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時間をちょうだい

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016


「……栞が、死んでる?」


 聞き返した声は、自分でも驚くほどに平坦だった。


 意味が分からなかった。いや、ただ分かろうとしなかっただけだ。だから、言葉をそのまま返した。受け入れられるわけがなかった。


「死ぬはずだった。死ななきゃいけない。そっちの方がもしかしたら、正しいのかもしれない」


 栞は繋いでいた手を離した。


 指先から彼女の温度が抜けていく。追いかけて握りなおすことだってできた。それでも、僕は彼女が手放した意味を、受け取らなくてはいけない気がした。


「事故の時、突き飛ばしてくれた」


「それが、どうしたんだよ」


「あれね、多分。間に合わなかったんだよ」


 栞は自分の胸元に手を当てる。何かがまだそこにあるのを確かめるみたいに、白いブラウスを皺になるくらい、強く握った。


「あの時、私は死ぬはずだったんだよ」


 盛んになった虫の鳴き声が、やけに煩かった。


「なんで。……どうしてそう思ったんだ」


「どうしてだろうね。誰かに教えてもらったわけじゃないし、はっきりしてる訳でもない。証明なんてできっこないんだけど」


 栞は頷く。「それでも」


「それでも、この傷が帰ってきたときに、分かっちゃった」


「何を」


「私がずっと失くしてたものが、ずっと幸助君の中にあった。それが分かっちゃった」


 言葉の意味を考える。


「事故の事か」


「多分、それだけじゃない」


 彼女は僕を見る。傷なんて何も残っていないけれど、そんな消えてしまった傷を眺めているようだった。


「幸助君さ、ずっと怪我ばかりしてたんじゃない?」


「昔から、運がなかっただけだよ」


「違うよ」


 栞は静かに否定する。


「私が死ぬはずだった一回を、幸助君が持って行ったから。何回も、何回も、降りかかってた」


 荒唐無稽だ。


「そんな都合がいい話があるか」


「都合なんて何にもよくない」


「栞が事故に遭いかけた事と、僕がその後怪我をしてきた事は別だ」


「別だって、思いたいだけでしょ」


 栞の声がわずかに強くなった。


「いつもだったら、冷静にちゃんと繋げて考えてくれるでしょ。だから、そうしてよ。私のせいじゃないって言ってくれるなら、ちゃんと最後まで受け取って」


 窘める側のほうが辛そうだった。


「傷が戻ってきたとき、最初にね、小さな幸助君が叫んでたとこが見えた。何かを抱えてて、それが私だったって気づいて。怖くなった」


 栞は唇を噛んだ。


「このまま、幸助君が持って行ったものが全部戻ってきたらって、そう思った」


「全部って」


「全部だよ。幸助君が今まで怪我してきた分。首が折れたことも、腹を裂いたことも、死んだ方がましだって思える痛みも全部。それはきっと、私に来るはずだった一個の死を細かく分けただけのものだったら」


 言葉の途中で、栞ののどが小さく鳴った。


「全部返ってきたときに、私は今度こそ死んじゃうんだろうなって、そう思った」


 教室を飛び出した、あの日の背中を思い出す。たかが指先の切り傷だった。ほんの三滴紙を汚しただけだった。それなのに栞は息の仕方さえ忘れたみたいに震えていた。


「だから、あの日逃げたのか」


 栞は黙って頷いた。


「怖かった。幸助君から帰ってくるのが、自分が後どれだけ過ごせるんだろうって、何にもやってこなかったなって、怖くて、私は幸助君から逃げた」


 栞は少しだけ目を伏せる。


「あの日の夜、偶然お母さんが階段で怪我したの。その日病院に行ったら、骨折してるって言われて」

 でも、と栞は続ける。


「次の日には、お母さんの骨は治ってた。そして私の足が折れてた」


 栞は自分の右足へ目を落とした。もうギプスはない。けれど、まだそこに何か重たいものが巻き付いているみたいに、ゆっくりと靴先を動かした。


「きっと、学校に行きたくなかったから。幸助君から逃げたかったから。私が、お母さんの傷を取っちゃったんだと思う」


「そんなこと……」


「事故の後から、たまにこういうことはあったんだよ。何が原因で起こるかなんてわかんなくて、結果変な噂が流れちゃったりもしたけど。でも今だったら分かる」


 彼女が再び口を開いた。


「ほんとはさ、これって私の傷をずっと探してたんだって」


 彼女がどれだけの不安を感じたのか。僕には想像ができなかった。


「それなのに、うちにプリント持ってくるんだもん。本当に、最悪だったよ。先生、余計なことするなって思った」


 ほんの少しだけいつもの栞が混じって聞こえた。


「だったら、拒めば良かっただろ」


「出来なかった」


 栞が僕を見る。


「都合がいいよね。私は自分が死ぬのが怖くて、幸助君が傷ついてるのも分かってるのに。返されるのが怖いって突き放そうとしたのに。でも、それでも。幸助君が来てくれるから、拒めなかった」


 風が吹いた。一瞬、虫の声が途切れる。


「ずっと、私のペースに合わせてくれた。私が話すまで待っててくれた。近づかないでって言えばちゃんと止まってくれた」


「それは、嫌われたくなかっただけだ」


「知ってるよ」


 栞はあっさりと答える。


「幸助君が優しい人じゃないなんて、ずっと前から知ってる」


「随分な言い草だな」


「それでも、私を見捨てれない人だって知ってる」


 言い返せなかった。


「私が作ったクッキー目の前で食べたでしょ。しょっぱいって言いながら、ちゃんとおいしいって言ってくれた」


「そう思ったから。そう言っただけ」


「うん。知ってるよ。だから困った」


 栞の声が少しだけ震えた。


「幸助君は私を忘れてた。私がどれだけ幸助君を知ってても、今の幸助君にとって私はただのクラスメイトで。それでよかったはずだったのに」


 彼女は立ち止まって、僕を見る。大粒の雫をためて、それでも精一杯笑顔を作ってくれた。


「また、好きになっちゃった」


 心臓が一つ、大きく鳴った。


「昔の幸助君を追いかけてたわけじゃないよ。口が悪くて、すぐ人を小馬鹿にして、それでも雨の中プリントを濡らさないように走ってくる、今の幸助君を見てた」


 何を返せばいいのか、分からなかった。


 少し前までなら、きっと気の利いたことの一つでも言えたんだと思う。


 告白された人間が何を言えば正解なのか。どんな顔をして、どんな声で答えれば、相手が安心してくれるのか。そういう借り物の答えだけしか知らなかった。


 でも、栞にだけはそんな借り物を渡したくなかった。


「栞が好きだ」


 だから、何も着飾れなかった。ただ思ったことをむき出しで伝えることしか、今の僕には出来なかった。


 栞の瞳から、一粒零れた。


「……うん」


 泣きながら嬉しそうに笑った。きっとその顔を、僕はもう忘れることなんて出来ない。そう思うくらい目に焼き付いていく。


「知ってた?」


「なんとなく、分かるよ。幸助君分かりやすいから」


「ダウト」


「本当だよ。私を見る時だけ、ちょっと馬鹿っぽい顔になるし」


「それ悪口だろ」


「半分くらいは褒めてる」


「もう半分は」


「そんな顔も、私は嫌いじゃない」


 栞は目元をぬぐって、また前を向いた。けれど、その横顔から硬さは消えなかった。


「死にたくないな」


 そう彼女は言った。


「こんなに嬉しいのにな」


 僕は耐えられなかった。


「こんなに、好きでいてくれてるのに」


 もう彼女の顔を見れなかった。


「でも、思い通りにならないことくらい、もうわかってる。幸助君が奪ってくれなかったら、私はこうやって両思いになることもできなかった。もう十分すぎるくらい幸せなのに、でももっと欲しいって思っちゃった」


 当たり前だ。まだ僕だって栞とやりたいことが山ほど残ってる。


 鼻を啜る。何度拭ったって視界がゆがんだ。


「一週間後かもしれないし、一年後かもしれない。もしかしたら一時間後かもしれない。でもきっとちゃんと私に帰ってきて、きっと死んじゃう。それだけは分かる。幸助君が引きこもれば、少しだけそれが伸びるのかもしれない」


「だったら」


「もう二週間も待ったよ。だから、これ以上私の残りの時間から幸助君を奪わないで」


 そう言われて顔を上げる。


「お願い。恨んでくれたっていい、でも一生に一度のお願いだから、聞いてほしい」


 その言い方がどうしようもなく嫌だった。


 一生に一度。栞の口から出ると、その一生の短さを嫌でも意識してしまう。


「もっと映画も見たいし、クッキーだってちゃんと甘いのを食べさせたい。キャッチボールだってしたいし、もっと恋人みたいなことも、幸助君としてみたい」


 だから。そう彼女は続ける。


「後で恨んでくれたっていいから、だから、私が生きてる間だけでいいから」


 強引で、強情だった。少しでも長く生きてほしい、僕のその思いを踏みにじっても、彼女はお願いをする。


「それまでの間だけ、幸助君の時間をちょうだい」


 残酷な願いだった。いつ死ぬか分からない彼女の隣で、その瞬間を待てと言っている。僕が傷つくたびに、栞の終わりを近づけるのかもしれない。世界の絡繰りなんて何もわからない。今日笑って、明日失うのかもしれない。


 それでも逃げるなと、彼女は言う。


「いいでしょ」


 差し出された手が、小さく震えていた。


「それ、僕が断れると思ってるの」


「断ってくれたっていい、それくらいの事を言ってる自覚くらいある」


「嘘つけ」


「うん。嘘」


 栞は泣きながら笑った。


 だから、僕は彼女の手を取った。

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