03. 誤解
森の静寂を取り戻したと思ったのも束の間、遠くから枝を踏み折る荒々しい足音が迫ってきた。
私は振り返らないまま、その気配に意識を向ける。
人間が数人。
その中には、練達の騎士らしい鋭い威圧感が混じっていた。
「あなた、ミーナから離れなさい!」
木々の向こうから、切羽詰まった女性の声が響く。
枝葉を掻き分けて姿を現したのは、甲冑に身を包んだ騎士たちと、その中央をなりふり構わず駆けてくる一人の女性だった。
「ミーナっ! 無事なの!?」
「お姉ちゃん!? どうしてここに……」
「あなたの帰りが遅いから探しにきたのよ!」
女性は息を切らしながら駆け寄ると、地面に座り込んでいる娘――ミーナの姿を確認した。
大きな怪我がないと知るや、安堵に肩を揺らす。
しかし次の瞬間には、ミーナを庇うように立ち塞がって、私を強く睨みつけた。
「あなた、森の魔女ね!? 妹に何をしたの!」
「お姉ちゃん、落ち着いて……」
「あなたは黙っていなさい!!」
鋭い叱責に、ミーナの肩が小さく跳ねた。
私は冷ややかに二人のやり取りを眺め、周囲を取り囲む騎士たちへ視線を移す。
前衛の剣士が二人、後衛の術士が一人。
そして中央に立つ男からは、剣士とは明らかに異なる濃密な魔力が揺らめいていた。
魔法騎士――剣と魔法を兼ね備えた、人間の中では厄介な相手だ。
「……私は帰るわ。その娘には、もう興味がないの」
無用な争いを避けるため、静かに踵を返そうとした、その時。
「待てっ!」
背後から、鼓膜を突くような一喝が飛んできた。
「森に棲む邪悪な魔女め! 数々の旅人を襲い、命を奪ってきた罪、ここで裁いてやる!」
――また、それか。
人間を襲ったことなど一度もない。
魔獣に殺された死体から使えそうな道具や魔石を回収したことはあっても、自ら手を下したことなどないのだ。
だが、人間たちは『魔女が殺した』と信じて疑わない。
否定する気も起きなかった。
千年間、ずっとそうされてきたのだから。
「隊長、ここで始末を……!?」
「ああ。害悪は芽のうちに摘む」
じゃき、と金属が擦れる嫌な音が響き、周囲の空気が一気に凍りつく。
(……争いは避けられない、か)
私は息を吐き、騎士の方に向き直って右手に魔力を集め始めた。
少し痛めつけて、無力化して去るしかない。
家にある薬を使えば私の傷などすぐ治るし、人間相手なら死なない程度に加減もできる。
――だが、その視界の端に、青ざめた顔で私を見上げるミーナの姿が入った。
さっきまで私の腕の中にいた、あの温かな身体。
あの娘の目の前で、人間を傷つけることに、なぜだか、躊躇いが胸を突いた。
自分でも理解できない甘さを振り払うように、指先に込める魔力を強めた――その、瞬間。
「みんな、ダメっ!!」
悲鳴のような叫びとともに、正面から小さな影が飛び込んできた。
「……え?」
どん、と心地よい衝撃。
細く華奢な腕が、私の腰へぎゅっと回される。
お腹のあたりに飛び込んできた柔らかな感触。
私の衣服をぎゅっと握りしめる小さな手と、胸元に触れる温かな吐息。
――あの時、枯れ葉の上で重なり合った時と同じ、香油の匂い。
ミーナは私にしがみついたまま、顔だけを後ろへ向け、姉や騎士たちを真っ直ぐに睨みつけていた。
その顔は恐怖に青ざめ、肩は震えている。
それでも、私から離れようとはしなかった。
「魔女さんは、私をグリズリーから助けてくれたの!」
「お嬢さん、離れなさい! それは人を惑わす邪悪な魔女で……」
「邪悪な魔女が、こんなに温かいわけない!!」
叫びとも言えるその言葉は、静まり返った森にどこまでもまっすぐ響き渡った。
あまりにも堂々と言い切られたものだから、私は言葉を失い、思わず目を丸くした。
「私を助けるために、魔法で悪いグリズリーをやっつけてくれたの! 魔女さんを攻撃するなら……私、お姉ちゃんも騎士様たちも、絶対に許さないんだから!」
ミーナはさらに腕に力を込め、頬を私の背中へ強く押しつけながら、最後には騎士たちに向かってべーっと舌を出してみせた。
静寂。
静まり返った森の中で、姉も、騎士たちも、開いた口が塞がらない様子で固まっている。
そして――一番ショックを受けていたのは、私だった。
(温かい、だって……?)
恐ろしい怪物として見られ、忌み嫌われ続けた千年の月日。
それを、この小さな人間は、たった一言で呆気なくひっくり返してしまったのだ。
じわじわと、胸の奥から熱いものが込み上げてくる。
込み上げて、弾けて――。
「……ふふ」
抑えようとしたけれど、無理だった。
「……くすっ、あははははっ!」
私は声を上げて笑ってしまった。
何百年ぶりだろう。
いや、千年の孤独の中で、こんなふうに腹の底から笑ったことなんて一度もなかったはずだ。
「……ふふふっ。まさかこの世に、私のことをそんな風に言う奇特な人間がいるなんてね」
可笑しさに肩を揺らしながら、私は胸元にしがみつくミーナの頭へ手を伸ばした。
やわらかな髪に指を沈め、愛おしさを込めて優しく撫で下ろす。
ミーナは驚いたように目を瞬かせたあと、安心したように満足げに目を細めた。
その可愛らしい顔を見ていると、騎士たちへの苛立ちも、戦う理由も、すべてがどうでもよくなっていく。
「……いいから、もう離しなさい」
名残惜しさを隠しながら、そっと彼女の肩を押して腕をほどかせる。
身体から温もりが離れた瞬間、急に森の風が冷たく感じられて、私は理由を考える前に素早く背を向けた。
視線を落とすと、足元には先ほど彼女が転んだ時に籠からこぼれた薬草が散らばっている。
私はその中から、状態の良い葉を数枚だけ摘み上げた。
「あっ……魔女さん!」
「お礼はこれでいいわ」
ポケットに薬草を滑り込ませ、私は今度こそ森の奥へと歩き出した。
「待ちなさい、魔女!」
「ミーナ、戻りなさい!」
背後で姉や騎士たちの慌ただしい声が聞こえるが、もう追ってくる気配はない。
「魔女さーん!」
最後に聞こえたのは、あの澄んだ、心に残る歌声と同じ声だった。
「助けてくれて、ありがとうーーっ!」
振り返らない。けれど、夕闇が迫る森の中で、私は緩んだ口元を隠すことができなかった。
――千年という長い退屈も、悪くないかもしれない。
胸の中に残った心地よい熱を感じながら、私は静かな家へと帰路についた。




