二週間
二週間
013
あの日は栞を背負って彼女の家まで戻った。
右肘を怪我した彼女に松葉杖を使わせるわけにはいかなかった。歩けると彼女は言い張っていたけれど、彼女の感じてる痛みは知っている。ふらふらと体を支える仕草が、見てるだけで危なっかしかった。
背中を向けて乗ってくれと頼んでも、栞はしばらく拒んだ。
それでも僕がなにも言わずにしゃがみ続けていると、やがて諦めたように彼女は肩へ腕を回した。
背中に体温が触れて、持ち上げた体は思っていたよりもずっと軽かった。
今にも壊れてしまいそうだった。それが怖くてならなかった。
三十分かかった道のりを、十分も掛からずに歩いた。その間僕は何も話さなかった。彼女もただ身を任せて揺られているだけだった。
痛むのか、時折指先へ力が入る。
彼女は何も言わない。それでも自分が許せなかった。
彼女の家へ着いて、栞を玄関で下す。「ありがとう」と言った彼女の顔を、僕は最後まで見れなかった。
その日から、僕は学校に行かなくなった。体調が悪かった訳じゃない。どこが痛いわけでもなかった。
朝になれば目を覚まして、制服へ着替えようとしてやめる。ベッドに戻って、天井を見ながら始業時刻を過ぎるのをただ待った。
外に出れば、また不運を起こすかもしれない。
紙で指を切るかもしれないし、階段から足を踏み外すかもしれない、車が歩道に突っ込んでくるかもしれない。
これまでの僕なら、いつもの事だと思えた。
三秒。怪我したって、それだけ待てばよかった。誰が傷ついたって、気にも留めなかった。それだけだった。
でも今は違う。飛ばしたその先で、栞が傷つく。
そう考えてしまったら、もう何もかもが怖かった。
食事は家にあるもので済ませた。風呂場で転ばないように必ず壁に手をついた。包丁は持てなくなった。缶詰の蓋を開けることでさえ避けた。
床に落ちていた充電器のコードを壁際に寄せた。窓は開けなかった、風で何かが倒れるかもしれないと思った。
こんなことで今までずっと浴びてきた不幸が止まってくれるなんて思いはしなかった。それでも僕はできる限りを尽くさなきゃいけなかった。
他人が幾ら傷ついたって良かった。でも、彼女だけにはそうなって欲しくなかった。
スマートフォンには何件か連絡が入っていた。
クラスのグループには、最初の二日だけ僕の欠席を面白がる言葉が並んだ。三日目には誰も触れなくなって、また次の話題が持ち上がっていた。
栞からの連絡はなかった。当然だった。僕も彼女へ何も送らなかった。
何を送ればいいのか分からなかったし、何より僕から彼女にかかわることで、また彼女を傷つけてしまうんじゃないか。そう考えて、何も行動できなかった。
それから、さらに一週間が過ぎた。
『生きてるか』
半分だけ当ててくる彼だった。
その実僕は死んだように生きていて、相変わらずだった。
『一応、まだ生きてる』
『ならいい』
それだけだった。数分後また通知が鳴った。
『たまには、外に出たほうがいいぞ』
事情を説明する気はなかった。説明したところで信じてもらえるような話でもなかった。信じてもらえたとしても、何が変わるわけでもない。
『今はいい』
そう返した。
『もしその気になったら、呼べ。暇だったら来てやる』
学校へ来いとも、何があったんだ、とも言わない。何も変わらないあいつが、少し懐かしかった。
返信はしなかった。
それからまた、一週間が過ぎた。七月に入った。隣町では今日明日で花火が打ち上がるらしい。世間が夏ムードになっていく様子を、ただ画面ごしに僕は見ていた。
担任から電話が掛かってきたのは、昼を少し過ぎたころだった。
「よう、引きこもり。クーラーの付いた部屋で毎日快適に過ごしてるか?」
「先生は、なんか相変わらずですね」
「軽口が返せるなら、まぁ何とかやってそうだな」
「体は元気ですよ」
「体は、ね」
受話器の向こうでプルタブをはじく音が聞こえる。珈琲ブレイクの片手間なんだろう。本当に忙しいのかもしれない。
「学校にはこられそうか」
「まだ、少し」
「そうか」
理由を聞かれると思った。けれど、担任はそれ以上追求しなかった。いい加減な仕事だとは思わなかった。
「草川は、今日から一人で登校してるぞ」
唐突にその名前が出されて、受話器を握る指先に力が入る。
「……ギプスは」
「そんなものとっくに外れてる。まだ、走るのは駄目みたいだけどな。授業も一日受けて帰ってったよ」
「そうですか」
「お陰様で、な。元気そうにしてるよ」
「そう、ですか」
同じ返事しかできなかった。
僕が二週間閉じこもってる間、栞は傷つかなかった。学校に通えるほどに回復して、また普通の生活に戻って。
それなら、このままでいい。
彼女が元の生活に戻れるなら。
「それでだ。お前が欠席してる分のプリントが溜まってきてる」
「家のポストにでも入れておいてくださいよ」
「そんな暇はない。生憎様、先生は便利な配達業者じゃないんだ」
「僕を便利に使ってた人が言いますか」
「そこで、草川だ」
呼吸が止まった。
「彼女の帰り道の途中だし、明日お前の家に持って行かせる」
「やめてください」
考えるより先に、声が出た。
「お前が迷惑じゃないなら、だけど」
「迷惑です。お願いですから、やめてください」
「……そうか」
担任はあっさり引き下がった。それなのに、胸の奥が重く、沈む。
「じゃぁ、草川にもそう伝えておくよ」
「……なんて」
「迷惑だから、お前には会いたくないって」
「その言い方は、おかしいでしょう」
「何もおかしくないだろ。全部お前が言ったことだ。それと、なによりこれは草川が申し出たことだしな。そのまま伝えてやらにゃならん」
また一緒にいてしまったら、彼女が傷つくかもしれない。だから、会わない。それでいいはずだった。
それでも。
「栞が、なんて言ったんですか」
「どんな言葉だったら嬉しい?」
「意地が悪いですよ」
「生徒に成長を促してやってんだよ。まぁ、次掛ける時くらいまでじっくり考えてみるのもいいんじゃないか。時間は腐るほどあるだろうから」
電話を切ろうとしているのか衣擦れの音がする。
「待ってください」
「時間ないんだよね、要件は早く」
きっと、全部わかったうえで背中を押したんだろう。また、この人の掌の上だった。
「栞に、会いたいです」
「迷惑なんじゃなかったのか」
「迷惑ですよ。僕が、彼女の」
きっと、僕が栞に与えるものはこれからも迷惑ばかりだった。痛みも、傷も、不安も。近くにいたら、きっとまた彼女を傷つけてしまう。
それでも。
「でも、会いたいです」
玄関先で、少しだけでいい。
会いたい。
顔が見たい。
名前を呼んで、いつもみたいに顔を上げてほしい。
足が治って、元気に歩いている姿が見たい。
引きこもっていた二週間。僕はずっと、彼女の事ばかりを考えていた。栞が傷つかないことを祈りながら、それでもずっと彼女に会いたかった。
最低だった。
自分のせいで傷つけておいて、それでも本音は隣にいてほしいと願ってる。他の誰かが傷つくより、僕が傷つくより、栞が傷つくほうが嫌だった。
だから、離れた。離れて初めて、その不在がどれだけ大きく僕を抉っていたのかを知った。
「先生」
「聞いてるよ」
「僕はきっと、栞が好きなんだと思います」
受話器の向こう側で短い沈黙があった。
「そうか」
担任は笑わなかった。
「ミイラか、ハリネズミかとも思っていたけど。ただの青春だった」
「何の話ですか」
「お前がこれから考える話だよ」
電話はそこで切れた。無機質な電子音だけが耳元に残る。
好きだった。
こんな最低な僕でも、それだけはどうしようもなく本当だった。




