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もう数えない

もう数えない

018


 何度名前を呼んだのかわからない。


 喉が裂けるほど叫んだはずなのに、その声が栞へ届いたのかも分からなかった。


 白かった。


 光も、音も、世界も、痛みも。何もかもが混ざり合って、色がなくなっていた。


「栞」


 腕の中にいた彼女を探す。


「栞」


 離してはいない。それだけは分かった。


 指先に制服の布が触れて、胸元には彼女の頭がある。背中に回された腕も、まだ僕に絡みついたままだった。


 きっと幻だった。それでも、彼女の返事がないことだけは、耐えられなかった。


「栞ッ」


 名前を呼ぶ。強く。何度も。


 そうしているうちに、声が重なった。


 もっと幼くて、甲高くて、泣きじゃくっていて。なんて言っているのかも分からない。けれど、それは聞き間違えようがない、僕の声だった。


 そうだ。あの日も僕は彼女の名前を叫んでいた。


 道路の真ん中。


 照り付ける日差し。


 転がっていくボール。


 蝉の鳴き声がうるさくて。


 目の前で、動かなくなった栞がいた。


 思い出した。僕は彼女に手を伸ばして。けれど、届かなかった。大きな車体はブレーキ音を響かせて、彼女だけを飲み込んでいった。


 腕の中で、あの日の栞の体が壊れていくのを感じた。


 僕の骨が砕けた。肺が潰れた。腹が裂けた。それでも、僕が受けた痛みじゃなかった。これはきっと、栞の痛みだった。


 あの日、僕は彼女から死を奪った。奪ったくせに、受け入れることができなかった。自分のものにした彼女の一部を、受け入れられずに、誰かに押し付けた。


 車の運転手へ。通りすがった通行人へ。僕に好意を向けてくれたあの子に。僕を気にかけてくれた彼に。両親に。担任に。クラスメイトに。名前も知らない、顔も覚えていない誰かに。


 降りかかった不幸は、最初から僕のものじゃなかった。


 僕はこの六年間。何度も何度も傷を手放し続けた。自分で奪ったくせに、誰を大事にしたかったのかも忘れて。痛いから、苦しいからと、誰かになすり付けて。


 そうやって、最後に栞へ返してしまった。


「栞」


 返事はない。


 腕の中は空っぽだと思ってしまうくらい、軽かった。このまま目を開けて、彼女がいなくなってしまう世界を見る勇気は、僕にはなかった。


 十年前もそうだった。


 僕はただ、彼女がいなくなることだけが受け入れられなかった。


 だから、奪った。そして今度は奪ったものを手放した。


 もし。


 もう一度だけ、選べるのなら。


 あの日、受け取り損ねたものを、今度こそ僕のものにしてしまいたかった。


 彼女の痛みが欲しい。彼女の傷が欲しい。彼女のその小さな体に降りかかるはずだった死まで、全部。受け止めて、愛したかった。


 栞の傷つくところだけは、もう見ていられなかった。


 腕の中の彼女を、もっと強く抱きしめる。


 もう逃げない。もう数えない。もう誰にも渡さない。苦しくても、死んでしまいたいと思っても。今度こそ手放さない。


 そう、強く願った。


 あの日と少しだけ変わった僕の願いは。


 光が消えて、そうやって世界は醒めた。


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