僕の選択
僕の選択
019
低く、一定の調子で声が続いていた。
浅学な僕には到底意味を持たない音の連なりが、この空間にゆっくり漂っている。優しい花の香りがする。目を閉じていると線香のにおいまでしてくるようだった。
どうやら、僕は死んだらしい。
ゆっくり目を開ける。
白い天井、白い壁、白い布団。
そして、ベッドの横で両手を合わせながら、神妙な顔つきで経を唱えている男が一人。
「……それ、やめてくんない?」
声は掠れていた。
けれど、ちゃんと届いたらしい。彼は唱えるのをやめて、閉じていた目を開いた。
「やっと起きたか」
「だいぶ趣味の悪い目覚ましだったよ」
「なんだ、口の悪い悪霊ならとどめ差してやるのもやぶさかじゃないぞ」
「今はほんとに洒落にならないから」
むせ込んで、肺から血の味がする。
「人が折角供養してやってたのに」
「まだ早い」
短く返す。
息を吸えば肋骨辺りが軋む。首を少し動かしただけで、背中を伝うように鈍い痛みが走った。右腕は仰々しいギプスで固定されていて、左腕にも包帯がまかれていた。熱い。きっと皮膚が無かった。両足も指先だけが動かせて、力を入れるだけで鋭い痛みがあちらこちらに走る始末だった。
担任の第一声を借りるなら、これはもう「傑作」だった。
「お前が死んだときの予行演習しとかにゃならんだろ」
「お前、本当にそうなったときに今の言葉後悔するなよ」
「ちゃんと供養してやるよ。住職として責任もってな。あんまりはやかったら、まぁ見習い割引でもしてやる」
「生臭坊主が」
彼は口元を抑えた。病室で経を読む不正解をしておいて、今更病室では静かにしなきゃいけないと思ったのだろうか。それでも、堪えようとして、結局耐えられなかったらしい。肩を揺らして笑い始める。
僕もつられて、そして全身が痛んだ。
「っ……」
「馬鹿だなぁ、笑うからだろ」
「お前のせいだろ」
「まぁ、生きてる証拠だ」
そう言って彼はベッドの脇の椅子から立ち上がった。
少しだけ顔がやつれて見えた。目の下には薄く隈が出来ていて、いつもより髪が整っていない。それでも、聞く気にはなれなかった。
「じゃ、俺はそろそろ行くわ」
「もう帰るのか」
「女の子と予定あるからさ」
「薄情だ」
「それに、俺じゃないほうがお前も嬉しいだろ」
「なんだよ、それ」
返事の代わりに、彼は病室の入口に目を向けた。少し遅れて、控えめなノックが聞こえる。それから扉がゆっくり開いて、隙間から栞が顔を覗かせた。
「入っていい?」
「俺に聞くなよ」
「それもそっか」
栞は小さく笑った。
制服姿だった。胸元には見覚えのある分厚いファイルを抱えている。
足は、もう庇っていなかった。両手にも、顔にも、見える限り傷はなかった。
「じゃ、ごゆっくり」
彼は栞とのすれ違いざまに軽く手を上げる。
「次来るときはもう少しまともな見舞いにしてくれ」
「しゃーなし、うちで一番安い木魚持ってきてやる」
「二度と来るな」
「薄情だな」
最後にもう一度笑って、彼は病室を出て行った。扉が閉まる。
急に静かになった。
栞はしばらく入り口に立ったまま、僕を見ていた。
「座ったら」
「うん」
さっきまで彼がいた場所に、腰を掛ける。膝の上へクリアファイルを置いて、それから僕の全身を確かめるように、視線をゆっくり動かした。
「やっぱり、酷いね」
「傑作だろ」
「うん。思ってたより酷い」
「でも、半年くらいで元通りだって」
「半年」
「若いから治りも早いんだって」
「長いね」
「死ぬよりは、短いよ」
栞の表情から、少しだけ力が抜けた。
事故の後。僕の全身は文字通り壊れていた。肋骨は何本も折れていた。右腕と左足も。骨盤にはひびが入り、肺も傷ついていた。何かが間違えば、全てが致命傷になりえていた。実際、病院へ運ばれた時は虫の息だったらしい。意識がないまま受けたオペでは、心臓が止まりかけただとか。そんな話を聞いた。
それでも、命は繋がった。
死ぬはずだった僕を、それでも生かしたのは、神様の恩情じゃなかった。栞の強い願いでもなかった。そんなファンタジーは起こらなかった。
事故現場に偶然、応急処置のできる人間が通りかかったこと。受け入れ先の病院に、必要な設備と医者が揃っていたこと。
血液も足りた。手術も間に合った。つまり、僕を救ってくれたのは現代医療だった。
万歳。
世界が僕らを特別扱いしたわけじゃない。運命を乗り越えたわけじゃない。ただ助かる可能性の中に、たまたま僕が残った。ただほんのちょっと運が良かった。それだけだった。
「幸助君が全部持って行ったんだって」
病室の時計が、一つ音を立てた。
「なんで、そんなことしたの」
責めるような声じゃなかった。怒ってもいなかった。ただ、悲しそうな顔をしていた。
「欲しかったから」
「それで死ぬかもしれなかったのに?」
「それでも、見てられなかったから。どうしても、こうしたかった」
それだけだった。彼女が傷つくところを。彼女が壊れるところを。彼女が僕の腕からいなくなるところを。もう二度と、見たくなかった。
「勝手だよ」
「知ってる。僕は勝手で、最低だ」
嫌がることは分かっていた。望まないことも分かっていた。それでも、僕が押し付けた。
「それでも、欲しかったんだよ」
栞は何も言わなかった。膝の上に置いたクリアファイルの角を、指先で何度もなぞっている。
「一年」
栞の指が止まった。
「多分それくらいはある」
「……何が?」
「僕の時間」
口にすると、思っていたよりずっと軽い言葉だった。
「こんな大きい事故はそう簡単に起きない。本当にこうやって死にかけるようなことだって、だいたい年に一回くらいだった」
「だいたいって」
「多い年は三回くらいあったかもしれない」
栞は呆れた顔をした。けれど、少しだけ泣きそうにも見えた。
「外に出なければ、なんてのはもう考えない。まぁ、それでも、まだ当分は出してもらえないだろうけど」
彼女が望んだ時間から、僕が勝手にいなくなるようなことはしない。出来るだけ不運には気を付けてみる。
それでも外に出る。学校へ行く。映画を見る。甘いクッキーを食べる。キャッチボールをする。そして何度だって恋人らしいことをする。
「一年はある」
何の根拠もなかった。明日、また同じ事故に遭うかもしれない。考えにくいけれど、そういうことだって起こるのかもしれない。でも、なんとなく、これまでの六年の経験が、それはなさそうだという。
半分は、自信だった。
もう半分は、ただの願いだった。
「だから」
動く左手で、包帯だらけで指先すら上手く曲がらない不格好な僕の手を、彼女に伸ばす。
「その間だけでいいから」
栞の顔を見る。
「君の時間を、僕にください」
彼女はしばらく動かなかった。目元にたまったものを落とさないように、何度も、何度も瞬きをした。
「よくばり」
「お互い様だろ」
栞は泣きながら笑った。そして伸ばした僕の手を取った。指先から彼女の温度が伝わって来る。
傷はもう飛ばなくなった。痛みも消えなくなった。それでも、もう手放したいとは思わなかった。
栞は僕の手を両手でくるんだ。
「じゃぁ、退院したら。まず、何をしようか」
「キャッチボール」
「そんなすぐには無理でしょ。きっと半年後とかだよ」
「じゃぁ、映画」
「それは、ここでも見れそう。私のおすすめの映画全部一緒に見よう」
「なら、クッキー」
「また作ってきてあげる。ちゃんと甘い奴」
「少しくらいしょっぱくたっていいよ」
「それは駄目」
そんなくだらないことを僕らは並べあって。一緒に笑った。
やっぱり全身が痛んだ。それでも、その痛みまで愛おしいと思えた。
この痛みは僕の物だった。
そして、隣にいる彼女との時間も。
今度こそ、僕が選んだものだった。
(了)
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PS
あと、その行為は私の励みにめちゃくちゃなります。
次第によっては、今回出てきた友人君の話を書きます。




