痛いよ、離して
痛いよ、離して
012
一週間がたった。あの日から昼休みに六人で机を囲むことはなくなった。
彼女はもう僕の隣に座らなかった。目が合えば露骨に逸らされて、廊下ですれ違っても当たり前に通り過ぎていく。他の三人は今まで通り、彼女と仲良くやっている。別に責めたいわけじゃなかった。ただ、昼休みになれば、四人そろって購買に行って。何処で何をしているのか、もう僕は何も知らなかった。
それでいいと思っていた。
自分が選んだことだった。
「今日は外で食うか?」
それでも彼だけは変わらない顔で僕の机を小突いた。
中庭へ出たり、使われなくなった階段に腰を下ろしたり。二人で昼食を取る時間が増えた。けれど、彼にだって都合はある。もともと人当たりが良くて、頼れて、眩しい奴だった。
別の友人に呼ばれる日も、委員会で奔走している日もあった。そんな日は決まって自分の机で、一人でパンを齧った。誰かと話す必要なんてなくて、相手の機嫌をうかがう必要もない。以前の僕なら、そういう時間を好んでいたはずだった。
静かだった。
静かすぎて、咀嚼の音だけがやけに大きく聞こえた。
それでも、彼女には何も話さなかった。
あれからも何度か彼女の家へ通っていた。担任が作った問題集はつい先日最後まで終わってしまって、もう彼女に必要とされる理由を僕は持っていなかった。
それでも。
こんなに周りに人がいるのに、ひどく独りだった。
どうしてか、何も差し出せないのに、まだ彼女に会いたかった。
だから僕は、彼女の家の呼び鈴を鳴らした。
「本当は、今日は来るはずじゃなかったんだけど」
そう言うと、栞は少しだけ驚いた顔をした。
「じゃぁ、どうして来たの?」
「理由がなきゃ、駄目かな」
「駄目とは言ってない」
それだけで、扉は開いた。
理由はなくなった。それでも、小さい画面で一緒に映画を見たりして、これはないだの、この展開は熱いだの語ってみたり、お互いが好きな漫画を持ち寄って趣味が悪いだの、このキャラは最高にしびれるだの、お互いのちっちゃな癖を見つけあって、そんなくだらない時間を僕は彼女と共有した。
草川、そう呼ぶこともなくなった。
栞。
そう呼べば、当たり前みたいに顔を上げる。
それがいつから当たり前になったのかなんて覚えていない。
「外、出てみない?」
その日そう言いだしたのは僕だった。
ギプスはまだ外れていなかったけれど。栞は医者から少しずつ歩く練習をするように言われているらしい。家の中を往復するだけでは退屈だろうし、外の空気を吸うくらいは必要だろうと考えた。
彼女に必要だと思った。少なくとも、そういう理由なら十分だった。彼女も乗り気だった。それ以上の理由を探す必要なんてなかった。
それ以上の理由なんていらなかった。
「幸助君。私が遅くても怒らないでね」
「気長に迷惑かけられるのには、もう慣れてる」
「ふふっ。それもそっか。じゃぁ、遠慮なく迷惑かけさせてもらおうかな」
そう言いながら栞は嬉しそうに松葉杖を引き寄せて立ち上がった。
栞の家から歩いて十分程度の公園まで、かれこれ休憩を入れて三十分ほど掛けてたどり着いた。あまり無理しないように途中で戻る事も提案してみたけれど、見かけによらず彼女は頑固で、だから少しだけ肩を貸したりもした。
「息、上がってるように見えるけど」
「全然、大丈夫だから」
「ちょっとふらふらしてるし。無理だったら引き返してもいいから」
「ちょっと黙ってて」
栞は松葉杖の先で僕の靴を小突いた。
公園につく頃には、額に薄く汗が滲んでいた。木陰にあるベンチまで連れて行って、栞を座らせる。彼女は背もたれへ体を預けて、長く息を吐いた。
「流石に、ちょっと疲れた」
「帰りもあるんだけど、大丈夫?」
「来週からさ、学校にまた行けるようにしたいんだよね」
「あんまり無茶したら体に良くないんじゃないか」
「どうだろ。でも、今は早く戻りたい」
独りでいる学校のつまらなさを知った僕にとって、ずっと独りだった彼女のその言葉は、少し意外だった。
「幸助君さ、学校どう。何も変わってない?」
「普通だよ」
「そっか。じゃぁ私が学校に戻ったら、迷惑かけないようにしなきゃね」
「……」
迷惑じゃない。
そう口にしてしまえばよかった。けれど、言葉にしてしまうと何か別の意味まで付いてきそうで、勇気が出なかった。
失望されるのが怖かったのかもしれない。
栞は僕の沈黙をどう受け取ったのか、膝の上に目を落とした。松葉杖を握る指先だけが、所在なさそうに、そわそわと動く。
「先生がさ、最初は保健室でもいいし、半日でもいいからって言ってて。だからきっと大丈夫だから」
「栞」
「なに」
呼び止めたところで、まだ言葉は見つかっていなかった。
遠くで甲高い子供の声がする。赤いボールが転がってきて、僕の足元でそれはちょうどよく止まった。拾い上げれば、叫んでいた男の子が手を振っている。
「私が投げようか?」
「どっか変なとこ飛んでも嫌だし、いい」
「そのくらいできるって」
「足が治ったら、ね。その時は一緒にキャッチボールでもしよう」
そう言って立ち上がる。栞が不満そうに口を尖らせているのは、もう見なくたって分かっていたけれど。ここは少しだけ大人しくして貰うことにした。
「ほら、行くぞ」
振りかぶった。その時だった。
「危ない!」
栞の声が飛んだ。何かに足首が掬われて、ゆっくりと視界が落ちていく。赤と黄色の三輪車だった。近くの坂から勢い付けて走らせる、そんな子供を見たことがあった。
反射的に右手を着こうとして、でも支えきれずに肘から地面に落ちた。
格好悪いな。
「っ」
三輪車に轢かれたにしては、なかなか。肘あたりから皮膚が削れたみたいな、熱を持った痛みが腕に広がっていく。
「ごめんなさい、大丈夫ですか」
三輪車を追いかけてきた母親らしい女が、男の子の手を引いてやってくる。男の子は何が起きているのかきっと理解できないまま怒られたんだろう、呆然と三輪車の横で立っていた。
「大丈夫です、これくらい」
上体を起こす。派手に転んだだけだ。夏服のシャツの袖が少しだけ赤く濡れていた。皮膚が広く剥けて、砂粒が傷口に食い込んでいた。曲げればまだ熱い。
「本当にすみません。病院に」
「いや、大丈夫です。必要ないですから」
母親の言葉を遮る。
そろそろだった。
三、二、一。
痛みが消える。
何もなかったように。いつも通りに。
右肘を持ち上げて確認する。もう、そこには何もなかった。剝けていた皮膚も、食い込んだ砂も、最初っからそんなもの存在しなかったみたいに消えている。
男の子を見る。
泣いていない、肘も押さえていない。
母親にも変化はなかった。申し訳なさそうにこちらを見ているだけで、痛みに顔をゆがめる様子なんてなかった。
周りを見渡す。ボールを追っていた子供たち、犬を連れた老人、ベビーカーを押す夫婦。
誰も傷ついていなかった。
「幸助君」
栞はベンチから半分立ち上がりかけた姿勢で、こちらを見ていた。松葉杖は地面へ倒れている。
彼女は座りなおす。その動作がぎこちなくて。
嫌な予感がした。
彼女に駆け寄って右手を掴む。長袖の一部が少し黒く濡れているように見えた。
「やめて」
初めて彼女の家を訪れた時と、同じ声だった。それでも、僕は手を止めることができなかった。
「本当に大丈夫だから」
抵抗する彼女の腕を押さえて、ゆっくりとその袖をまくった。
剥けた皮膚。滲んだ血。傷口に食い込んだ小さな砂粒まで。
そっくりそのままに、そこにあった。
何も考えられなかった。驚くことも、疑うことも、答え合わせをすることもできなかった。
ただ掴んだままの栞の手が目に入った。もう一つも絆創膏はない。その人差し指の腹。小さい傷跡が残っていた。
ホチキスが僕の指に刺さった、あの場所に。
「ねぇ、幸助君」
どうしてそんな優しい声が出せるのか、僕には分からなかった。
「痛いよ、離して」




