている。
「それで全部無かった事にしてあげるから」
消えてしまいそうなくらい小さな声だった。
随分と簡単な話だった。ごめん。たった三文字を口にしてしまえばいい。
今日は楽しかった。映画もちゃんと見ていた。草川の事なんて考えていなかった。君の服も、髪も、化粧も、本当に似合っていた。きっと、気合を入れて準備をしてきてくれた、それが嬉しかった。
彼女が欲しがっていた言葉は、全部分かっていた。
言えばきっとこれまで通りに戻れる。
明日になればいつも通り六人で机を囲んで、彼女はまた僕の腕に絡みついてくる。今日の事を誰かに聞かれたって、ちょっと喧嘩しただけだって、笑って誤魔化すことができる。
全部無かった事にできる。
「……ごめん」
彼女の顔がわずかに上がった。
「映画に集中してなかったのは、悪かったと思う」
「……それだけ?」
「うん」
彼女は再び俯く。
「それだけ」
僕は頷いた。
「そっか」
彼女は目元を拭うことももうしなかった。零れた涙が頬を伝って、床を少しだけ濡らす。
「アタシ、幸助に選ばれなかったんだ」
何かを選ぶ権利があるってことは、選ばなかったことの責任を持つ。少し前、担任から聞かされた言葉だった。
「最低」
「知ってる」
「知らないよ、幸助は何も知らない」
彼女は僕の横を通り過ぎる。呼び止めなかった。白いワンピースが劇場の出口へ遠ざかっていく。目で追っても最後まで、一度も振り返らなかった。
ただ一人取り残された館内は、上映中よりも静かで、それでも不思議と息苦しさはなかった。
きっと僕は一つ間違えた。
彼女が憎かった訳じゃない。それでも彼女を傷つけた。明日から、今まで通りではいられない。昼休みや放課後、また居心地がよかった六人で集まることはもう、ないのかもしれない。
全部わかっていた。
それでも、さっき並べた言葉を口にして、今まで通りに戻ることだけはどうしても出来なかった。理由は纏まらないけれど、ただ、それだけは間違っている気がした。




