君の隣を歩けるから
君の隣を歩けるから
014
呼び鈴が鳴ったのは、翌日の夕方だった。
どこか控えめに、一度だけ。
宅配業者ならもっと無遠慮に立て続けに押してくる。担任は、きっと本当に必要だと感じるまで来ないはずだ。彼だったら、きっと先に連絡を寄こすだろう。
だから、玄関の向こうに誰が立っているのかなんて、考えるまでもなかった。
それでも、直ぐには立ち上がれなかった。
昨日、会いたいと言った。
担任は栞に伝えておくとも、明日行かせるとも言わなかった。けれど、あの人の事だ。きっと最初から、僕がどう答えていようがそうするつもりだったんだろう。
間隔をあけて、もう一度。呼び鈴が鳴った。
玄関までの長い廊下を、転ばないようにゆっくり歩いた。床に落ちているものがないか確かめて、壁へ手を添えて、一歩ずつ進む。
扉の前で立ち止まる。この向こうに、栞がいる。勿論、会いたかった。けれど、扉を開いていいのか。僕が彼女を壊してしまわないか。どうしても、怖かった。
「幸助君」
扉越しに名前を呼ばれた。何度も聞いた、あの声だった。それだけで、考えていたことなんて、全部どうでもよくなる。
扉を開ける。
眩しい橙の夕景に包まれて、そこに栞は立っていた。
「久しぶり、元気してた?」
学校指定の夏服を着て、胸元には分厚いクリアファイルを抱えて。松葉杖はもう無かった。右足を地面につけて、両足で僕の前に立っている。少しだけ庇うような立ち姿ではあったけれど、もうギプスも包帯もなくて。ごくごく普通の、どこにも痛々しさのない女の子だった。
「足は、もう治ったのか」
「まだちょっとだけ痛いけどね。でもリハビリってそういうものみたいだよ。歩いて、ちゃんと痛みを感じて、そうやって治っていく。だからこうやって歩いてきたんでしょ」
「一人で?」
「他に誰が見えてるの」
呆れたように言いながら、栞は一歩だけ近づいた。足を引きずってはいなかった。顔色も悪くない。どこか痛そうに抑えている様子もない。
「そっか」
それ以上声が出なかった。彼女に聞こえたのか分からないような、そんな漏れた声だった。
大きく息をついて、その場にしゃがみ込む。転んだわけではない。どこかが痛くなったわけでもない。膝から力が抜けて、ただ立っていられなくなった。
「ちょっと、どうしたの。大丈夫?」
彼女は屈みこんで、心配そうな顔で僕を眺める。なんだか勝手に口元が緩んだ。
「本当に、大丈夫だから」
頑固な誰かが言っているような、随分と聞き覚えのある台詞だった。
栞は少し迷ってから、僕の隣に腰を下ろした。狭い玄関で二人並んで座る。少し傾けば肩が触れ合う。そんな距離だった。
以前は栞の家だった。雨で濡れた僕へタオルを被せて、まだ何も知らないまま、こんな風に隣に座って。
「前にも、こんなことあったね」
「僕も今、思い出してた」
「あの時さ、実は。幸助君、自分がびしょ濡れなのに、プリントの事とか気にしてて。ちょっと呆れてた。」
「その時は、それが理由だったんだよ」
「今は、反対になっちゃったけどね」
そう言って彼女は持ってきたクリアファイルを差し出した。二週間分の授業と、僕がいなかった時間、そして担任の青春馬鹿専用問題集なんて表紙の冊子が詰め込まれていた。
「先生から、ちゃんと全部やれって。なんだかんだ、ちゃんと先生なんだよね」
「病み上がりの生徒に届けさせる量じゃないとは思うけどな」
「もう、私は大丈夫だよ」
「まだ足痛いんだろ、それにふらついて転んじゃうかもしれないし」
「心配性」
受け取ったファイルを玄関の端へ置く。
心配くらいするだろう。それくらいしか、出来ないんだから。
「……それだけか」
「持って行けって言われたのは、これだけ。また来週も来なかったら倍量作ってやるって先生息巻いてたけど」
「そうじゃなくて、ここに来た理由」
栞は少し固まった。それでも直ぐに、また意地悪なことを言うときみたいに口をほころばせて、ふふっと控えめに笑う。
「なんか、引きこもってる間に随分、素直になったじゃん」
「考える時間は、腐るほどあったから」
「何それ、私の事ずっと考えてたの?」
「その通りだよ」
「……ズルい」
「何が」
「私が聞いたから、答えただけみたいな顔して、そんなこと言っちゃうところ」
「聞かれなくったって、きっとそのうち言ってたよ。黙ってられるほど、僕は強くなれなかった」
栞は何かを言い返そうとして、やめた。
俯いた顔に髪が掛かる。その隙間から覗いた耳は赤くて。夕日が差し込んだだけじゃきっとなかった。
栞は笑っていた。それが少し不安にもなる。嬉しいだけの顔には見えなかった。
「幸助君」
胸の奥の鼓動が、少しずつ早くなっていく。
「私もね。ずっと考えてたんだよ」
栞は膝の上で両手を重ねた。右の人差し指で、左手の爪を何度もなぞって、落ち着かなそうだった。
「私ね、幸助君に話さなきゃいけないことがある」
彼女は立ち上がる。少しだけ右足をかばっていて、玄関の壁に手をついた。
「ここで話してもいいんだけど。多分、途中で逃げたくなるから」
「栞が?」
「私も、きっと幸助君も」
「そんな話、聞きたくないって言ったら」
「それでも、連れて行くよ」
そう言って、栞は僕へ手を差し出した。
「強引だな」
右の人差し指にあった傷跡は、もう無くなっていた。それでも、その手を取るのは怖かった。
「大丈夫だから。幸助君は、もう何も気にしなくて大丈夫だから」
迷いを見透かされて、彼女は優しい声色でそう言った。
「また傷つけるかもしれない」
「でも、幸助君が私の前から勝手にいなくなるより、ずっといい」
言い返せなかった。
「離してほしいときは、離してって言うから。痛いときは、痛いってちゃんと伝えるから。だから、幸助君も勝手に自分を決めないで」
公園で聞いた声を思い出す。
痛いよ、離して。
あの時の僕は彼女の言葉すら聞けなかった。
「……分かった」
差し出された手を取る。栞の手は確かにそこにあった。ちゃんと温かかった。僕の掌に、彼女の体温が残っていく。
「ちょっと、風にあたりながら話そう」
彼女は玄関を開ける。手を引かれて、ようやく僕は久しぶりの外へ出た。草の青いにおいがする。遠くで虫の鳴く音がする。冷めた風が頬をかすめる。彼女のスカートの裾が揺れた。
不器用に一歩、二歩と彼女は歩き始める。僕のまなざしに気づいたのか彼女は振り返って、口を開く。
「大丈夫。私ちゃんと、君の隣を歩けるから」




