04. 変化
鍋の中では、何も入っていない澄んだ湯が静かに煮立っていた。
小さな気泡が鍋底から立ち上り、水面をかすかに揺らしている。
窓から差し込む午後の陽光は、森の木々を通り抜けるうちに細く砕け、古びた木の床へ淡い緑の影を落としていた。
森は今日も静かだ。
鳥のさえずりも、風に擦れ合う枝葉のざわめきも、いつもと何ひとつ変わらない。
千年のあいだ、私が独りで過ごしてきた不変の日常。
――いや。
正確には、今は『独り』ではない。
「ヴィオラさーん!」
からん、と玄関の扉が開く音とともに、透き通った明るい声が静寂を突き破って飛び込んできた。
私は小さくため息をつきながら、鍋の火を消す。
――口元が自然と緩んでいるのは、ただの気のせいだ。
「あっ、いたいた! ヴィオラさん」
「ミーナ。あなた、何度言えばノックができるようになるのかしら」
現れたのは、数か月前の出会いの日と変わらない無邪気な笑顔を浮かべたミーナだった。
今日は柔らかな布のワンピースを身に纏い、陽光を浴びた髪には森の小さな花びらが一枚引っかかっている。
彼女はそれに気づく様子もなく、抱えていた籠をテーブルへ置いた。
「えへへ、ごめんなさい。また忘れちゃった」
悪びれずに笑い、それからミーナは、野薔薇のように頬を赤らめて呟いた。
「だって、一秒でも早くヴィオラさんに会いたかったんだもん」
「…………」
私は返事ができなかった。
……こういうところだ。
この娘は、いつだって私に剥き出しの自分を見せてくる。
あの日、森の奥で助けて以来、ミーナは毎日のようにこの家へ通い詰めるようになった。
最初は姉に持たされた薬草や保存食を届ける口実だったはずなのに、いつの間にか用事など関係なくなり、今では朝に顔を合わせたはずなのに夕暮れ時にはまた扉を叩いていたりする。
お茶を飲み、菓子を食べ、私の調薬を飽きもせず眺め、気が向けば森で摘んだ野花を飾り、帰る時間になると名残惜しそうに何度も振り返る。
千年間、私以外の誰の気配も拒絶してきたこの家に、いまやミーナの痕跡が満ちていた。
テーブルの上には、彼女が持ち込んだ小さな陶器のティーポット。
窓辺には、季節の花が挿された硝子の花瓶。
本棚の隅には、ミーナが「ヴィオラさんみたい」と言って置いた木彫りの小猫。
そして――彼女がいつも腰掛ける、定位置の椅子。
私がそれらを一度も片づけようとしない理由を、この娘はどこまで気づいているのだろう。
「見て見て、今日はラングドシャを焼いてきたの!」
籠の布をめくると、香ばしいバターと砂糖の甘い香りがふわりと広がった。
「……また作ったの?」
「うん。お姉ちゃんに手伝ってもらいながら……ヴィオラさんのために。ふふっ」
「そう。……紅茶を淹れるわね」
「あ、ヴィオラさん、もうお湯沸かしてくれてるじゃん」
ミーナが嬉しそうに鍋を覗き込み、ぱっと顔を輝かせる。
「もしかして、私が来るの待っててくれた?」
「……たまたまよ」
「ふぅん?」
悪戯っぽく細められた瞳から逃れるように、私は棚から茶葉を取り出した。
ポットに乾いた茶葉を落とし、沸かしたての湯を注ぐ。
立ち上る白い湯気とともに、茶葉が熱を吸ってゆっくりと開いていく。
薬草の青臭さしか知らなかった部屋に、紅茶の華やかな香りと、ミーナの甘い香油の匂いが溶け合っていく。
茶葉を乾燥させたものから、こんなにも温かくて美味しい飲み物ができるなんて。
世界にはこんなにも甘やかなものがあるのだと、全部、この娘が教えてくれた。
「ヴィオラさん」
「……なに?」
「こっち向いて」
言われるがまま、振り返った瞬間だった。
ふわりと、甘い香油の香りが鼻腔をくすぐり――柔らかな温もりが、私の唇へと触れた。
「……っ!?」
息が詰まり、目を見開く。
目の前に、伏せられたミーナの長い睫毛があった。
肌が触れ合うほどの至近距離。
触れ合っていたのは、ほんの一瞬。
羽がかすめるような、淡い口づけ。
けれど、唇に残された体温があまりにも熱くて、全身の血が跳ね上がるのを感じた。
ミーナがゆっくりと身を引き、上目遣いに私を見上げる。
その頬は、夕焼けのように朱に染まっていた。
「……何をしているの」
「キス」
「それは分かるわ」
乱れそうになる呼吸を必死に抑え、私は人差し指で自分の唇をなぞった。
じんと痺れるような熱が、消えてくれない。
「……誰にでも、こういうことをしているんでしょう」
動揺を隠すため、あえて冷たい声音を絞り出す。
だが、ミーナは怯むどころか、愛おしそうに目を細めて一歩踏み込んできた。
「しないってば」
彼女の指先が、私の袖をきゅっと掴む。
「ヴィオラさんだけだよ。……何回も言ってるじゃん」
すぐ間近から注がれる、混じり気のない真っ直ぐな視線。
逃げ場を塞ぐように、ミーナは鈴を転がすような声で囁いた。
「ヴィオラさん……好き」
森を渡る風の音も、立ち上る湯気の気配も、すべてが遠のいていく。
静寂に満ちた世界の中で、その言葉だけが私の胸の奥深くまで染み渡っていく。
「……そう」
「本気だからね」
「…………そう」
千年の時を生きてきた。
人間が生まれ、老い、土へと還っていく様を、数え切れないほど見送ってきた。
町が広がり、文明が栄え、自分とは無関係な時の流れを、ただ冷ややかに眺めてきたはずだった。
そんな私が。
たった一人の、どこにでもいるはずの町娘に心を乱され、毎日を待ち焦がれ、挙げ句の果てにはこんな告白に胸を焦がしているのだ。
「ヴィオラさんの、かっこいいところも、本当は優しいところも……全部知ってる」
袖を握る指先に、ぎゅっと力が込められる。
千年間、誰も見ようとしなかった私の奥底を、この娘はいとも容易く見透かしていた。
心臓が早鐘を打ち、胸の奥が締め付けられるように熱い。
「全部……好き、だから」
「……ミーナ」
「それだけっ!」
言い切ると、ミーナは耐えきれなくなったように真っ赤な顔を背けた。
耳たぶまで林檎のように染め上げ、小さく肩をすぼめている。
その無防備で愛らしい姿に、私の中の何かが、ぷつりと音を立てて解けた。
「……ミーナ」
「ん?」
私はミーナの頭にそっと手を伸ばし、髪に引っかかったままの花びらを指でつまみ取った。
「これ、ずっと髪についてたわ」
「やだ、恥ずかしい……ありがとう、ヴィオラさん」
「それと」
「……え?」
私はそっと手を伸ばし、彼女の滑らかな頬へ掌を添えた。
指先が触れると、ミーナは小さく息を呑み、驚いたように瞳を揺らす。
木漏れ日を溶かしたような琥珀色の瞳に、私の姿だけが映っていた。
「ヴィオラ、さん……?」
その名を呼ぶ唇を、私は逃さなかった。
引き寄せるようにして、自分から顔を寄せる。
「……んっ」
今度は、触れるだけではない。
千年の渇きを埋めるように、彼女のやわらかな下唇を深く食み、吸い寄せた。
甘い吐息が混ざり合い、濡れた熱が唇の間から溢れていく。
ミーナの身体が小さく震え、やがて縋りつくように私の胸元の衣をぎゅっと握りしめてきた。
「……ふ、んぅ……っ」
呼吸が奪われるほどの口づけのなかで、胸の奥が甘く疼く。
名残惜しさに引き止められながら、ゆっくりと唇を離した。
至近距離で重なる熱い息。
ミーナは潤んだ瞳で私を見つめ、呆然と唇を震わせていた。
「……ミーナ」
「あ……」
「……あなたのこと、嫌いじゃ、ない、わ」
精一杯の言葉を紡ぐと、ミーナは一瞬ぽかんと目を丸くし――次の瞬間、満開の花のような笑顔を咲かせた。
「ヴィオラさんっ……!!」
たまらず飛び込んできた柔らかな身体を、私はそっと両腕で受け止める。
胸いっぱいに広がる香油の匂いと、確かな命の温もり。
「ヴィオラさんからキスしてくれたの、初めてじゃん」
「……そうね」
「私のこと、好きになっちゃった?」
「……うるさい。たまたまよ」
「ふぅん? ふふふふふっ」
千年生きて、こんな小娘に絆されてしまうなんて。
まったく、我ながら呆れるほどに、甘い魔女になってしまったものだ。
窓の外では、木漏れ日が静かに森を渡っていく。
千年のあいだ止まっていた私の時間は、いま、確かな熱を帯びて動き始めていた。
二人を最後まで見守っていただいてありがとうございました!
ブートキャンプのお題に合わせつつ、最後しっかり甘々いちゃいちゃエンドに終わらせるのに少し苦労しました。
最終的にはいい感じに書けてよかったです!




