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はじめまして

初めまして

002


「それって僕じゃなくたっていいですよね」


 放課後、担任から一人で職員室に来るよう呼びつけられ、その扉を潜った。担任から告げられたのは、あの陰険な女の自宅に配布物を届けてこいとのご用命だった。雑用の押しつけは職権の乱用に当たらないのか。


 あの一件の後、彼女は学校に姿を現さなくなった。原因には、数えるほど心当たりがあったけれど、話を聞くとどうにも僕の予想を超えて彼女は今、足首を骨折していて登校できないとのことだった。


「まぁ、頼むよ。お前が一番家が近いんだ。それに、なんだ。隣の席のよしみだろ」


「そんなものありません。第一その子の名前だってちゃんと知りませんし」


「草川栞だ、クラスメイトの名前くらい覚えろ」


「家の場所だって」


「お前の家から県道を隣町に向かって一キロ弱進んだとこの、ぽつんと一軒家。道に迷ったり、家がわからなかったりする方が才能だろうな」


「僕が行くより、彼女の友達とか」


「草川は、そういう子じゃない。だろ?」


 思わずため息が漏れた。孤独がかっこいいとでも思っている痛い年ごろなんだろうか。そういうのは中学生のうちに卒業してしまうものだろう。周りに人間を置いておく方が生きやすい。少なくとも社会はそういう風に出来ている。


「駄々こねは終わったか。終わったなら、今日これ届けといてくれ。それと、草川の家は毎朝親御さんから欠席の連絡が入るから。無駄だぞ」


 渡した体にして、このファイルは学校のゴミ箱にでも捨てて帰る。そんな案は先回りして棄却された。


「お前、推薦が欲しいんだってな」


「それは、脅しですか」


「馬鹿いえ。先生ってのは生徒のためを第一に思って行動するもんなんだ。足を引っ張るような真似はしねぇよ。ただ、生活態度によっちゃ色がつくかもしれないって話だ」


「……言質取りましたから」


「スマホ持ってきてるアピールだったら、今ここで没収してやってもいいぞ」


「まさか、冗談に決まってるじゃないですか」


 前時代的な校則に対する恨めしさを押し殺して、にっこりとした笑顔で封筒を受け取った。なるだけ手渡しで渡すようになんて後出しが一つ。


「それと、あれだったら、草川の友達にもなってやってくれよ」


「無理です」


「まぁまぁ、そう即答せずに。そこを何とかさ。お前ら、華のティーンエイジャーなんだろ」


 死んだ魚の眼をしてる癖に、随分と夢見がちな暴論が出てきたものだと。


「……無理でしょ。先生本気で言ってます?」


「だったら会話の二、三往復してやるだけでもいいからさ。頼むよ」


 そう言い終わって、珈琲を啜る。到底物事を頼む側の人間の態度としては落第物なんだろうけれど、逆説的につまりこれが対等なお願いなんかじゃなく、上からの要求なんだと理解した。


「まぁ、それくらいなら」


 友達になれ、なんて無茶な要求と比べてしまえば、会話を二、三度続けるくらいは随分と簡単に思えた。拍子抜けで、肩の力を抜けば教師は口元を隠して笑った。ようやく、最初からその程度しか求められていなかったことに気づく。


 つまり、掌の上で僕は二つ目の後出しまで受け入れてしまった。


「まぁ、ドアには気を付けるように。それとも、まだお喋りし足りないっていうなら、気が済むまで付き合ってやるけど」


「これ以上、荷物が増えても嫌ですし、もう退散させていただきます」


 そう言い切ってそそくさと撤退を決め込む。これ以上後だしを増やされては堪ったものじゃない。草川栞にどんな事情があれ、これ以上面倒ごとに巻き込まれるのだけは御免だった。


 幸い、女性相手に印象を損ねるような経験は覚えている限り一つもなかった。客観的に見ても、自分の顔の造詣が年齢を問わず他よりは少し女性の懐に入るには有利だったし、第一印象さえ掴んでしまえば、少し笑って、少し気遣って、相手の欲しい言葉を返す。それだけで、大抵上手くいった。


 だから、この日が初めての拒絶だった。


 草川栞の家の前に立ち、ドアベルを鳴らす。耳をすませば、こつ、こつ、と連続した音が玄関まで近づいて来ていることが分かった。手間取っているような間と、何かが倒れる大きな音がして、それからまた一分くらい待った後でようやくその重たい扉は開いた。


「……はじめまして」


 ドアからパジャマ姿で顔を覗かせて、草川栞はそう言った。


「一応、クラスメイトなんだけどな」


 あまりのご挨拶に呆れてしまって本音が漏れる。慌てて口を噤んだ。それでも、クラスメイトに初めましてはないだろう。


「ごめん」


 彼女の視線がさらに下がる。いったいどこを見て会話をしてるのかわからない奴だった。彼女の目線の先に僕の顔はない、せいぜい胃の位置だった。


「なぁ、草川。その右足は……どうしたんだ?」


 居心地の悪い空気に堪えかねて切り出す。お前を心配している、お前に興味がある、言葉端からそういうニュアンスが伝わるように。


「……そんなことを聞きに来たの?」


 正面から気遣いを無下にされるのは、あまり気分がいいものじゃなかった。その傷は、そんなに聞かれたくないようなことなのか。


「……いや、違う。悪い。預かったプリント渡しに来た」


 バッグから出したクリアファイルを、彼女に差し出す。彼女はドア枠に体重を預けたまま、半身だけ出してそれを受け取る。鈍くさい奴なんだろう、横に立てかけてた松葉杖が音を立てて倒れる。


 仰々しいギプスで動き辛そうだったから、だから一歩だけ踏み込んで松葉杖に手を伸ばした。それだけだった。


「やめて」


 それは悲鳴に近い声だった。


 後ろに数歩たじろぐ。胸を突き飛ばされるのは初めてだった。何が起こったか、理解ができずに彼女に押された胸元を眺める。ようやく彼女から拒絶された、その事実が胸に残った。


 感謝される理由こそあれ、嫌われる理由なんてあるはずがないのに。いったい何様のつもりなんだと、頭がふつふつと煮立って来る。


 きっと目つきは最悪だった。目線が合うように睨みつける。


 けれど、彼女の表情は僕以上に酷かった。ようやく正面から向き合って、それを知った。


 眉は下がって、口は強く結んでいて、ピクリと頬が動く。小さな肩が小刻みに揺れていて、その目は弱そうに、それでも確かに僕を睨んでいた。


 陰気な人間は、もっとおずおずするものじゃないのか。怖いなら、目を逸らせばいい。謝ってやり過ごせばいい。なのにこいつは怯えていたって、僕を突き飛ばした。


 その反応が、どうしても昨日の様子と重なる。


 でもどうして。


 襲おうなんてしたわけじゃない。それでも彼女は怯えていた。家に入られたくないほど嫌われるようなことを僕がしただろうか。それも心当たりがまるでない。だったら、怪我を擦り付けたことに気づいた? これはもっと有り得ない。


「もう、帰って」


 言葉が見つかる前に、彼女はそう言って扉に手を掛けた。扉が閉まる音が胸に響く。残響が跡形もなく消えて、それでも煩くて鼓動が速まっている実感が湧いてきた。


 彼女が何を考えているのか、全く分からなかった。怯えてるくせに、逃げない。弱そうに、それでも僕を睨んでいる。気に入らなかった。人の機嫌なんて顔を見れば大体わかる。欲しい言葉だって、少し話せば見当がつく。それで上手く回る。そのはずだった。


 なのに、草川栞だけは何一つ嚙み合わない。


「……俺がなにしたっていうんだよ」


 扉の向こうの彼女にはきっと届かない。ペースを乱されて、心を乱されて、それが僕は心底不快だった。

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