痛みを返して
痛みを返して
017
「時間はあげる。だから──────かわりに思い出が欲しい。栞を十年先も思い出せるような思い出を、数えきれないくらい」
きっとそれくらいは許してくれると思った。
「よくばり」
「お互い様だろ」
繋いだ手を握りなおす。栞も同じだけの力を返してくれた。
十年先。
自分で言っておきながら、その遠さを想像することができなかった。明日さえあるかわからない彼女を、十年先の僕が思い出す。そんな未来を口にしてしまったことが、今更になって苦しくなってくる。
それでも撤回はしない。
忘れない。
思い出せなくなった思い出の分まで、今の彼女を覚えていたかった。
「どんなことが思い出になるかな」
栞が聞いた。
どんなことだって、きっと思い出になる。忘れない。それでも、何か特別なものが欲しかった。
辺りを見回す。河川敷、夜、遠くに並ぶ民家の明かり、虫の音。二人で歩くなら、これまでと何も変わらない。
匂いや音まで一緒に思い出せるようなもの。それを僕は探した。
夜空の端が、一瞬だけ赤く染まった。栞も気づいたらしく、同じ方向へ顔を向ける。腹の底を叩くような破裂音。また一つ、遠くの空に花が咲いた。
「今からなら、まだ間に合うかもしれない」
「バス待ってたらきっと終わっちゃうよ」
スマートフォンを開いて、手ばやに時刻表と今の時間を見比べる。田舎の公共交通機関の貧弱さを痛感した。
「タクシーで行こう」
「高いよ」
「今日の時間はもう戻ってこない」
「間に合うかもわかんないのに?」
「それでもいい、きっとやらなくて後悔するより、思い出になる」
口にしてから、随分露骨な言い方だったと思った。彼女は何も言い返さなかった。
たまたま通りすがった一台を止めて、後部座席に乗り込む。運が良かった。そんなことを思う日が来るなんて思わなかった。行き先を運転手に伝えると、少し驚いたようにバックミラー越しに僕らを見た。
「今からだと、最後のほうしか見られないと思いますよ」
「それでもいいんです」
「出来るだけ急ぎますけど、道も混んでるかもしれません」
「お願いします」
車が走り出す。
栞は隣でシートベルトを締めて、それから料金表示へ目を向けた。数字が増えるたびに、わずかに眉間に皺が寄る。そんな表情一つからも、今は目が離せなかった。
「やっぱり、高いよ」
彼女に小声で耳打ちされる。
「もう乗った。だから、文句はいいっこなし」
「半分出す」
「いらない」
「でも、二人で見るんでしょ」
「じゃぁ、今度。何か奢ってくれればいい」
今度。そう言って彼女は窓の外へ顔を向けた。その約束がどれだけの可能性を持っているかなんて、もう僕には分からない。それでも、あって欲しかったから。そう口にした。
「今度ね。ちゃんと覚えとくから」
走り始めて、十数分経ったころ。段々とその一部はもうはっきりと窓から見えるようになっていた。白く咲いて、遅れて大きな音が響く。
「あ」
ひときわ高く上がった花火が、建物を通り越して、夜空に大輪を咲かせる。二人で窓のほうに身を寄せていても、それだけは見切れなかった。
次の花火が音を立てて空に昇る。今度は青だった。電柱にかぶって、上手く見えなかったけれど。それでも、彼女は見惚れていた。音も少し遅れて届いて、信号で止まれば建物に遮られる。それでも、栞は夢中で外を眺めていた。
花火を見る栞の横顔を僕は見ていた。
光が開くたびに、その瞳の色が変わる。
頬が明るく照らされて、消えればまた夜の色に戻って、それでも少しだけ赤が残って。
「幸助君も見なよ、いつ終わっちゃうかわかんないんだから」
だからこそ。
「ちゃんと、見てるよ。忘れないように」
「そう」
栞は少しだけ顔をそらした。窓に映った耳が、赤く見えた。花火のせいだったのかもしれない。
会場へ着くころには、辺りはすっかり人で埋まっていた。浴衣姿の男女や、肩車をされた子供。皆が同じ方向へ顔を見上げている。そのおかげで、屋台の前だけは空いていた。
金額を見たらきっとまた文句をたれそうで栞を先に下して、料金を払った。
「間に合って良かった。きっとあと十分くらいは見れますから」
「ありがとうございました」
「良い十分を買いましたね。ほら早く行ってあげてください。楽しんで」
降りた先に彼女は居なかった。
慌てて周囲を見回す。視線のすぐ先で彼女は見つかった。両手にりんご飴を持っていた。
「これ、幸助君の分」
そう言って彼女は片方を差し出す。
「好きだったでしょ、りんご飴」
僕の知らない好みだった。でもきっと、彼女が言うならそうだったんだろう。
「これで、ちゃんと約束守ったから」
「うん。ありがとう」
相変わらず、不器用だった。反故にしてくれたってよかった。「今度」のまま残してくれた方が、ずっと心細くなかったのに。
花火の音が響く。
それでも二人で笑って。人混みを避けるように、会場からちょっとだけ外れた川縁へ向かった。川沿いには細い道路が一本伸びていて、その脇の草地に二人で並んで座る。花火を見るためなのか、僕らと同じように路肩へ腰を下ろしている人もちらほらいた。
夜空へ光の尾を引いて、黄金色に滴るように咲いた。今度は遮るものは何もなかった。
視界いっぱいに広がっていく光が、水面を照らす。ほぼ同時に轟音が届いて、胸を震わせた。
栞は息を飲んで見上げていた。
その横顔が、何よりも綺麗だった。
頬へかかった髪。少し開いた唇。何色も映す瞳。全部、覚えておこうと思った。十年先でも、もっと先でも。
「何見てんの」
「栞」
「さっきだって見てたでしょ」
「綺麗だったから」
「もう終わっちゃうよ」
「分かってる」
「わかってない」
そう言って恥ずかしそうに顔をそらして、誤魔化すように赤い飴に歯を立てる。上手に割れなかったらしく、不服そうに眉を寄せて、チロチロと舐めていた。
可愛らしいと思った。
手をつないだ、好きだと伝えた、花火をみた。恋人らしいことなんて、それくらいしかしていないけれど、それだけで胸はもう収まらないくらい、どうしようもなく僕は満たされていた。
「栞」
「なに」
「一緒に来れて良かった」
「……うん」
栞は笑った。
「すごく」
最後の花火が夜空を埋め尽くした。
幾重にも色が重なりあって小さく陽が戻ったみたいに辺りを明るく染めて、それを最後に、空は何事もなかったみたいに暗くなった。
少しだけ間をおいて、まばらな拍手が聞こえる。
そうやって、短かった祭りは終わった。
目的を失った人の波が、一斉に帰路に向かい始める。蜘蛛の子を散らすように、川縁から、屋台から、道路から、人影は消えていく。
それでも、僕らは立ち上がらなかった。
喧騒が遠くに消えて、静かだった。
食べかけのりんご飴を舐めながら、二人で川を眺めていた。
さっきまで腹の底を震わせていた破裂音が嘘みたいに、虫の声と水の流れる音だけが戻ってくる。
沈黙は嫌いだったはずなのに、今は何も話さなくたってよかった。
繋いでいた手だけが熱かった。
それでも、足りなかった。
もっと近くで彼女の体温を感じていたかった。
栞を見る。ほとんど同時に、彼女もこちらを向いた。何かを尋ねる必要なんて、もうなかった。栞の指が落ち着かないみたいに、二度僕の手の甲を叩いた。
だから、僕は彼女のその小さな体を抱き寄せた。
一瞬だけ、彼女の肩が強張った。けれど、すぐにその細い腕が僕の背中に回る。
食べかけのりんご飴が二つ、夏の夜に落ちた。
頬の近くに髪が触れた。柔らかいにおいがした。胸元に栞の体温があった。
どちらの心臓の音か分からなかった。それでも、やけにそれは速かった。
「ねぇ、幸助君」
耳元で名前を呼ばれる。
「大好き」
囁くような声だった。それでも、胸の奥まで届く声だった。
「僕も」
もっと気の利いた言葉があったのかもしれない。それでも、今はそれだけでよかった。
「栞が、大好きだ」
遠くで車の走る音がした。さっきから、何度でも聞こえていた、なんでもない音だった。
それが、少しずつ、大きくなる。間の悪い奴だとも思った。
夜道を照らす光が、一瞬僕らを横切って。
それは、知ってる光景だった。
辺りが真っ白に染まる。耳をつんざくようなクラクションが鳴る。エンジン音がすぐそこまで迫っていた。
ここが、僕らのタイムリミットだった。
何が起きたのか理解するより先に、栞を抱く腕へ力を込めた。
もう何処かに逃げる時間はなかった。
彼女だけでも、突き飛ばすことが出来たのかもしれない。けれど、僕は離せなかった。
失いたくない。
その一つだけが、頭を埋め尽くしていく。
だからもっと、強く抱きしめた。
彼女が何処にも行ってしまわないように。
今度こそ、僕の腕から奪われてしまわないように。
「ありがとう」
そう聞こえた気がした。




