三滴の赤
三滴の赤
001
あ。
ヒリヒリと尖った痛みが指先から走って手首を引く。またやってしまった。人差し指の指紋が真っ二つに裂けていた。落とした配布物を拾い上げれば、少し遅れて赤い水滴がじんわり膨らんで来ていた。
今日もついてないらしい。
そう悪態をついたって、変わらない事は知っていた。これは日常だった。もし幸運に人格があるのなら、そいつはきっと僕の顔も見たくないほど僕を嫌っている。そう言い切ってしまっても一切語弊がない程度に、僕の生活の隣にはいつも不運がついて歩いた。
足を取られて壁に突っ込む、そんなものは序の口で、アパート付近を通れば頭上から鉢植えが落ちてくる、交差点の信号待ちで車がガードレールを飛び越えて来る。事の大きさは異なれど、毎日いつ死んでもおかしくない不運と、死んだ方がましだと思うほどの痛みの連続だった。
赤ちゃんの頃はベッドメリーが顔に落ちていただとか、大型のトラックに撥ねられ数日死の淵を彷徨っただとか。後遺症で昔の記憶がすっぽり抜け落ちているらしい。
よくつるむクラスメイトに言わせれば「それだけの事にあってる割には無事なんだし、きっと運がいいんだよ」だそうだ。まったく冗談じゃなかった。
当たりどころがよかった。運がきっとよかったんだろう。そうあってくれるなら、どれだけましだったか。
運の悪さは底抜けだった。当たりどころだって悪かった、それも死んでしまうほど。それでも。何度首が砕けても、腹が裂けて、目玉が飛び出て、そういう死んだほうがましだと、そう思える程痛みを味わい尽くしたって、この不運は僕を離してはくれなかった。
指先を押さえて、またいつものように数える。
3、2、1。
「……飛んだ」
滲んでた赤色も、肉に直接針を刺したような不快さも、そこにはもう何も無かった。最初からそうだったみたいに、全部が思い込みでまるで自分だけが嘘を信じてるみたいに。全て綺麗さっぱり。切れ目がない指紋をこねても、もうその傷は戻ってこない。
不運の次に僕に目を付けたのは、そういう荒唐無稽だった。
「っ……」
傷が消えた後は、決まってそんな声を聞く。時には噛み殺すような声だったり、喉を潰してしまいそうな震えだったり、年齢も性別も時間も全く別々だったけれど、それらはきまって不快を押し付けられた人間の悲鳴だった。
その声の元を探すように周りを探る。隣の女子生徒がさっきまでの僕と全く同じように人差し指を押さえていて、血色の悪い頬が少しピクピクと緊張している。小さな傷が飛んだ人間はみんなそんな顔をする。幾度となく味わった感覚はきっと誰だって同じだった。でも我慢ができない程ではない、そんな煩わしい取るに足りない痛みだった。
決まっていつもそうだった。ついてない程に傷を作りやすくて、でも少しだけ我慢さえすれば近くの誰かへその傷は飛んで行ってしまう。気持ちが悪かった。その得体の知れなさに酔えるほど僕の度胸は座っていなくて、傷を擦り付けた相手へ白状するほどの勇気もなかった。結局何もわからないまま、僕が受けるはずだった数え切れない痛みは、こちらの意思なんて無視して飛んでいってしまった。
理解なんてできなかった。それでもこの現象がなかったら、きっと今こうやって学校に通うことだって出来なかった。得体のしれないものに生かされている。そんな異常すぎる状況を、それでも僕は徐々に受け入れていった。
車に轢かれ砕けた骨盤を運転手へ、犬に噛まれ抉れた腕はその飼い主に、こけて膝を擦った痛みは偶然目の前を通りかかった小学生に。いつだって傷は平等に理不尽だった。きっとそこに因果応報なんて求めるほうがおかしかった。最初こそ僕のせいだ、彼らが可哀想だと自責に苛まれた、それでも僕の気持ちなんて置いて世界は最初からそうだったと言いたげに振舞う。口を揃えたみたいに、勿論口すら動かせない場合を除いて、誰もが「今日は運が悪かった」なんて言って、それで僕の傷は無かったことになった。
擦り付けられたなんて露ほどにも考えない。だってそんなこと有り得ない。
だから、僕が作ってしまう嘘を誰も見破ることは出来なかった。
だから。だんだん、馬鹿らしくなった。
僕だって好きで怪我をしているわけじゃない。僕が選んで飛ばしているわけじゃない。そこに一切の選択の余地なんて無かった。それなら、それは仕方ないことだったんだ。痛みが消えた後まで、僕だけが罪悪感まで抱える理由なんてない。それで世界が変わったりなんかしない。僕の不幸に比べてしまえば。それくらいの傷の一度くらい。
そう思うようにしてから、随分と楽になった。
だから、いつものように飛んだ先を確認しただけだった。怪しまれない程度に何気なさを装って、横目で飛んだ傷口を追った。
なんだか陰気な女だった。
休み時間も一人。そんな様子を何度か見たことがある。周囲の人間に困ったことがなかった僕とは、正反対だった。話しかけられれば答える。それでも、自分から輪には入ろうとしない。目線は低くて、声も自信なさげに小さい。こういう人間は大抵、他人に何か言われても愛想笑いをして飲み込む。
よく見れば腕にはやたら生傷が多かった。だったら今更、一本増えたって誤差だろう。
悪いけど、それはよろしく。運が悪かったと思って、これも飲み込んで。
きっと僕はこれから何度も指を切るような小さな傷を作るんだから。そして死んでしまうほどの大きな傷も何度も作るんだから。傷が消えて、近くの誰かに傷ができて、それになんの違和感も持てない。そうなるはずだった。
ただ、この日はいつもと少し違った。
肩が小刻みに震えていた、膝が不規則なリズムで机の柱にぶつかっていた。指先から零れた一滴の赤に、彼女は息も忘れたように見入っていた。ぽたっと、それが配られたばかりの真っ白な紙を汚す。二滴目。三滴目。ようやく呼吸を思い出したのか、浅い呼吸を始める。
お経のような古典教師の声だけが充満していた教室に、突然、ガタン、と大きな音が鳴った。倒れた椅子に全員の視線が向く前に、彼女はもう走り出していて、教師が呼び止める声を上げても、もう彼女は廊下を駆け始めた頃だった。
頭の寂しくなった中年教師が「静かに、自習しとくように」とだけ告げて廊下に消えていく。生徒だけになった教室は一気に緊張の糸が切れたように、どっと賑やかになった。いつだって話題を求めていて、だから格好の餌だった。
そこかしこから、ヒステリックだとか、紙に血がついてるし自傷してたんじゃないかとか、彼女についての憶測が飛び交う。好き勝手な都合のいい偏見だった。日陰者が好んで注目を浴びるわけないのに。
「なにあれ、急にどうしちゃったわけ」
逃げ出した彼女とは反対隣の、よくつるんでいた女子生徒から声が掛かる。口数が多くて常に話題に飢えていた彼女にとって、きっと黙ってることなんて出来なかったんだろう。この手の感情を共有したいだけの中身のない掛け合いは、楽でよかった。
「なんだったんだろうな」
「幸助さっきあの子の事、じっと見てたでしょ。なにかしたんじゃないの?」
「なんにも。ただ……偶然、さっきのプリントで指を切ったとこをみた。それだけ」
「うえ、きも。最悪じゃん」
清々しいくらいレスポンスが早くて、浅いだけの返事だった。考えるより先に口が動いているんだろう。
「ね、幸助の手見せて」
何か次の話題でも見つけたのか、了承も待たずに彼女は僕の手首をつかんで持ち上げ、観察を始める。こうなった彼女は否定すれば癇癪を起こす、されるがままが吉だった。
「うん。大丈夫そう」
「なにがだよ」
掴まれた腕を振りほどこうと揺らしてみる。彼女の手は熱を帯びていて、梅雨の湿気と一緒に纏わりついてくるようで、そろそろいい加減鬱陶しかった。それでも解放されない。まだ、駄目らしい。
「あの子ね、呪われてるんだって。そういう噂があるの。だから確認してあげた、幸助は大丈夫。私が保証してあげる」
「それって」
「いじめじゃないから」
「そうか」まだ何も言って無かったんだけど、まだその意識くらいはあるらしい。都合よく目を背けるのは彼女の十八番だった。でもそこはどうだっていい。
「呪いだなんて穏やかじゃないけど、それってどんなの」
そう聞いた僕に彼女は少し目を細めた。こういう時は大抵何かを品定めしていて、もっと言えば気持ちを察しろと強要する合図だった。外せば長い。正解は陰口じみているけれど、あの女に思い入れなんてなかった。
「……ほら、ちょっと不気味だったからさ」
曖昧に口元を歪めておく。
鼻を鳴らして彼女の少し口角が上がった。どうやら及第点は超えたようだ。単純で扱いやすいから助かる。
「あの子の傷を見たら、同じところに怪我するんだって」
馬鹿しか信じないような、そんな話だった。それでも、どうしてかその話はざらざらと居心地が悪い。
「なぁ、あの子って」「そんなことは、もうどうでもいいの」
強引に声がかぶせて、そして彼女は僕の掌にぴったりと手を合わせた。自分から合わせてきたくせにちょっとだけ震えていて、目線はただくっついた手の方だった。
「幸助。手、また大きくなったね。ふふっ、もうシワ一個分くらい違うよ」
嫌でも、密着してしまえば彼女の掌が伝わってくる。暑苦しさすら覚えるような体温、さっきよりべったりとした湿度、そしてその凹凸と。
「傷は、もう痛まない?」
「……うん。心配してくれてちょっと嬉しい」
「そりゃ、まぁ」
小さな窪み。女子高生の掌には到底不似合いなその窪みは、やけに大きな存在感を放っていた。それはボールペンが軽く突き刺さってしまった傷跡で。先週僕の掌から彼女へと飛んだものだった。
「もう痛くないから。もうちょっとだけ」そう彼女が言いかけて、僕らのやり取りを覗いたのか前の席の男子生徒が「おい、授業中にイチャイチャしてんじゃねぇよ」なんて冷やかしを入れてくれた。流石に耐えかねたのか「そんなんじゃないし」なんて彼女は耳を赤くして手を放す。
僕は解放された。ばれないようにこっそりポケットの中で手の湿気を擦り落として、ようやく心身の穏やかさを取り戻す。
結局あの禿教師は戻って来ないまま終了のベルは鳴った。あの陰険な女はこの日は教室に戻って来なかった。
他人が傷つこうが興味なんてなかった。それは今まで何度も自分がやってきたことに他ならなかった。いじめられてようが、変な噂を流されていようが、傷を擦り付けられようが、それはきっと立ち回りの悪い当人の過失なのだと。
あいつが勝手に騒いだ。それだけのはずだった。
高々切り傷一つ。大騒ぎするほどの痛みじゃない。それにああいう人間は注目を浴びる真似は嫌ってしない物だと、そう思っていた。なのに、誰に見られることもお構いなしで、教室から立ち去った。
それだけだった。そう片付けたはずなのに。真っ白な紙に落ちた三滴の赤は、どうしてかべったりと目に残って離れなかった。




